セントシェールの境界線 .5
「――――い……ちゃ!」
ちらちらと、瞼の上から刺す光が眩しい。
時折、何かを思い出したようにドクッと動悸がするのだった。心臓の奥が、軋むように痛い。
忍び寄ってくるような何かから逃げたくて、そして、誰かに呼ばれて揺り起こされて、ふっと視界が開いた。脂汗が額に滲んでいるのが解る。
何事もなかったかのような晴れ渡る青空が建物の向こうに見えて、途端に恨めしく思えた。
「兄ちゃん!」
「ぁ…………」
今にも泣きそうな表情で、覗き込んできたその姿に漸く気が付く。その元気そうな姿が見られて、自分が心底ほっとしていることに気が付いた。
「ラズ……無事か……?」
散々痛めつけられて動かすのもツラい筈の手を伸ばせば、子供体温のぬくい手が掴み返してくる。俺がかぶったもののせいで、そのきれいな手を血で汚させてしまったと思うと、申し訳なさでいっぱいになってくる。
その事実から目を背けたくて、視界を消す。でも寝転がっていても仕方あるまいと、すぐに思い直す。
どうにか身体を起こそうとしたら、思っていた以上に痛みはなかった。ラズが即座に手を借してくれたお蔭かもしれない。
色々なものから目を背けていたくて、落ち着かない気持ちで周りに目を向ける。そこで漸く、第二階層の人気のない路地に転がされているのだと知る。
全部夢か。
……なんて思いたくとも、まるでそうはさせないと言わんばかりに、転がっている魔剣の残骸が目に留まって、また一気に気持ちが重くなった。夢なんかじゃない……んだよ、な。
「兄ちゃんは、ここで待ってて。僕がすぐにやり返してくるから! 今なら僕、なんでも出来――――」
「やめてくれ」
どこか遠くを睨んで今にも飛んでいきそうなラズに、俺は気が付けばぴしゃりと告げていた。
「けどっ!」
全く納得していない。そんな表情に責められている気がして、ゆるく首を振って項垂れた。理由も解らないのに、涙がこぼれそうになる。
ラズの手を放してしまわないようにと、掴んでいた俺の手に力がこもる。
「やめてくれ。頼む」
こんな事、願っていい立場じゃないのは解っている。解ってはいても、これ以上はもう、耐えられそうになかった。
「…………今だけでいいから、そばにいてくれないか」
ラズを縛っていたものは全て、壊された。それは、奴隷魔術による呼吸停止の命令だけじゃない。奴隷魔術、そのものも。
多分ラズも、それには気が付いている筈だ。だからこんな頼み、聞く必要なんて無い。
それでも。
少し強くその腕を引けば、俺の腕の中に来てくれた。その存在を確かめるように強く抱き寄せると、今度こそ勝手にあふれた涙が、視界を滲ませた。
何処かしら、感覚がぶっ飛んでるのだろう。あれだけ痛めつけられた身体よりも、もっと、身体の芯がジクジクと痛んでバラバラになりそうに錯覚してしまう。
こんなところで、泣く訳にはいかない。けれど、震えを止めることは出来そうになかった。
腕の中で、少なくともラズが戸惑っているのが解る。
「兄ちゃん……」
離してやらなきゃ。
そもそも俺の都合で、ラズを奴隷のままそばに置いていたのだから。
でも、離したくない。離したくないんだ。
今だけ。立ち上がるまでの、少しの時間だけでいいから。そばにいて欲しかった。
「行かないよ、ディオ兄ちゃん。行かないから、泣かないで? 僕は、ここにいるから。ね?」
「ごめんな……」
宥められたことに、情けなさよりも先に安堵があった。お礼が出なかったのはやはり、引き留めてしまったことを――――ちゃんとその手を離してやれていないことを、俺は悪いと解っている。
ぐずぐずと駄々捏ねるなんてらしくない。最後の最後も、かっこ悪いところだけだ、なんて嫌だ。
でも。
カッコ悪い所を見せたくないって思えば思う程、相反する衝動がこみ上げて止まない。
うずくまりたい。もう何も見ないで済むように。
引きちぎってしまいたい。脳裏に焼き付いて離れないこの残像を、網膜ごと、全部。
そうして懸命に堪えていれば腕の中でラズが身じろぎした。
「こんなところにいたのですね」
聞き覚えのある淡々とした静かな声。
「ソアラたちも心配しています。戻りましょう」
顔を上げるまでもなく、パズクさんだと理解する。
きっとこのヒトには、臭いで何もかもが筒抜けているのではないだろうか? 何にしても、ソアラさん達に合わせる顔がない。
そのままの状態で首を振れば呆れたように溜め息をつかれてしまった。
「あいにく、ソアラには連れてくるように言われているんです」
「あ」
「……ぃっ?!」
不意打ちで乱雑に首根っこを掴まれて引き上げられたかと思うと、腹に腕が回ってきて、あっという間に肩に担がれた。俺の意見なんて知ったことではないらしい。
「え、ちょっと?!」
あの、パズクさん。腹に肩食い込んで痛いです。物理的に頭に血がのぼる……!
「暴れないでくださいね。うっかり水に落としますよ」
俺よりも多少小さなその背格好故に、不安定さが怖くて動いたら軽く揺さぶられた。下手にそれ以上動けば、間違いなく実行される気がしてならない。しかも白々しすぎて怖い。
そして一方的な決定事項を行使されて、戸惑わない訳がなかった。……多分、どれだけ俺が騒いでも、素知らぬ顔で拉致られるに違いない。現に「……おや。あなたも、お怪我を?」 とラズに首を傾げたパズクさんは、ラズも担いで行こうか? と言わんばかりだ。
「え? 僕は……ううん。ちょっと切っちゃっただけだから大丈夫、です。これくらいならすぐに治ります」
「そう。なら、いいです。貴方のお兄さんともども、ついてきてくれますね?」
有無を言わさないとは、こういうことか? ラズまでも、大人しく頷いてしまっている。
第一俺、『ついていく』じゃなくて『連れていく』、だし。
「やめてくれ、離して。パズクさん」
「申し訳ありませんが、私にとってソアラの命令は何よりも優先される事項です。苦情はついてから聞きましょう。それに、この程度の怪我であれば、メイが治してくれますからご心配なく」
「っ……違う。そうじゃないです。俺には、治療を受ける資格なんて……」
「何があったかは知りませんが、巫女相手に手当を受ける資格が云々、言えるとは思わない事ですね」
諦めて少し静かにしてください、と。きっぱりと俺の意見なんて跳ねのけられて、ぐうの音も出ない思いだった。心配そうにこちらを見ているラズでさえも、パズクさんの意見には同意らしい。
「その有様を見て、周りが心配しないとでもお思いですか?」
甘えてしまっているのかもしれない。それでも、とどめのようなその一言に、俺は、すみませんと、謝るほかになかった。
* * *
窓枠に腰かけていれば、暗闇の向こうからさわさわと水の流れてくる音が聞こえてくる。それ以外、夜の静寂が心地よい。
暗くとも、メイさんが貸してくれた庭先で、エンマがうずくまっているのが見える。その存在感に、ほっとする。
あたりはもうすっかり暗くて、海が見えるこの窓からは、水平線の際まで満点の星空が広がっている。今夜は月の光が弱いらしくて、より一層数億の小さな輝きが輝いて見えるのだろう。
パズクさんに連行されたあと、なかなか散々な目にあったもんだ。
メイさんの屋敷に連れ戻されて早々、玄関先で待っていたらしいミラさんに暗い表情をさせてしまった。血濡れだし背中はぼろぼろだしで、きっと見た目は酷かったと思う。実際見た目だけで、俺が思っていたよりも怪我は酷くないみたいだったけどな。風にさらされても沁みなかったし。
ただ、すっかり頭に血がのぼってふらふらしていた俺に、大丈夫? だなんて声をかけてくれた時に覗き込んできたその表情、罪悪感から目を合わせることすら出来なかった。
大丈夫です、平気です。だなんて、うわごとのように繰り返して、余計に悲しませてしまった気がする。
次に上がったのは悲鳴。言うまでもない、ソアラさんがめちゃくちゃ慌ててすっ飛んできた。
聞きば、パズクさんに運んでもらわないといけないほど失血して死にそうに見えたんだとか、何とか。
そんなソアラさんを苦笑混じりに宥めてくれたのが、メイさんだった。
「手酷くやられたようだな」
ソアラさんの慌てっぷりに苦笑していたものの、俺の有様そのものに同情とか憐れみは感じていないようだった。ただ、「命があってよかったな」 と。そう続けられた言葉に、俺は頷くことが出来なかった。
…………そして。労わってくれたのは、ここまでだった。
「じゃあ、パズク。あんたには手を煩わせて悪いんだけど、ディオをそのまま大浴場の方に放り込んでくれるか。新しい水を引いたら私もすぐにそちらに向かおう」
「承知」
「あの、あのメイさん! 私もお手伝いいたしますっ」
「え、いやちょ……待っ――――――」
「そうそう、大浴場についたらディオ、服は脱いでおけよ? 別に服ごと湯につかるならばそのまま洗濯してやっても構わないが、傷口に触れて痛い思いをするのはお前だからな。お勧めはしないぞ?」
「いや、だから……!」
怒涛のような指示に戸惑わない訳がない。そして何故か妙に気合の入るソアラさんには正直焦った。
お願いだから張り切らないで欲しい! ソアラさんが張り切ると、絶対ろくな目にならないから!
――――なんて願いも空しかった。
パズクさんに担がれたまま、建物のどこかに連れていかれそうになって、咄嗟に壁にかじりついてしまったのは仕方あるまい。
「ちょと……待って、くださいよ!」
不機嫌そうにパズクさんには見られ、メイさんには呆れられて手を掴まれた。つい、彼女の手を汚してしまうことが怖くて、びくりと壁から離して手を引っ込めてしまう。
「ディオ、諦めることも大切だ。私の目に怪我人が映ってしまった以上、それがどこの誰であろうが助け、手を尽くすのが私の巫女としての責務。安心するがいい。お前は大船に乗ったつもりで治療を受ければいいだけの事だからな」
「いやだけど、これは俺の責に――――」
「怪我を負った原因には責任が伴ってくるだろうが、治されることに責任は生じない。そこは治療する側の責務だろう? 男のくせにグダグダ言うな」
その力強い表情にきっぱりと言い切られて、一瞬俺は言い負けそうになってしまった。でもその言い分、無理やり過ぎておかしくないか。
「いや、そんなこじつけもいいとこ――――」
「あの……! 僕からも、よろしくお願いします!」
「ああ、任された。そう言う訳だディオ。諦めろ」
「おい、ラズ!」
そう思っての反論だったのに、ついにはラズにも見放され、俺は大浴場に着の身着のまま放り込まれたのだった。
慌てて逃げ出そうとして、また何かに足を取られたときは発狂するかと思うほどだった。それが植物のツルで、大浴場に先回りしていたソアラさんによる策略だと知った時には、一気に血の気が引いたものだった。
「ディオさぁん? その怪我でどこに逃げようって言うんですかー?」
なんて。
もう、男性が苦手だって言っていたソアラさんは一体どこに行ったのだろうか。いくら俺が見た目だけ大怪我人だったにしても、あんまりだと思わないか。
そこから始まったのは、あとからやってきたメイさんも加わった、二人の巫女様によるありがたい治療だった。そして、怪我を負ったことに対するお説教だ。
幸い、事の顛末を根ほり葉ほりは聞かれなかったが、もはや、センチメンタルになっている暇すらもなかった。
そのあと?
親切な巫女様の方が、よっぽどトラウマになるかと思った。さんざん大騒ぎだったせいか、お蔭で少し、その時だけは気持ちが楽だったと思う。
……治療っつって、服を引っぺがされるのはもう、勘弁してほしいけどな。
返り血や泥をすっかり落とされて、手のずるむけになっていた豆や鞭打ちの痕跡はすっかり跡形もなく治してもらった。けれども、この目に焼き付いてしまったあの顔や、鉄臭さ、今も手に残るあの感触は、彼女たちの優秀な治療をもってしても消えてくれそうになかった。
だからこそなのだろう。今日は家でゆっくり休んでいけ。メイさんに有無を言わさない勢いで押し切られて、あれよあれよと気が付けば、この部屋に通されていた。
これだけ痛めつけられたのに、ソアラさんたちの説教の方が『散々だった』だなんて、どうかしている。
つい、自嘲気味の笑みがこぼれた。
不意に、ずっと俺の座る窓に背中を預けて座っていたラズが、離れて行ったのが解った。扉の開く音に、寝に行ったのだろうかと当たりをつける。
「何か気になっていることがあるんじゃないかしら」
誰もいなくなったと思っていたところに声がかかって、驚かない訳がなかった。
「ミラさん……」
肩越しに振り返れば、音もなく、すぐそこのベットに腰かけていた彼女と目が合う。
「ごめんなさいね、勝手にお邪魔して。貴方にしてみればおせっかいかもしれないけれど、一番私が役に立てるんじゃないかと思って来たの」
「……心配おかけして、すみません」
微笑まれて、申し訳なさしかなかった。
心配されていることがこんなにも重くて、苦しくて、同時にそれがうれしいだなんて。面倒くさい自分に付き合わせていることが、何よりも申し訳なくなる。
「気に病むほどの事、私に話してみない?」
言われてから、気が付いた。ああ、何があったのかおおよそ解った上でそれを聞いてくれようとしているんだろうな、と。
優しすぎて、その優しさは向けられるべきものではない、と、逃げ出したくなる。
でも。
「……あるヒトの悲鳴が、その時の表情が、焼き付いたように消えてくれないんです」
「そう」
つい、耳に蓋をしてしまいながらも、そんな事を呟いてしまっていた。我ながら、女々しいことをしている自覚はある。言葉にしていくだけで、声が震えて涙が勝手に零れそうだった。
俺は一体、何に対してこんなにも泣きたいのだろうか。
…………解らない。
今でも、まるで耳鳴りのように頭の中に響いてくる。どんなに辺りが静寂でも、それは無意識のうちに脳内で繰り返す。
今でも、あの一瞬の出来事が永遠の時間のように目に映る。瞼を閉じれば、色鮮やかに見せつけてくる。
その音が、色が、責めてくる。
とどめは刺していない。だけれども、あのヒトは確実に助からないと、責め立てられる。
「……他者を思う貴方の優しさはきっと、本物なんだと思うわ。でもね、その優しさが、貴方にとって、もっと大切で肝心な者を傷つけているんじゃないかしら」
「え?」
ぽつり呟かれた言葉に、間抜けな声しか出なかった。今度こそ振り返ると、くすりと笑われてしまった。
「貴方と、貴方の一番近くにいる人たちを傷つけるそれは、果たして本当に『優しさ』なのかしら?」
「……どういうこと、ですか?」
「貴方がとった行動は、一体誰を助けたくてとった行動なのかしら? ねえ、例えやってきた結果はどうであれ、肝心の目的を忘れてはダメよ。そうでなければ、貴方は動けなくなってしまうわ」
「あの時の、目的……」
――――目的は、とにかくラズを、助けたかった。その主軸の目的を達成できたのならば、細かいところは気にしない方がいいってこと、だろうか。
今はそれでいい、そういうことなのだろうか?
でも。
…………多分、俺が悩ましく思った事を見透かしたのだろう。
「他者の命を奪うことに、躊躇いないように慣れる必要なんて無いわ。けれどね、誰かを守るために他人を傷つける剣を取らなくてはならない、そういう時もあるって事を覚えておいて」
「……あの、失礼を承知で聞いてもいいですか」
恐らくきっと、ミラさんの経験からの言葉なのだろう。故に、ふっと湧いて出た疑問があった。場合によっては怒られるかもしれない。
「ええ。どうぞ?」
「ミラさんが暗殺者であったのも、そういう理由からですか」
そんな俺の思いも杞憂。穏やかに笑う様子からは、ずっとその質問を待っていたようだと、やっと知る。
「今は、そうね。……でもきっかけは、自分を自分で守るため。殺さなければ殺される。その道しか選びようのないところにいた、と言えばそうね」
「そう、ですか……」
ああ、また。『選べない』か。
露骨に眉をひそめてしまったのに、気が付かれてしまったらしい。くすりと苦笑を漏らされた。
「選べるってことは、難しいけど、とても幸せなことだと思うの。いいえ。私もちゃんと、選んでいるわ。この道を。だから今、ここでこうしているんだもの」
「……はい」
「貴方は?」
「俺、ですか?」
「貴方は、自分がしてしまったことから、目を背けてしまうことを『選ぶ』の? その選択肢は果たして、貴方の力になるのかしら? 少しでも貴方を心配するヒトたちに心配かけたくないというのであれば、そんな逃げ道を選んでいる暇なんて無い筈よ。よく、考えて」
「ミラさん……」
優しくもたしなめるような、そんな言葉。何よりも彼女はそうやって自分を鼓舞して生きてきたのではないだろうかと、そんな事をぼんやりと思う。
ここは昔、うすらぼんやりと生きていた前世の世界とは違う。それはずっと前から、『頭では』解っていたはずの事だ。それを何だかんだ言って結局、俺は理解していなかったと、そういうことなのか。
……心配してくれているヒト、か。
昼間のことをなかったことにしてしまう事は、今はちょっと出来なさそうだ。だけれども、それに憑りつかれてはいけない、って事なのか。
己の行動に悔いても、悩みながら生きろって、なかなかに手厳しい。
「……ミラさん」
「なあに?」
「その、ありがとう、ございます」
「お礼なら、貴方の隣にいてくれたあの子たちに。そして貴方たちを迎えに行ったパズク様や、治療してくださったメイ様とソアラ様に言うのね」
「ははっ……。はい、でも、お蔭で少しだけ、気持ちが楽になりましたので。ミラさんにも、言わせてください」
「……ええ。どういたしまして」




