ありふれた俺の日常は奴隷によって変わる.7
「ふー……」
深く深く嘆息させて、こんなにも気まずいと思ったことはない。
「言いたい事はあるか、ディオ」
尋ねられても、言葉が出ない。魔女裁判よろしく、完全弱者の今の俺に発言権が有るわけがなかった。怒鳴られた方がまだマシだって、こういう事。軽口なんて叩ける雰囲気じゃない。俺に打開、できるだろうか。……出来る気がしない。泣きたい。
広場での騒ぎは直ぐに、親父殿の耳に入ることになった。いや、そもそも窓の向こうから見ていたんだ、事の顛末を知らない訳がない。
それから何があったかって? ……正直、思い出すのも苦痛だ。
ワイバンに弾き飛ばされたせいで叩きつけられて、その痛みに気絶……。とは、させてもらえなかった。
「そんなところで寝ていたら、玄関マットにされても文句ないよねえ?」
なんて。無情なくらいのカミュの第一声に、俺は物申したくて仕方ない。
もっとマシな声のかけ方知らないのかよ、こいつ! って、思いもしたが、テキパキと周りに指示を出して片づけさせている所を見ていると末恐ろしく感じた。まるで、初めからこうなる事は解っていたかのような手際の良さ。
それじゃあ俺らは親父殿のところに報告行こうか、なんて。いつもの軽い調子で死刑宣告を受けたのだった。引きずられるようにして連行されて、そして今に至る訳だ。
……現実逃避はさておき。
「……親父殿、損害はいくらになる?」
「聞いたところでどうする」
黙っていたところで解決しない。そう思ったから口を開けば、じろりと睨まれた。必死に集めた勇気が、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げていった気がした。
心が折れそうだ。
声が、掠れる。
「その……結果的に約束守れなかったし、俺がどうにかその損害払おうかなあ……! なんて……」
「はっ! お前にそれが出来るとでも本気で思っているのかよ」
「…………思ってない」
少しばかりおどけてみれば、じろりと睨まれて意気消沈。演じた道化もマジ泣きものだ。
流石に今世の俺の親だけあって、適当なことは言えないか。見透かされていてちょっと笑える。いや、この状況は全く持って笑えないけれどな。
でも、親父殿は俺の内心を見透かしたのだろうか。
「……はあ、ならばそこまで言うんだ。考えがあるなら言ってみろ」
「いやさ! その……多少なら、親父殿にもらった給金があるから、それを前金に払えないかな~って。流石にいきなり満額は無理だ。だから……」
促してくれたおかげで、勢いだけの口火は切った。切ったはいいけど…………ああ、滅茶苦茶言いにくい。
こんな時に不謹慎な考えだって、一辺倒にされてもおかしくないことを口走ろうとしている。シバかれる予感しかない。
でも、今はこれ以上にいい考えが俺には浮かばない。
「なんだ」
「その…………俺を、売ってくれないか。その金では全然足りないだろうけど、足しにはなるだろ」
絞り出した言葉に、嘲笑ったのは後ろだった。
「あっは! ちょおっと、ディオ。それ本気で言ってんの~?」
「……ああ」
いや、確かにバカな交渉持ちかけている自覚はある。けど俺のお財布的にも、弁償できるだけの大金を手っ取り早く手にする方法的にも多分、こんなもんだ。
無い金を巡って交渉してるっつのに、適当な事言えないし。売ってもらった上でここで馬車馬のように働けば……多分、余所で金稼ぐよりも早く金を集められるんじゃないかしら、なんて。
それに腐っても親。親父殿に対してもう、嘘も我儘も押し通す事は難しい。いやこれは十分我儘に入るのだろうか。
いつものごとくソファに沈むように座り込み、けらけらと腹を抱えてその姿が腹立たしい。恨みがましい視線を向ければ、喉の奥で懸命に堪えようとして肩を震わせていた。
ただ、気持ちにまだ余裕があったのは、ここまでの事。
はー……、っと。まるで呪詛のような呆れを含む溜め息に、俺の身は強張った。恐る恐る親父殿を伺えば、いつもより三割ほど険が増している視線に射抜かれたのだ。それだけで、息が止まるかと思った。
無言の圧力。相当お怒りの形相の親父殿。怖くてまともに見れない。伺うような上目使いは、さぞかし親父殿からすればイラッと来ているだろう。
……いや、解っていてもそれを今すぐ止めるとは難しそうだ。怖くて身体が勝手に怯む。正面からその視線を受けとめる事はもっとできない。じりっと、無意識のうちに後ずさっていた。
「バカだバカだとは思っていたがな……」
「あっはは! ルディス、それ今更だよ~」
頭を抱えるように俯かれて、威圧感しかない視線が緩んだ。それでやっと、俺も息をつくことが出来たような気がした。はっはっ、なんて犬みたいに浅く息継ぎ必死に酸欠を逃がす。
じっと、また視線を感じてその身を正せば、ぎしりと目の前の椅子が軋んでいた。背もたれに寄りかかった親父殿が、また溜め息をこぼしている。
「ならば、もういい。売っていいって言うならばカミュ、お前の好きにしろ。それで全部チャラだ」
「え! いいの~?」
白羽の矢が立ったのは、予想の斜め上を行った。驚いたのは俺だけじゃないようで、何かの聞き間違えじゃないかしら、と後ろの糸目も思ったらしい。ちらりとそいつを伺えば、カミュもカミュとて手聞き間違えを確認するような、そんな表情。
「好きにって、本当に好きにしちゃうよ?」
「諄い」
あ、れ?
俺が思っていた疑問と違う。なんか、より一層不穏な言葉が聞こえたぞ? 気のせい……だよな?
ああそうか。俺の理解が鈍いのか。うんうん、それならば仕方がない――――訳がない。
「えっとー……、それってつまり?」
「あっは! 嬉しいな~? 嬲っちゃってもいいってことだよねえ?」
そして一人置いてきぼりをくらう。
……いや、違う。突きつけられた言葉の意味を、理解したくないだけだ。
糸目を更に細めて笑う様は、その言葉を待っていましたと言わんばかりでぞっとしない。
こいつなら本気でやる。瞬間的に理解した。俺の一寸先が闇通り越して深淵なのだが。
「やるなら外でやれ。お前ら目障りだ。俺は勘定しなおす。ここで騒ぐなら、てめえごと袋売りにするぞ」
「はいは~い、了解。ルディスの邪魔は勿論しないよ~。そんじゃーディオ、覚悟は出来てるよねぇ?」
「……マジ?」
ちょっと! え、どういうこと?!
のろまだの、商売下手だの散々言われたけど、目障りとか始めて言われた! ……じゃ、なくて!
「じゃあルディス、そこの砂時計貸して?」
「いやいやいや! ちょっとまっ――――!」
親父殿から放り投げられた砂時計が、カミュの手に渡ると同時に、たんっ! と、俺の言葉を断ち切るようにそれはローテーブルに置かれた。測る時間は五分間の、よく見る砂時計よりも心持ち大きいそれ。
「じゃあディオ。頑張って俺から逃げてね~? 君の体力考えると既にハンデが大きすぎるから~、店から出られたら君の勝ちでいいよ?」
つらつらと続けられたのは、俺の勝利条件。どう考えても、空を飛ぶ術がないならば、内に閉じ込めた奴隷を一人として出したことのないウチからの脱出なんて、どんなムリゲーだよ。
――――っていうか、脱出した後、どうしろっていうんだよ?! どう聞いても、脱出したらこいつの独房調教は免罪される、としか聞こえなかった。
今、話しているのは『売った俺の処遇』の話。つまり、商人としての権利はない。それを思うと答えは出てくる。ホント、ぞっとしない。
嘘だろ、信じたくない。前世よりも命が軽いこの世界で、比較的のほほんと過ごせたの、親父殿のお陰もあるからな。人より少しばかり出来るのは算術くらいで、自分の身なんて、とてもじゃないが守れやしねえ。
なんて思っていれば、案の定の死刑宣告が通達された。
「ああ、そうだ。あの廃材を連れ戻せたら何事もなかったことにして復帰、それでどー? そしたら砂時計二回分待ってあげるよ? 流石に手ぶらじゃ可哀想だもんね?」
「いや、ちょっと待――――――っ?!」
それってつまり、連れ戻せるまで敷居を跨ぐな、と。そういうことか。
心底俺の反応に対して愉しそうに嘲笑う姿に、反論を言い切る事は出来なかった。
「ねえ。君が言い出したことでしょう、ディオ。望んで売られる覚悟って、その程度なんだ? そんな訳無いよね? 奴隷ってものがどんなものか、君は一番知っている筈だよね? 決定権、君にあると思ってるんだ?」
気がついたときには、目の前にカミュが立っていた。と、思うのと同時にビュッ、と、頬の横を何かが通り過ぎた。
微かに視線をずらしてやれば、肩に乗せられた手には、本来ならば護身用にもならない小さなナイフが握られていた。それがかすったらしく、頬に傷みが走る。切れ味がおかしい。暖かな自分の血が、頬を伝うのが解った。
…………ヤバい、こいつ本気だ。その表情から初めて、人を小バカにした笑みが消えていた。ひやり、汗が背中で流れる。
「俺としてはこのままさっさと、君を独房に放り込んでしまってもいいんだよ? 好きにしていいって、せっかくお許しが出たんだからねえ」
低く告げられた言葉に、人格矯正、なんて言葉が過ってしまう。
「俺なら君を、ちゃんとした奴隷商人に仕立ててあげられるよ? そのままよりも、苦しくないと思うけど~?」
目の前でにやっと、何時ものように笑われて、カッと頬に血が上ったのが解った。
「っ……! ふざっけ……!」
「はい、最初の五分~。カウント開始ぃ」
挑発されるままに掴みかかろうとすれば、あっさり躱されてテーブルの上の砂時計が返された。さあ、どうする? なんて言わんばかりに小首を傾げられて、俺の虚勢もかき消される。
「っ……! くそっ!」
毒づいていられたのは一瞬で、弾かれたように駆けだすと、騒がしさお構いなしにバタン! と扉を開け放って廊下に転がり出た。
考えている場合じゃないが、こんな時こそ考えなければ。そうでなければ、俺が死ぬ。
頑張ってねえ、なんて、遠くの方から追って来たカミュの声に、ギリと歯を食い縛った。くそ! 馬鹿にしている!
我が家に君臨する魔王が遣わせ、俺に挑ませたこの勝負。絶対に勝って、逃げ切って見せる!
転がるように、跳ぶように。自室に向かって走り出す。それでも俺の走る速度なんてたかが知れている、……なんてどうでもいい。
考えろ、考えろ。この店からの、脱出ルートを。
ウチにある出入り口は主に二つ。店の正面玄関と、裏の搬入門だ。後は高い塀に囲まれているから、乗り越えるなんてとてもじゃないが無理だ。
俺の部屋や親父殿の部屋があるここは本館。当然、店舗である正面の方が近いに決まっている。
だが、しかし。
本館だからって、何も奴隷の立ち入りが禁止されている訳ではない。俺の部屋なんて、知っての通り水汲みの当番ですら近くを通る。
故に店舗に続く唯一の扉の鍵は完全に閉ざされているはずだ。そしてその鍵は、親父殿しか持っていない。必然的に、俺やカミュとてそこから自由に出入りはできない。
だから目指す場所は決まってしまう。……どう考えても、部屋に寄ってから足りる時間ではない。多分、解った上での計算なのだろう。くそっ。
思いっきり滑りながらブレーキをかけて、部屋の前で急停止。急いで中に入り込めば頭の片隅でちらと考えていた持ち物を、反芻しながら用意していく。幸いな事に、物は多い方じゃない。
その場で思い付いた『必要になりうるもの』をベットに投げて、シーツをひっぺがす。ありったけのお金に少しの着替え。
まともに選んでいる暇がなくて、防寒用にと外套を羽織った。シーツでくるんだ風呂敷荷物と外套なんて、かなり意味の解らない格好をする羽目になる。まあ、それは別にいいさ。
ふと目に留まったのは、インテリアと化してうっすらと埃を被っている一振りの剣。無いよりはマシか。そんな思いから乱雑に掴めば、幸い取り落とす事はなかった。
久しく帯びていなかったそれをベルトに通せば、重みのせいでズボンもろとも落ちてきそうな気がした。……慣れないものなんて持つべきじゃないだろうが、手ぶらで心もとないよりかはいいだろう。
それだけの事で、何分間の時間を使ってしまったのか解らない。多分、俺にしては随分と善処したと思う。
家出人、あるいは絵に描いた泥棒のごとく、シーツ風呂敷を背負い込んで俺は慌てて窓から外へ飛び出した。自室が一階でよかった、なんて。どうでもいい。
我ながら自分に拍手してあげたいくらいに、華麗に着地が決まって駆け出す。
さあさあ! 今こそ、日頃の運動不足を発揮する時だ! 肩の上で上下にぼよんぼよんと暴れるシーツは、思っていた以上に走りにくい。
それにしても、それにしても。それほど中身を入れたつもりはないというのに、なんて荷物の重さだろうか。一歩踏み出す毎に、自分の身体が重くなっていくような錯覚を起こしてしまう。
足が遅い理由を荷物のせいにしてんじゃねえって? ……いやいや全く、いつの間にこんな貧弱な身体になってしまったのか、嘆かわしいぜ! こんちくしょう!
今は悲しんでいる場合じゃないけどな!
別館へと続く廊下を駆けていけば、すれ違った奴隷たちにはかなり驚いた顔をされた。中には「何かあったんですか?!」 なんて、心配して駆け寄って来てくれる姿もあった。足を止める事はしたくなかったが、気がつけば遠巻きにしている者も含めて、かなりの人数が俺に注視している事に気がつく。
…………うん、まあ、そうだよなぁ。さっきの騒ぎで今度はこれ。何もなかったと思う方が難しい。それに黙って押し通るのは、彼らに申し訳なかった。
「ごめん、皆」
だから真っ先に出た謝罪に、周りがざわめいた。彼らからすらも逃げるように進めていた歩みを止めて、向き直る。
「俺、ここにいられなくなったんだ。カミュから逃げ切らなければいけない」
言えば、周りは何を思ったのだろう。悲痛な顔をされると同時に、皆が俺の状況に不安そうにしていた。今こうして俺に関わっていていいのか、正にそんな表情。
下手に渦中に関われば、とばっちりを受けるのは自分自身。皆、それがよく解っている。
だから、ごめんね。なんて。皆には個々の心配をして欲しいから、俺はさっさと行こうとした。
そんな時に。
「あーあ、君ってやつはさぁディオ。他人の心配している場合じゃないでしょう~?」
もう、十分が経ってしまったと言うのか。
血の気が引く思いで振り返れば、そこにはのんびりとした様子で本館から現れた姿があった。より近くにいた奴隷達は、自身の身体の置き場を求めて右往左往していた。
カミュの進行を妨げるのが恐ろしいと、飛び退くもの。そして咄嗟に立ち塞がるもの。震えながらもそうしてくれたことは嬉しく思うが、俺のせいでそんな彼らが痛め付けられるのは絶対嫌だ。
だから、俺は走る。すり抜けるように、押し退けるように。今だけはカミュが彼らに構わないように、一目散に目指すのは裏の広場だ。
「退きなよ。邪魔だよ」
詰められてしまった距離を、どうにかしてでも広げたい。そんな思いから振り返らずに走っていれば、機嫌が二、三度程度低下していた声色があたりを震撼させていた。
俺のせいで集まっていた彼らに対して、明らかに機嫌が悪い。移動の邪魔だと、そういうことなのだろう。
「ディオ~? 君、この状態で俺に捕まるなんて訳ないよねえ?」
ぞわりと背筋に悪寒が走り、それだけの事なのに足がもつれて転ぶかと思った。言葉の裏に、あいつに捕まれば本気で何かしら失わされる、そんな恐怖を感じずにはいられなかった。
例えば、あいつがずっと気に食わないと思っていそうな、俺の道徳概念。あるいは人格そのものか。こいつなら、そのどちらもの改変をやってのけるだろうよ。
……嫌だ。ほんと、敵に回したくなかったわ。
周りにいた奴隷たちも、思うところがあるのだろう。彼らが自身の危険を顧みずに俺を守ろうとすれば、俺に被害が蓄積されるし、何より未だに本気を出していないこいつに本気を出させる藪蛇になる。だけれども行く手を阻まなければ、あっという間に俺は捕まる。
結局捕まることに変わりがなくて、彼らが普段受ける仕打ちよりも酷いものが待っているのは、火を見るよりも明らかだ。俺終わる。くそだ。
カミュの言葉にみんなが右往左往して逃げ出したことで、かえって事態は好転した。みんなが少しでも道を開けようとしたから、むしろごたついて、その混乱に乗じて距離を取れた。
人混みが切れた先で、厨房横を駆け抜ける。その先で建物を回り込めば、裏の広場に出ることが出来る。そこまで出てしまえば、出口は目前。後は少しの辛抱だ。
――――でもそれが、油断になってしまったのかもしれない。
ぶおんっ、と。何かが空を切り裂きながら、背後から飛んできた。回転しながら俺の右脇を突き抜けていった、何か。ターン! という派手な音とともに立木に突き刺さった。
そのあまりの音に驚いて、駆けていた足がぴたりと止まる。
何かと思えば、薪割り用の斧。先ほど通り過ぎた場所を振り返れば、涼し気な顔したカミュがそこにいた。
その手にしているのは、今朝方割られていた薪で、それでキャッチボールでもしようというのか。軽く上に投げては掴んでを繰り返す。ぱしん、ぱしんという軽い音すらも、不穏なものに聞こえてくるから不思議だ。
「本気で君さ、俺から逃げ切れると思ってたんだ~?」
「っ……当然だろ!」
「ああ、そう?」
ことり、小首を傾げて唇の端で嗤った。あ、こいつ完全にスイッチ入っていやがる、なんて。理解するに容易かった。お手軽サイズに割られている薪を握り締め、さらに割るなんて常人の沙汰ではない。
「ふふっ、あは!」
ゆっくりとしたモーションからは、考えられないような速度で投げられてきた薪の破片。ひゅっ、って空を割く音が薪から発されているとは思えない。
「くっ……」
広場には入った。あと少し。
だがそこまで来て、背を向けて走ることすら怖くなってきた。薪の音に威嚇射撃されて足が止まりそうになったとき、狙い済ましたかのように、シーツ風呂敷越しに身体の中枢をたたかれた。一瞬の衝撃に、前につんのめって転びそうになる。
「ああっ! くそっ!」
こんなところで転んでたまるか。一重にその思いだけで踏ん張れば、背後から石畳を蹴る音が聞こえてきた。
こいつがまさか駆けてくるなんて、トップギアかよ。いよいよ追い詰められていると、感じずにはいられなかった。だからといって、俺にだって意地はある。
「全く、君の逃げ足と諦めの悪さだけは称賛に値するねえ」
「このっ……!」
追いつかれた気配とその声に、反射的に剣の柄をつかんで腰から振り返った。
剣技なんてものは持っていない。ただ、身体の反動を利用しながら抜刀して、せめて剣を取り落とさないように両手で握り締めた。
バットを振るように胴を薙いでやるが、それは、フルスイングの空振りに終わる。しかも結局、手から剣はすっぽ抜けて、カミュに向かって飛んでいくが、足蹴にされてどこかにいった。
「おっどろいた~。君でも少しはまともな反撃できたんだねえ?」
「うっせ……」
マジでもう、走るのも反論するのも辛くなってきた。一人でゼイゼイ息が上がっているというのに、目の前のこいつはバックステップした先で、やはり飄々としている。
脇腹がいたい。痛みが通りすぎて、呼吸が苦しい。吸っても吸っても、空気が入ってこない。汗が噴き出して顎を伝う。
剣を抜いたからって、こいつに武術で勝てる訳がない。一度退けたこの程度、取り押さえられているか、そうでないかだけの違い。
本体のない鞘なんて邪魔でしかないから悔し紛れにぶん投げてみるが、カミュにすら届かない。遊んでいるの? なんて、とても残念なものを見るような目を向けられたのは言うまでもない。
「安心しなよ~。別に君を食い潰そうって訳じゃないんだからさあ?」
「断る」
万策尽きた。それはカミュだって十分に解っているのだろう。まるで、猫がねずみをいたぶるように。緩慢な動きで歩む様は、俺のメンタルをごりごり削ってくる。
もう、ダメなのか。
諦めたくなった刹那だった。
ちらちらと、太陽がちらついたような気がした。その、直後。ひゅうんっ! なんて、何かが高速で飛んできているような音と共に、俺の肩に、横から全体重以上の重みが衝撃として伝わってきた。
「い?! っ――――――!」
同時に、吹っ飛ばされた時のような、胃がその場に置いていかれるような感覚。頭を揺らす強震に、今度こそ意識が持っていかれるかと思った。
風が後から追いかけるようにして、俺が立っていた場所を吹いていったのが見えてしまった。驚いていれば、同じく驚いた様子のカミュと目が合い、その姿が一気に遠退いていく。
えっ?! 俺は一体どうなった?!
顔を上げて、現状を知る。足元の景色が加速度的に縮図に代わり、びくりと身体を震わせたのは、仕方がないと思う。
「ぅえ!?」
だって、足元に! 足元が! 改めて気がつけば、宙ぶらりんだったら、そりゃ、びっくりするだろ?!
俺の腕を掴む手は危なっかしげもなくて、それでも手を離されれば落下しかしないこの状態。ガタガタ騒ぐなと言われる方が無理だ。
同時に残念ながら、身体が鉛のように重い。重力のせいなのか、あるいは風の抵抗受けまくりのせいなのか。まるで飛行機の離陸の時のような懐かしい感覚に、どちらでもいいが驚かない訳がない。
ワイバンが喉の奥で微かに唸ってる。怖いよ、正直。
「さっきはごめんね、お兄ちゃん」
そんな中。かかった声は幼くて。先程俺が引き留めたかったそのものが、ぽつりと呟いてきた。
「でもね、さっきはああするしかなかったんだ」
「っ……あ、ラズ……!?」
驚かない訳がなかった。見上げた先の表情は先を見据えたまま至って真剣で、俺の視線を感じたのか、見下ろした顔はふわりと笑った。
「でも、間に合ったみたいでよかった。悔しいけど、あのヒトの言う通りだったもん」
「え……?」
得意げな笑みを浮かべたままにワイバンの背中に引き上げられて、ただ呆然とその表情を見返すことしか、その時の俺には出来なかった。
「怪我はない? 兄ちゃん」
「あ、ああ……」