セントシェールの境界線 .4
「けど俺は! 引くわけにはいかねぇんだよ!」
目の前に迫り来るその姿たちに、意味もなく吠える。こんな事で怯んでくれる相手じゃない。
切羽詰まった状況下だと言うのに、隣に立つレピュスちゃんの息遣いが妙にはっきりと聞こえてきた。だからだろうか。レピュスちゃんが動こうとした瞬間が、その動き方が、解った気がした。
故に。
「はあぁ!!」
向かってくる土塊共に、俺自身も駆けていった。武術の作法なんてものは何もない。ただ、この剣の切れ味にものを言わせて、ばっさりと袈裟切り、剣をひたすらに振り回す。中身が散ろうが泥を被ろうが、最早構っていられなかった。
「ああああァァ!!」
声もなく迫り来、掴みかかられて、動けなくなる前にその腕を薙ぎ払ってやった。悲鳴もなく断ち切られては、奴等はあっさり土へと戻る。
だがその流れ作業も、数の暴力には敵うはずがなかった。
故に。
「あっ、しまっ…………!」
――――故に、這いずり回っていた奴に足を取られ、何を考えるよりも先に剣を振るおうとしたが、更に腕を取られ、動きを止められてしまう。
足元はまるで、水分をたっぷりと含んだ泥の中に足を沈めた時のように、ぴくりとも動かなくなってしまっていた。
捻っても、踵から持ち上げようとしても、田んぼの中や沼の中に下手に足を突っ込んでしまった時のようだ。深いぬかるみにはまり、足を取られたときのような感覚。足を持ち上げようとしているのに、大地も一緒にそうしようとしているような、錯覚。地面に関節から持って行かれそうだ。
ただ、俺を捕らえて食したいだけなのか。緩慢な動きで目の前に迫り来る、落ち窪んだ目にのっぺらぼうのその表情は、悦びも何もなく、ただ淡々とした作業のようにぱかりと口を開けていた。
「っ……くそっ!」
ぎりぎりと捕まれた腕に圧力をかけられて、握りしめていたはずの剣を取り落とす。
悪態をつけども、身体の筋を痛めそうなくらいに力を込めども、まとわりつく重たい泥を振り払うことが出来なかった。
「ちくっしょうがぁ!!」
慟哭。我ながら無駄なことをしている自覚はある。
めいいっぱい頭を仰け反らせて奴等から距離を取ろうとするも、足に腕を押さえられては大して離れる事も出来ない。マズイ、泥なんてかぶったら窒息する。
「おにぃさん!」
それを覚悟した、刹那。
レピュスちゃんの悲鳴のような声と共に、一塵の風が吹き荒んだ。やがてそれは、俺の周りに渦巻いた。
砂塵が刃となって飛び、奴等に襲いかかった。
ぴしっと肌に当たったそれは、砂嵐にさらされた時のように、小さな砂の粒が幾度となく肌を叩く。……多分、俺がこの風に直接さらされていたら、沢山の切り傷を作った後に肉を持っていかれた所だろう。それを思うと、彼女の能力にゾッとしない。巻き上げられた泥土に視界が遮られて、不安を感じずにはいられないものだ。
やがてそれも落ち着くと、竜巻が過ぎ去った跡よろしく辺りに泥人形の姿は一切合切消え去っていた。彼女の放った砂塵の刃が、あたりの泥人形を一掃してくれたのだと理解する。
辺りは一面土まみれになっていて、泥人形の核に使われていたと見られる、生き物の血の臭いと湿った土の臭いが混ざっている。その臭いに何も感じなくなってきているなんて、大分色々な所が麻痺してきている気がしてならない。
だが。確かにそれのお陰で数こそは減れども、代わりに魔術を行使するために彼女自身が負ったダメージは軽くなかった。
「っあ……」
「レピュスちゃん!」
視界一杯にこの不気味な奴等が広がる中、時おり見られていた彼女の姿は俺の背中を守ってくれていた。さらに言えば、俺が対処しきれない分からラズの前へ立ち塞がってくれた、彼女の存在はでかい。
その姿が、一掃した事によって粘度の失せた泥の海の真ん中で、ふらりと膝をついていた。慌てて駆け寄らないではいられなかった。
腕を掴んで引き留めてやると、かろうじて顔面から倒れこむ事だけは防いだ。
「レピュスちゃん、大丈夫?!」
「あ……大丈夫、です。ちょっと…………ふらっとしただけ、なので……」
魔術を使うために流した血の量が多すぎるのだろう。元々それほど良いとは言いがたかった顔色が真っ白だ。唇の色も、心なしか色が薄い。
「こんなところで無茶は――――」
たしなめるように言いかけて、不意に聞こえてきた足音に、身体が強張った。ハッとして顔を上げれば、進むべき先だと思っていた場所に、人影があることを知る。
「――――っ!」
それは、殴ってやりたくて仕方のない、元凶であるクソ野郎だった。
ゆったり歩みを進む様子は、相手に威圧感を与える為なのだろうか。自信に満ちたその表情が鬱陶しい。……嗚呼、この野郎の全てが気に食わない。
俺らの姿を見つけた途端に、奴はにやりと嗤う。
「おーおー、なんだよ。おっせーと思ったら、まぁだこんな所で油売ってたのかよ?」
「てめえよくもまあ、ぬけぬけと……!」
食ってかかった言葉もコツッ! と踵を鳴らされて、反射で身体が強張った。
先の敗退の記憶がそうさせるのか。だとしたら……かなり悔しい。こんな奴に、トラウマを感じてしまうだなんて。
その笑みを消したかと思うと、獲物よろしく睨み付けたのは彼女の他ならなかった。
「レピュス、どんだけ時間かけりゃ気がすむんだ? ああ? だからてめえはあまちゃんなんだよ。最初っから全てを吹き飛ばせば、てめえの能力なら可能だろうが。何時まで経っても愚鈍だな、てめぇは」
「あっ…………! もうしわけ、ありませ……チルオール様。でも!」
「でも、なんだ? てめえいつから、俺に意見できるほど偉くなった?」
さも面白いものを見たと言わんばかりにそいつが鼻で笑えば、レピュスちゃんはすっかり怯えてしまったらしい。
「……ぁ、あああ……! ごめ、なさい……!!」
顔面蒼白も行き過ぎなくらいに白くして、一瞬のうちに触れ合っていた指先までもが冷たくなった。
今すぐにでもこの場から逃げ出したいらしい。俺に捕まれているせいでそれは叶わなかったが、今も、じりじりと逃げ出す勢いだ。
そしてそれは、彼女だけに言えることではなかった。
ちらりと一瞥をくれたかと思うと、上から下まで、舐めるように見てくるこいつがウザったい。ギリッと、気が付けば歯を食い縛っていた。
ずかずか部屋を横切ってきたそいつは、動けずにいた俺らを見下ろしてくる。……気が付いた時には、ラズを後ろに取られていた。
「はっ、いいじゃねぇかその面。そうでなけりゃ可愛がり甲斐もありゃしねぇ。頑張った玩具には、ご褒美の一つでもくれてやらないとなあ?」
「黙れ。……そこをどけ。ラズから離れろ」
「はーあ、何度言わせれば解るんだ? てめえの主人は俺だって、言ったよな?」
殴りかかりたい衝動をぐっと堪えて低く返せば、呆れたように肩を竦められるのだった。
ぱちん、と。指を鳴らして出されたのは、『執行』の合図。
瞬間。
「いっ!!?」
びりっと、静電気よりもずっと酷い電流が首から身体に向かって走り、予想していなかった痛みに俺は仰け反った。がくん、と、一気に足に力が入らなくなり、膝をつく。
レピュスちゃんを掴んでいた手にも当然力が入らなくなり、離れようとしていた彼女の目が驚愕に見開かれていた。慌ててこちらに戻ってこようとするその姿を、俺は慌てて手を向けて差し止めた。逃げられるなら、彼女だけでも逃げた方がいい。
すっかり失念していたこの、首輪。これをどうにかしないことには、ラズを助けられないのだと思い出す。くそっ!
「どうした? 威勢は終わりか? このガキ助けたいって吠えていた気持ちも、案外その程度のものなんだろ? なあ?!」
「ちが――――――!」
「忘れてた、だろ? レピュスに構っているのが、その証拠だ」
反射的に食って掛かれば、突きつけるように言われて反論が出なかった。図星を突かれたと言ってもいい。
悔しくて唇を噛む。それが目の前のそいつに唇の端をつりあげて嗤われると解っていても、どうしようもなかった。
「それがどうした」
にやにやと嫌な笑みを浮かべるそいつを睨み上げていたら、何かが俺の中で吹っ切れた。覚束無い足に力を精一杯込めて、ゆらりと立ち上がる。
「あ?」
不快そうな表情が、いい気味だ。
「レピュスちゃんの心配をしたからって、それがどうしたって言ってんだよ。俺らの為にここまで全力を貸してくれて、怖くて堪らない筈のお前にまで歯向かって。これがどうして、心配せずにいられるんだよ!」
「チッ」
計画性もなく殴りかかれば、ひょいとその身をかわされて、足払いをかけられた。視界が周り、予測はしていたとはいえ、酷く背中を打ち付ける。
衝撃に一瞬目を瞑ってしまったが、直ぐ様地面をはねのけて身体を起こして目標を視界に納める。そこに、今度は背中から突き飛ばされた。前のめりに倒れて手を擦りむいたが、これで、いい。
「まぁだてめぇは理解出来ていねぇらしいな? もっと、決定的な躾が必要だよな。なあ?」
ひゅんっと、空を裂く聞き慣れた音。一瞥をくれてやると、そいつの足元にまでだらりと垂れ下がりとぐろを巻いている、それが目に入った。
聞き間違う筈がない。親父殿に散々聞かされてきたのだから。
人の事を蹴り飛ばしてくれやがった、このクソ野郎は兎に角無視だ。もう一度、ふらつく足で地面を蹴れば、すぐそこで力なく横たわっていたラズの前に躍り出た。
「いッ……!」
ビシィッ! と、これまたよく聞いた音。同時に背中が焼け付くように熱かった。がくっと、今度こそ膝の力が抜けてしまって、手をついた。脂汗が滲む。
目の前で浅く、微かに呼吸を繰り返す表情がまた、苦しそうに歪んで、俺は必死の思いで抱き寄せた。
「邪魔だ。退けよ」
「っあ……!」
ビシッと、また背中に熱が走る。
……だが、この程度なら、ヌルすぎる。親父殿が鞭打っていたならば、最初の時点で吹っ飛ばされていたさ。
それに比べればこんなの、ヌル過ぎる!
「さっさと退け。楽にしてやるさ?」
三撃目。多分、服の下で皮膚が裂けた。背中に生ぬるいものが伝って落ちているのが解る。流石、俺の柔肌だわ。失笑してしまう。
「っ……チルオール様! や、やめてくださ……!」
「うっ…………」
レピュスちゃんの泣き声のような悲鳴に、俺のうめき声が重なった。四撃目。……ちょっと、あまり保ちそうにないな、これ。結構キツい。
五撃目の音。空を裂くその音に身を強張らせれば――――。
それは、来なかった。
「チル。何をバカな事をしている?」
いつ、そこに居たのか。何処から、現れたのか。
そいつは、淡々とした声で低く告げるのだった。
誰よりも戸惑っていたのは、俺を散々鞭撃ってくれたクソ野郎だ。息も途切れ途切れの中、ざまあみろなんて笑ってしまう自分がいた。
「んなっ、〈ブレイン〉……。なんであんたがここにいるんだよ」
その名前につられて肩越しに振り返れば、俺とあの野郎との間に立つ姿がそこにはあった。『次』がなかった理由が、そいつのお陰なのだと知る。
表情こそは背中を向けられていて解らないが、すらりと高い背格好はあのクソ野郎といい勝負だろう。藍色の癖の強めの髪はみじかく、何よりも目先にあったそいつの深緑――――ビリジアン色の爪に視線が釘付けられた。
「聞いているのはこちらだ、チル」
「チィッ。俺の玩具をどうしようが勝手だろ!」
「そうだな。だがそうでないものも、無駄遣いしたな」
「してねぇ」
「例えば、これ」
ざりっと踏んだのは、一面に広がる土だ。多分、さっきの泥人形の事を言いたいのだろう。指摘をされて、目に見えてクソ野郎は視線を泳がせた。呆れたように、溜め息をつかれていやがんの。ざまぁ。
「自覚はあるようだな。ならば、罰っされても文句はないな?」
「……好きにすりゃいいだろ」
拗ねたような口を利くその様子からは、先程から嬉々として俺らを痛めつけていた奴と同一だなんて思えない。
一人傍観者の気持ちでいたら、身体の向きで、そいつがこちらを振り返ったのが解った。見上げれば、冷えきったアイスブルーの視線に射抜かれ理解する。ああ、これが本当に、逆らえない相手って奴だ、と。
でも逃げる訳にもいかなくて、そいつに向き直って睨んでやれると無感情に見られただけだった。
「チル、お前の新しい玩具は没収だ」
目が合ったのはそれっきり。次の瞬間、ぶちっという音を立てて、首もとが軽くなった。カシャンと足元に落ちたのは、金属を含んでいる筈の首輪。それがひん曲がり、ねじ切られていた。
同時に、ラズを苦しめていた『指示』が弾けた感覚。何もかもが『壊された』のだと、やっとの思考で理解する。おまけに転がっていた魔剣が、誰かが手を触れた訳でもないのにひとりでに弾けて、バキッという派手な音と共に折られていた。
「戻るぞ。油を売っている暇なんぞそもそもない」
「………解ってるっつの。レピュス!」
「っ、あっはいっ……!」
心底つまらなそうにこちらに視線をくれたクソ野郎は、その名を呼ぶと、ふっと姿を消したのだった。それに続くようにして、ぺこりと頭を下げた彼女も後を追って消えた。
声をかける暇なんてものすら、なかった。
だから。
「っ、おい、待てよ!」
最後に残ったそいつを足止めようとしたら、興味すらないと言わんばかりに無視される。
こつりと背を向けられたまま歩き出された瞬間に、視界がぐらりと歪んで目を開けていられなかった。それが目眩なのかなんなのか。
ぐらつく視界と共に、心身共に限界だったらしい俺の意識は呆気なく闇に落ちた。




