セントシェールの境界線 .6
その夜は、一晩中ぼんやりと考え込んでいた。
俺が成したかった事。
しでかした事。
ミラさんに言われた事。
そして何よりも、ラズの事。今後の事を。
その夜だけは悩んで、日が昇る頃には気持ちを切り換えていこうと決めていた。だからこそ、ただひたすらとりとめもなく、ぼんやりと考えていたのだ。
ふと空を見上げたら、深い夜色の中に浮かんでいた数億個の星の輝きが、溶けるようにして消えはじめていた。やがて暁が、宵闇を塗り変えていった。
海原の上空に漂う、綿を薄く引き延ばしたような朧雲が、赤に朱色に、やがて下部を藤色に染めた後に白さを取り戻していく。
眩しいくらいの新しい朝。一睡もしていないというのに、頭の中は妙に落ち着いている自分だけが残った。
「ディオ兄ちゃん」
いつの間に部屋にいたのだろう。あまりにもぼんやりとしていたせいか、声をかけられるまで気がつかなかった。
振り返れば、心配そうなラズと目が合う。その姿がおかしくって、つい、くすりと笑ってしまった。
「おはよう、ラズ」
「おはよ……。ずっと起きてたの?」
「まあ、ね」
応えてから、こればっかりは先送りにしてはいけない気がした。窓の外にいたエンマも呼んで、真っ直ぐにその視線たちに向き合ってやる。
そして独白するように、口を開いた。
「考えていたんだ、これからのこと」
「これから?」
「ああ。ラズはもう、俺の奴隷じゃない。だから……好きなところで、好きに生きてくれて構わないんだ」
一度切った言葉に、リアクションはない。
「それはエンマにも言えることで、何もふたりがこれ以上、俺に付き合う必要はない」
今までありがとうな。
俺のやっと出た決意が揺るがないように、でも、今度こそ心からお礼を告げた。
ふたりが離れていくのは、覚悟の上だった。これから俺はどうするのか? ……考えないようにはしていたが、その際はその際で、ジジイに土下座でもして、ギルドで働かせてもらおうと思っていた。
……でもやっぱり、ふたりからはリアクションがない。
俺がこんなことを言い出すなんて予想外だったと、という事なのだろうか。ラズとエンマは互いを見合わせ、また視線が返ってくる。そこに、言葉はない。
何を言われるのか、今までの事を思えばハラハラしない訳がなかった。泣かれるだろうか、怒られるだろうか。
……けれど、俺の予測は裏切られる訳で。
「兄ちゃん、それでお話って終わり?」
「えっ?」
まるで、今更何を言っているの? なんて言わんばかりに見返されて、俺の方が戸惑った。エンマなんて、わざわざこっちに来て損したと言わんばかりにあっさりと飛び去っていく。
えー、ちょっとー?
何だ? 俺の言い方が悪すぎて伝わらなかったのだろうか?
「いや、そうだけど、あのさ――――」
「なら、朝御飯食べに行こっ! 呼んできてって、お願いされたんだから」
有無を言わさず腕を引かれて、振り払える訳がなかった。
と、いうか、最早ここまで伝わっていないなんて、泣けてくるのだが?!
愕然としている内に部屋を出かかって、慌ててその手を強く引いて差し止めた。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待てって……! だからさあ、ラズ! お前はもう自由だって言っているんだって―――」
「うん、聞いてたよ? だから、自由にしてるよ?」
再び見上げてきた表情は至って真剣で、俺の言葉は尻すぼみになってしまう。あ……っと、声が出かかったそれよりも、先回りされた。
「僕は兄ちゃんの側にいたくて、そして兄ちゃんが隣にいてくれって言ったんだよ? だからここにいるじゃない。エンマだって、同じだよ?」
僕、何か間違ってた? なんて、ことりと首を傾げて見上げてくる我が義弟があざといです。
きっぱりと言われて、敵わないなぁ……なんて苦笑してしまう。それが、やっぱり俺の言葉のせいだとしても、嬉しかったのだから仕方がない。
「まだ、俺の弟でいてくれるのか?」
「そりゃね! 当然でしょう?」
「……そうか。ありがとう、ラズ」
「お礼を言われるようなこと、してないよ?」
にこっと眩しいくらいに笑われて、それよりも早く行こうと急かされた。腕を引かれるままに小走りすれば、石造りに敷かれた絨毯に、パタパタと小気味良い足音が二つくぐもって響く。
誰かとこうする事がこんなにも嬉しいと思う日が来るなんて、思ってもみなかった。正直、ありがとう、なんてちんけな言葉だけでは、感謝しきれない。
廊下を行くほどに、海の幸や焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂ってきた。久しく嗅いだ『つくりたて』の香りに、自然と足が早まったのは仕方がない。
あまりにも待ち望んでいたのか、つられて腹の虫がぎゅるる、なんて盛大に主張してくれた。だからつい、ラズと一緒になって笑ってしまった。
連れられて通されたのは仕切りや扉のないキッチンだった。この向こうにダイニングがあるんだよ、なんて教えてくれる。
建物と同じ青の石造りのキッチンはガランとして、ものさびしく感じてしまうほど整然としている。
一応、誰かが使っていたらしい。玉子を炒ったような残り香がある。調理器具や火を扱った痕跡がなければ、間違いなく人が住んでいるのか疑っていたところだ。
そしてキッチンに唯一立っていたその姿に、大変驚かされた。
不敵に笑うのは、大陸系民族風の美女だ。本日もまた、アザラシの毛皮をその身にまとっている。
「やあ、ディオ。おはよう。昨日はよく眠れたか――――って、その顔じゃ寝ていなさそうだな。でも、昨日よりのずっとすっきりした顔してるよ」
「おはようございます、メイさん。あの、昨日はろくにお礼も言えず――――」
謝ろうとすれば、あっけらかんと手で制された。
「ああっ、待った待った。そんな堅っ苦しいものはいらないよ。あんたが元気になった。その事実があれば、私は十分なのさ」
「それでも、ありがとうございます」
「……ったく、律儀な奴だな」
ぺこり、頭を下げてお礼を押し通せば、メイさんには苦笑されるばかりだった。でも俺だって、言うべきお礼くらいすんなりと言わせてほしいものだ。
「あ、ディオさーん。おはようございます、こっちですよ~」
お盆を手にしながら、ソアラさんはとてとてとこちらにやって来た。手招きされて、そちらへ足を運ぶ。
「おはようございます、ソアラさん。昨日はありがとうございました」
「お礼なんて無用ですよ、ディオさん。それからラズさん。お手数おかけしました。ありがとうございます」
「ううん、全然」
キッチンを横切りすれ違い様にソアラさんに言われて、ラズの得意気な顔に笑ってしまった。その俺の様子を見て、彼女が目に見えてホッとしたらしいのが解った。
なんかホント、俺は優しいヒト達に囲まれていて、なんとも幸福者じゃないかと思い知る。一人で思い詰めていた俺は大馬鹿者じゃないだろうか? 昨晩の自分を罵りたくなってくる。
ダイニングへ入ると、ミラさんにパズクさんが既に席についていた。……ソアラさんが給仕をやっている不思議については、突っ込んだらダメだろうか。
「おはようございます、ミラさん、パズクさん」
「おはようございます」
「おはよう、吹っ切れたみたいね」
「どうにか、お陰様で。昨日はありがとうございました」
改めてふたりにお礼を言うと、やはりミラさんには笑われた。
「貴方が気にすることなんてないわ」
「同感です。礼は不要、それでも気にされるのであれば、行動で示してください」
パズクさんにまでそう言われて、苦笑せざるを得ない。
そうさせて頂きます、なんて。今の俺にそれがどれくらい体言出来るのか不明だが、このヒト達の為にも、立ち止まっている訳にはいかないな、なんて思ってしまう。
ダイニングの石造りは変わらず、木目が綺麗な大きなダイニングテーブルがどっかりと置かれていた。清潔そうなレースのテーブルクロスが部屋を華やかにしている。
何織りって言えばいいのか解らないが、細やかな唐草模様のようなものが織られている、生成りに若草色のラグやタペストリーにぬくもりを感じた。
大きな窓から入ってくる日差しが、柔らかくて心地よい。
食卓にはプレートやサラダボウルがところ狭しと並べられていた。その量には目を見張るほどだった。
青々しい葉物野菜には炒った卵が添えられて。野イチゴとさらさらとしたヨーグルトから作ったソースがグリーンサラダに彩りを与えている。
大皿のプレートにはエビや貝、何かの白身魚といった魚介類たっぷりのパエリアや、赤や緑、黄色といった沢山のカラフルな野菜と燻製肉の炒め物が食卓を占めていておいしそうだ。
ここらは湖といっても海に近い汽水域だから、正直もっと、小麦や大麦が食の中心になってくるんじゃないかって思っていた。でも予想に反してこんなにも新鮮な野菜がでてくるなんて、なんとも驚きだ。米が食べられるのは、なかなか嬉しい。
カットされた果物はどれもみずみずしかった。オレンジやパイナップルのような、一目で南国系だなんて思ってしまうような色鮮やかなものが並べられていた。……これ、誰がそんなに沢山食べるんだ? なんて、疑問に思ってしまうほどだ。
ひとりひとりに並べられていくのはブイヤベースだろうか。湯気の立つその磯と魚介の出汁の香りは、今から待ちきれないくらいに食欲をそそる。
一つ、場違いに思えてくるくらいに目に留まったのは、おそらくメイさんの座る席だろう。
それまでは海外の華やかな料理ばかりだったような気がするのだが、メイさんの席にだけ、ナメロウらしき、『生魚のスプラッタ』が異彩と生臭さを放っていた。
……多分、藪蛇になるだろうから、突くのはやめておこう。
「それにしてもこれ全部、メイさんが作ったんですか?」
後から遅れてソアラさんと共に入ってきたメイさんに、つい、そんな事を言ってしまう。
「あっはは、当然だろう? ここではそう珍しいことではないさ。魚は誰でも捌けるものだからね。それともなんだ? ディオは私が料理の一つも作れないとでも思っていたのか?」
「いやあ、えっと、その……」
「あっははははは! 素直でよろしい」
豪快に笑い飛ばされて、途端に自分の発言が恥ずかしくなる。気にするなと背中を叩かれて、メイさんはテーブルにつくのだった。
「さあ、朝餉にしよう! 座った座った! 生きとし生けるもの、我らの糧になったもの達に感謝して、いただきます!」
「いただきます」
* * *
「それでは、お世話になりました」
庭先で待つエンマのところに行ってから振り返ると、軒先に立つメイさんが石段の上からこちらを見下ろしていた。勝ち気な顔が、にやりと笑う。
「もっとゆっくりしてくれて構わないのにな。やはり、長居はできないか?」
心配してくれているのか、なんて、気がつかない訳がない。
「ははっ、そうですね……。すみません、お気持ちだけ頂いておきます」
「いいや、ディオが気にすることではないさ。それに、君とはまた相対出来る気がするよ」
あまりにも自信たっぷりに言い切られるから、思わず笑ってしまった。
「ええ。その時はその時でよろしくお願いいたしますね」
「今度来てくれたときには、第四、五階層を案内しよう。きっと気に入るぞ」
「はい、その時は是非」
ミラさんには叱責されて、ソアラさん達には見守られて。しばらく焼き付いた残像幻聴には悩まされそうだが、お陰で前を向いていられる。そんな気がする。
それを思えば、止まってなんていられない。
「メイさん、お世話になりました」
「ああ! 元気でやれよ。あと、頼んだからな」
軽く手を上げて送り出してくれた彼女に、笑い返して請け負った。
「もちろん。――――ラズ、エンマ。さあ、行こうか!」




