セントシェールの境界線 .1
(旧題:どうしてこうなった?)
「はあ……はあ! くそっ……はあ、キリがねえ……!」
息が切れる。
顎を伝う汗が鬱陶しい。
返り血や泥を浴びたシャツが張り付いてきて気持ち悪い。鉄臭くて鼻が曲がりそうだ。
全身が酸素を欲して、心音が煩い。
ずり落ちそうなラズを背負いなおして俺はふと、空を仰ぎ見た。天井のせいで閉塞感が半端ない。そして思うのは……どうしてこうなったんだと。それだけである。
「っ……うしろ!」
「くそっ……! しつっこい奴らだなあ!」
彼女の声に振り向きざまに適当に剣をぶん回せば、何か芯のある柔らかいものにぶつかったような手応えがする。漸く視線が追いつくと、予想通りに、落ちくぼんだ目のない泥人形のような姿がある。
「ぃっつ……! 負、ける、か……よ!!」
衝撃に、腕がしびれる。
でも、無鉄砲に突っ込んできたその勢いに負けないように、お構いなしに片腕で名一杯押し返して、どうにかそいつらと距離をとった。お蔭で背中のラズがずり落ちてしまい、つい、悪態をつく。
「こっち……!」
鞘に収まったままの剣を彼女に投げやると、俺はラズを抱え上げてまた走り出した。抱き上げた表情が苦しそうに歪み、浅く息をつく。
上手く呼吸が出来ていない。急がないと。
俺が駆け込むのと同時に、彼女はあけておいてくれた扉を閉めた。全力で抑えてくれているのだろうが、奴らが扉にぶつかる度に、どん、どん……と、危なっかしく扉が揺れている。
時間は、ない。
ほんのわずかな時間であるが、ラズを下して息をつく。そのまま視界だけはめまぐるしく動かして、部屋の構造を把握した。
大丈夫、退路はある。
改めて彼女に視線をくれて立ち上がると、返された剣を受け取った。すらりとそれを抜いて両手で握るも、その重みが手にあまり馴染まない。……けど、やるしかないんだ。
手の平では、握り慣れていないそれのせいで豆がつぶれて、応急処置で巻いた布に血が滲んでしまっている。痛いとか……、なんで俺がこんな事を、とか、そんな感覚やら悪態やらを感じていられる余裕も、すっかり失われてしまっている。
今はとにかく、最奥へ。それだけが、とっくに疲労の限界に達している筈の俺を突き動かす動力だった。
「いくよ……!」
「ああ!」
その一言の間に、彼女は支えていた扉を離して一躍俺の隣に並ぶ。
同時に扉は開け放たれ、ありえない数の泥人形がなだれ込んできた。
くそっ、なんて数だよ。意味が解んねえ。けど。
「けど俺は! 引くわけにはいかねぇんだよ!」
――――事の起こりは、一時間以上前に遡る。
* * *
至福の時間というのはやはり、一時的なものらしい。
宿泊場所を得られなかったとしても、散々かぶった磯臭さを払拭出来た俺はご機嫌だった。まあまさか、宿屋の女将さんに左腕見られてバレるとは……。しかも、追い出されるとは失笑ものだ。
左腕のこれのこと、すっかり忘れてしまっていた。
昔、親父殿の息子になって、『奴隷商人』になった時に入れられた、古代魔術の魔術式のことを。使うことなんてめっきりなかったから、つい、大丈夫だと思ってしまっていた。
まあ、今更だな。気にもならない。銭湯みたいに、刺青の方お断りでなくてよかったよ。
それよりも、だ。
石畳の街並みは、常に上るか下るかのどちらかのようだ。平坦な場所なんて、階段そのものか、階段の間にわずかに設けられた踊り場くらいだろうか?
見上げるほどに建物は間口を広くしているようで、頭でっかちな家屋や上階の道が軒を連ねている。もう一階層上の道に行けばきっと、抜けるような青空が広がっている事だろう。例え天井をほとんど覆われていても、青い空に建物の青がうっすらと重なるせいか、ここでも何だか広さを感じるから不思議だ。
多分両側に店が並んでいるせいだろう。通りは大人三人が肩を並べて歩けるかどうかくらいの幅だというのに、やけに人通りが多かった。
お陰で、ラズの手を引いて縦に歩いていくのがやっとだ。はぐれた時がめんどくさそうだ。出来ればそうはなりたくないから、しっかりと手を繋いで先導する。
軒並み連ねるその店の数々は、一つ一つがこぢんまりとしていて、俺が言うのも何だけど可愛らしいと思う。
この辺りは海からの工芸品が主流らしい。現代で言うオパールのように、遊色効果を放つ装飾品が何とも目を引く。時間さえ許せば、片っ端から冷やかして回った所だ。
出先に天幕を広げている食べ物の匂いの数々は、昨日からろくなもの食べていない俺らの食欲を刺激する。魚介のあの磯と香ばしい臭いが堪らない。物は試しと買い漁りたい。
そうしたいのは勿論山々。だけれども、俺は、俺らは先を急いだ。
――――それよりも、なのだ。
他でもなく、背後から黙々とついてくる彼女を振り切る為に、ひたすら人垣をすり抜けていく。
と、いうかさ? なんで彼女がついてくるのか、俺にはさっぱり解らないんだけど。お金はもう、彼女にも十分払っている筈なのだけど。
人混みを抜けて、正直後ろを確かめたい。もし仮についてきていて目が合ったら、俺は振り切れなくなるだろう。
故に、自然と足が早まっていく。
早まる足とは裏腹に、そこらかしこに流れる水路に阻まれて、思うように逃げられなくなってきた。道の先から水音を聞きつけては、慌てて進路を変えていく。
どれくらいそうして、逃げ回っていたというのだろうか。
人通りの薄れたそこに人がいたから、何気なく避けて先を進もうとした。俺よりも頭二つ分程度高いんじゃないかと思われる、うらやましいくらいに体躯に恵まれた、その人の背中を何気なく追い抜こうとした。
すみません、なんて、ついつい口にしてしまう。
それまで俺に微塵も気がついていなかった、と言わんばかりに一瞥をくれられる。俺自身の存在感の薄さまで指摘されたような気がして、何だか悲しい。
水路によって狭まったその小道で、これだけの長身が立っていると、なかなか存在感がある。ちらりとその人を見上げれば、威圧感を与えるような切れ長の視線が落ちてきた。
赤褐色の髪が獅子のように見えて、余計にそう思うのかもしれない。まだ若いその男に、つい、歌舞伎役者みたいなやつだなって思ってしまった俺は悪くない。
隈取りは、流石に引いていないけどな。
その人は俺とラズを邪魔そうに見、そして流れのように振り返るとにやりと笑うのであった。正直その、獲物を見つけたと言わんばかりで怖い。
――――そしてそれが、俺らの苦悶の始まりだった。
「どーこほっつき歩いているのかと思えば、レピュス。お前オズマの蟲の世話、頼まれていたんじゃねぇのかよ? あ?」
開口一番、脅しのような低い声。つい、足を止めてしまう。
たじろいだのは、後続だった彼女の他にいなかった。
「ぅ……あ、チルオ……ル、様……そのっ、ごめんなさい!」
「チィッ! てめぇがサボるとこっちにお鉢が回ってくんだろが。このボンクラが!」
ずかずかとその肩を怒らせて悪態つきながら近寄るから、思わず振り返ってそいつの姿を目で追っていた。同時に、あっという間にその腕を振り上げた。
途端、脳裏で聞こえた叫び声。「ぶたないで!」 と怯えていた彼女の姿がフラッシュバックした。
故に。
「……よく、状況は解んないけど」
気がつけば、振り上げたその腕をつかんで止めていた。
「子供に手を上げるのは、感心しないかな」
止められた事に驚きもせず、またちらりと一瞥をくれられる。きっぱりとそう告げてやれば、何か新しい玩具でも見つけたと言わんばかりに、好奇心の混ざった視線にじっと見つめられるのだった。居心地が悪い。
「何――――」
「お前、俺のこと怖くねぇんだ?」
「え?」
まさかそんなことを言われると思わなくって、きょとんとしてしまった。
怖くないって、何を言っているんだ? 怖くないわけないが、今はそんなことよりも、彼女にまたあんな風に怯えて欲しくない。そう思っただけだ。
奇異なものでも見るような視線に、まじまじと見られる覚えはない。
「ふうん? ただの無知か、怖いもの知らずか? ま、いいわ。お前、名前は何て言うんだ」
「…………子供を苛めるようなロクデナシに、名乗る名前なんてない」
きっぱりとそう告げてやれば、くっ、と、喉の奥で笑われた。
「いいねぇ! その虚勢。どこまでそれを貫けるものか、試してやりたくなる」
にやり、犬歯を剥いて笑う様が似合いすぎて、嫌な予感しかしない。その手を離してつい、身構えるように一歩引けば、その身長に見合うでっかい左手を差し出してきた。
「チルオール・トルエニア。あんたが仲良くしておいた方がいい名だ。覚えておけ」
あ、こいつケンカ売ってるわ。なんてすぐに、理解がいった。
だから、その手に視線を落とした後に睨み上げると、はっきり告げてやった。
「別にあんたと仲良くするつもりはない。その子にあまり、手酷いことはしてやるな。あんたがそうやって手を上げるから、あんなに怯えていたんだろ」
淡々とそう告げてやっても、その表情は微動だにもせず、何を考えているのか解らない。
かと、思えば。
「…………レピュス。てめぇの客が生意気言ってんぞ。代わりに反省して、そこの水の中に沈め」
「っ……ぁ! は、はい! すぐにっ……!」
その名が呼ばれたことでびくりと身体を震わせたのは、やはり彼女だった。その服の裾をぎゅっと握り締めた手を離して、慌てて水路に向かおうとした。
逆らえないのか。だとしても。
「ちっ、あんたの方こそ頭イカれてんじゃねぇの?!」
そんな滅茶苦茶、従う必要性がない。
右手で彼女を引き止めて、左手でそいつの手を乱雑に掴んでやる。
「これで満足だろ」
「そうこなくちゃな」
至近距離から睨んでやったのに、面白そうに笑われるだけだった。妙にかっと頭に血が登ったのが解る。
ならば、そんな風に笑っていられなくしてやる。そんなどす黒い感情に突き動かされて、久しく使っていなかった奴隷魔術を使ってやった。
俺の魔力量は、人と比べて少ない。だけれども、都合のいいことに相手の名前を知り、しかもゼロ距離だ。直接魔術式を相手に刻んでやれるこの条件下、成功しない訳がない。
だから、少なからず慢心していたのかもしれない。その余裕な表情も今のうちだ、と。
「だが、甘いな」
「っあ……!」
握手していた手を肘や肩の間接とは逆方向に軽く捻られて、一瞬意識がそちらに行った。それが隙となり、離した拍子に逆にがっちりと左手首を捕まれた。
咄嗟に振り払おうとするも、乱雑に振り回されて足を掬われる。
自分の身に何が起こって、どう対処すればいいのかなんて、頭で一々考えている暇がなかった。
転びそうになった体制を、一歩、反射で踏み出してしまうと、捕まれたままの左腕を、自然と後ろに回してしまう。
抵抗なんて、ホント、する暇もなかった。流れ作業のように袖をたくし上げられて、また、鼻で笑われた。
「ふん、やっぱり奴隷商人か。クソむかつくが、まあ丁度いい」
「っ……離せ!」
「そう、吠えんなよ。可愛がってやるっつってんだからよ」
「兄ちゃん!」
油断していた、油断した。ラズがいるからという安心と、主導権を握ってやれると思った慢心故に。
動けば折られる。みしりと骨が軋んだ気がして、つい、ラズに言外に押し止めさせてしまった。
険しく見えた表情は泣きそうにくしゃりと歪み、ああ、また俺が泣かせているんだな、なんて無力感に怯む。
「そいつ、お前の奴隷だな?」
そんな俺にお構いなしの、淡々としたその声。食って掛かったのは、最早仕方がなかった。
「奴隷、なんかじゃねぇよ。俺の大事な――――」
「なるほど、家族ごっこか? 笑わせる」
言い訳すら、させてもらえない。やはり喉の奥で嘲るように笑われた。
ぐっと、肩を掴むこのクソ野郎の手に力が入ったのが解った。
途端。
「っ、ぃあ!!」
ごりっというかがくっというか、少なくとも肩から鳴ってはいけない音がして、肉の中で骨が回ったような感覚と、激痛が走った。
同時に腕から力が抜ける。下手に動かそうとしようにも、痛みが尋常じゃなくて動かせない。
唯一、未だに捕まれていると解る、肌の感覚。脱臼させられたのだと理解するまで、それほど時間もかからなかった。
痛い。というか痛い!
この痛みから逃れようとして身体を揺するも、捕まれたままの力の入らない腕のせいで、ただ、患部を苛めてしまうだけだった。
ずきりと、脳裏に刺さって来るような痛みに身体が強ばる。そして素肌をさらされた腕を掴むその手が異常に熱いことに漸く気がついた。
「生憎、俺はその手の魔術が使えなくてな? いや、使えなくさせられていてな?」
その熱が、この野郎の魔力なのだと気がつくのに、時間はかからなかった。否。俺に刻まれているその魔術式を走る感覚に、理解させられたとでも言うべきか。
「有り余っているんだ。少し、発散させてくれよ?」
同時に、気がつく。こいつが何をしようとしているのか、を。焦ってその表情を見上げれば、その予感を肯定するようににやりと嗤われる。
「っ――――ラズ! 逃げろ!!」
「もう遅い。『動くな』」
俺の言葉に納得していなくとも、ラズは確かに逃げようとした。だが、しかし。
血の気が引く、とは、こういう事なのだろうか。端的に告げられた、その言葉。なんでこいつが、その言葉を、命令のキーワードを知っているのだ、と。
そしてラズが、自身の身に起こっている事が信じられないと言わんばかりにきょろきょろとしながら、数メートル先で立ち止まってしまっている。
俺と、ラズと。俺らの反応に愉しそうなのは、この歌舞伎野郎だけだった。
「兄ちゃ――――――」
「『許可なき者は黙れ』」
振り返ったラズの表情は、驚きに目を見開いていた。
恐らく、聞き覚えはあるはずだ。ずっと、ラズから言葉を奪っていた、その『キーワード』を。奴隷商人が脈々と受け継ぐ、命令の語に。
こいつの魔力が走る左腕が熱い。肩の痛みを忘れるほどに、焼け切れそうだ。いや、俺の痛みなんていい。早く、早くラズを戻してやらないと……!
だが。
「ス・ケィシ・リボ」
「っ……待て! それはやめろ!」
まだ続くのか。それと同時に、続けられた命令の語に、俺は一気に血の気が引いた。
それは、体罰を示す言葉。
それは、対象の命を削って行使される命令。
俺が願うほどに、そいつが悦ぶ事は解っていた。だけれども、叫ばずにはいられなかった。
「やめてくれぇ!!」
「レスビナ、ジード」
無情な程に、告げられたそれは、対象の、呼吸を止める最悪の体罰の一つ。俺の耳から、全ての音が消えたかのように、錯覚してしまう。
「ラズっ……!」
俺の声に、立ち尽くしていた姿は振り返る。戸惑った表情に言葉はなく、動かされた唇は、俺の名前を呼んでいた。
ひゅっと、空気の塊を飲み込んだのか、吐き出したのか。次第に肩を震わせ、顔色を悪くしていくその姿が、戸惑ってぼろりと大粒の涙をこぼした。
痛む左腕なんて最早どうでもよくて、滅茶苦茶無理に振り払って駆け寄った途端に、目の前でその身体が力を無くして崩れ行く。
慌ててその身体を受け止めて横たえて、やる事を思い出そうとした。そうだ、直ぐ様解除しないとと、意識を集中させようとした。
でもその度に、ラズの涙が目に浮かんで、必死にかき集めた僅かな魔力が霧散していく。
集中しろ。集中しなくちゃ。
兎に角停止状態から軽くしてやらないと。そう思ったその時だ。
「くそっ――――――ぁぐっ!」
「こーら~? てめえの主はこの俺だ。勝手してんじゃねぇ」
背後から回って来たその腕に気が付かなかった。故に、がっつりその腕が首に食い込んできて、引き上げられてどうしようもなかった。
唯一動く右腕でその腕を掴んでも、爪を立てても、ぴくりとも動かない。むしろ、このまま絞め殺されてもおかしくない。
「おおっと、この程度で音を上げるなよ? そんなんじゃ、ゲームになりやしねぇ」
ヤバい、意識が遠退いてくる。
首に、何か冷たいものが触れたのが解った。がちゃり、それが、無情な音を立てていた。
「第三階層の端にある別荘に、てめえの『鍵』を置いといてやるよ。精々、面白いもん見せてくれよな?」
ぱっと、その手を離されて、膝から崩れたのは覚えている。けど、それ以上、意識を保っていられそうになかった。
ラズを助けないと、とか、打ち付けたどこが痛い、とか。
使えない弱い自分に心底絶望しながら、俺の視界は暗転した。




