時には旅の荷物を下そうか *
窓の外から、肌に冷たい夜風が柔らかく吹いて来る。濡れた髪には少しばかり冷たく感じて、がしがしとタオルで水気を拭った。
レースのカーテンはふわりと揺られ、室内は石鹸の香りに包まれる。すごく、心地よい。
「つっかれた……」
思わずベットに身体を投げ出すと、しっかりとしたマットレスが、柔らかく受け止めてくれた。
すーすーと、静かな部屋にラズの規則正しい寝息が聞こえてくる。部屋に一つ灯したランプの明かりの中、隣のベットで丸まっている輪郭がぼんやりと見える。窓の外に目を向けると、花柄のレースの向こうに雲一つない満天の星とエンマの影がよく見えた。
ふたりの姿をこうして眺めていたら、やっと穏やかさが戻って来たんだと実感した。節々の痛みさえ、気持ちを和ませてくれるから不思議だ。
本日の宿として与えられた竜騎士団の一室は、家具が少なく質素とはいえ、長らく宿泊施設暮らしの俺には十分広く感じる。根無し草が屋根を与えられるとこんな気持ちになるのかって思うと、ほっとする気持ちが少し切ない。
今だけは神経を尖らせる必要がないのだと思うと、色んな事が脳裏を過っては泡みたいに消えていく気がした。気を抜いていいのだと、何度も自分に言い聞かせてやっと気持ちが安らぐ辺り、随分と屋外生活に慣れてしまっていたのだと実感する。
…………ああ、長い一日だったなあ。
本当はとっととこんな街出るつもりだった。けれど、こうして寝床を借りているのにも理由がある。
あの後結局、王子様と戻ってきたエニスさんにじきじきに、城のごたつきが片付いたのちに謝罪と謝礼をきちんとしたいからと言われてしまったせいだ。
……まあ、うん。何でもいいんだけどな。
ローレンスが居なくなったからなのか、いい笑顔で引き留めてくる王子様にうんざりしていたら、アルマさんとエニスさんはやって来たのだ。
エニスさんには、守ると言っておきながら何も出来なくて、重ね重ね申し訳なかったと御託を並べられた。正直、重ね重ね謝るくらいなら相応の態度で接してくれって思う。
アルマさんには嫌味とも取れなくない文句を散々もらった。エニスさんが気に病んで逃げ出したのは俺のせいだとうんたらかんたら。
そのころにはもう、言われた言葉を耳から脳内に通す元気もなかったせいで、右から左へ聞き流していた状態だった。当然、記憶に残るような事はほとんどない。
特筆することも……うん、記憶にないな。
唯一覚えているのは、漸く面倒くさい城の関係者から解放されてテラスに出た後、サミュエルさんと共にやって来たエニスさんとエンマの事くらいだろうか。
サミュエルさんの姿を見た途端に泣き崩れた、エニスさんにもめちゃくちゃ驚かされた。何でも、ラズ達が持って来たリボンは、騎士が死を覚悟して戦地に赴いたときに残す代物だったからだそうだ。
サミュエルさん本人はエニスさんの反応に悪びれる様子もなく、だってこれが一番有効だったからと、あっけらかんと言ってのけて、エニスさんに怒られていた。
レイトはエニスさんのそれを聞いて、只でさえ青かった表情を白くしていた。今にも倒れそうになった所を、サミュエルさんと慌てて支えたのは印象深い。
ただ、俺らの為とはいえ、なんだか申し訳ない事したなあって思ったのも束の間だ。
だって、俺自身が余所見なんてしていられなかった。
「エンマ、心配かけて悪かった!」
我らの姉御の姿もテラスに降りてきて、迎えない訳がない。
誠意を示したくて頭を下げていたら、下からすくい上げるように深緑色が潜り込んで来た。おっと? これはいつもの奴か……? と身構えたのも束の間だ。目先にあった砂金を集めたような瞳と目が合い、俺は思わず息を呑んだ。
いっそ、怒られた方が気が楽だって、こういう事だろうか。叱るような様子も、戒めるような制裁もない。ただ、俺の姿をじっと見つめるエンマに、返せる言葉も見つからずに詰まった。
どんっと、鈍い衝撃を胸に感じた。それがエンマの鼻っ面だって気が付いた時には、申し訳なさに唇が震えた。すりつけるような仕草に胸を締め付けられたような気がして、誤魔化すようにその頭に縋っていた。
「ごめん……」
頭をなでながら抱きついたら、肺の空洞を震わせるように唸り声を返される。でも、威嚇しているわけではないその声には、ただ謝罪を繰り返す事さえも憚れた。
無事でよかった、って。優しく諭された。
それは俺のセリフでもある。勝手な事をして連れていかれたのは自業自得だけど、俺がいない間にエンマやラズに何かあったらどうしようって今になって不安になる。
もう勝手な事は出来るだけしないから。そうやって囁いた言葉は、今の俺には全く重みをもたせてやれない。行動で示すしかないんだけどって自虐したら、やっとエンマも笑ってくれた気がした。
けど。
……せっかく再開を喜びつつしんみりしていた所を、「じゃ、あとは竜騎士団の所で世話になってくれ。サミュエルは謹慎ついでにそいつらを面倒見てやって」 と、王子様にかるーく水注されたのは余談だ。ええ?! って、俺とサミュエルさんさんから不満が上がったのも言うまでもない。ぶち壊しだった。
任命されたサミュエルさんは不満そうにしていたものの、行動は早かった。
彼は赤い飛竜を呼ぶと、さっさとついて来いと飛んでいった。感動の余韻はどこに行った?
俺らも慌ててそんな彼の飛竜を追って、半壊した街を目の当たりにすることになる。
散々破壊された街は、主に竜騎士達の飛竜によって瓦礫が運び出されていた。勿論街の人たちも、そんな彼らに任せっきりではない。皆積極的に、負傷者に手を貸し街の修復に勤めているようだった。
なんというか、有事だからこそ結束が硬い気がした。
驚いたと言えば、遠くの地から遣わされたらしい支援隊が、その日の未明に城に駆けつけていた事だろうか。
一人や二人じゃない。商隊が組まれるほどの人数が、王子様がこぼしていた通りに、レーセテイブの西の王都から遥々この地にやって来たらしいから、驚かない訳がない。
正直言おう。
窮地を知っていたのなら、もっと早くに手を貸してやればいいのになあって思う。
……思うのだけど、まあ……お偉いさんにはお偉いさんの考えがあるんだろう。知らないけど。俺には関係ない事だしな。
さて、いい加減にこのまま眠ろうかなって思って、ぼんやり開けていた目を瞑った。今日はもう遅いもの。明日から、これからの事でもゆっくり考えてもいいだろう。
そう思って、寝返りを打つ。小さなテーブルに灯したままになっていた光がまぶしくて、うっすらと目を開いた。消しに行くの、めんどくさいなあ。
でも同時に気が付いてしまった。小さなテーブルに置かれたままの包みや、壁際に雑多に置かれたままの荷物が気になって、溜め息をついた。
やれそうな事をその日の内にやらないとって思ってしまうのは、最早どうしようもないのかもしれない。前世からのクセと言ってもいいだろう。溜め息が止まない。
「仕方ないな……」
結局ベットから這い出る事になるのだけど、この際気にしないようにしよう。
ずるずると匍匐前進でベットの上を進むと、靴を履くことも面倒臭くて、爪先だけで椅子に飛び付いた。
こういう時、室内土足厳禁じゃないと嫌になる。やってる事が子供みたいだなんて、外聞はこの際気にしない。テーブルの包みと一番大きい荷物を掴むと、すぐさまベットにとんぼ返りした。
荷物を改めるなんて、正直普段からやれれば必要ない事だとは思う。でも、宿に泊まるとシングルベットだから、どうしても荷物が広げられなくておざなりになっていた。せっかく広いベットが与えられたのだもの、今やらなければまた次の機会は遠いだろう。
荷物を乱雑に開けると、雑多に詰めたものが飛び出した。
真綿にくるんである竜鱗の髪飾りに、たぷんと中で怪しい音を立てた竹水筒。ウチを飛び出した時に着ていたシャツは、すっかりくたびれてしまっている。旅の間に新調した服だって、お世辞にも上等なものとは言いにくい。
出し忘れた宿題のプリントみたいに、しわくちゃになってしまった広告すらも、今となっては懐かしく思えた。
ドラゴンキラーの瓶の蓋なんて、なんで取っておこうと思ったのだろう? 不思議でならない。
小さな缶は何だったかと開けると、ツィーゲルさんが持たせてくれた花のお茶だった。ふわっと花の香りが広がる。やっぱりお茶は良いな。今度飲もう。
指にざらっと触れたのは、長い間のこの生活の間に鞄の中に蓄えてしまった砂だろう。指を払うと、きらきらと光が落ちていった。
そして目的だった巾着達を見つけ、思い出詰まった荷物を全部端に避けた。
今までまともに統一して来なかったけれども、いい加減に一つにまとめるべきだろう。ここまで集めた軍資金だ。今後の為にも、中身の把握は大切だろう。
一つめの麻の袋はずっと俺が財布として使っていたものだ。初めは重たかった筈のこれも、すっかり中身が減って軽くなっている。
ふと、これをくれたあいつの顔が思い浮かんだ。…………元気に、やっているのかな。あの村には……極端に近づかないようにしているけど、今度通りがかってみるのもいいかもしれないな。運が良ければ、遇えるだろうか。
中身は結局市場で使うような銅の硬貨くらいしかなくて、数えるまでもなさそうだ。俺の小遣いの少なさに苦笑してしまいながら、大人しく袋に戻した。
次に手にしたのは、レバンデュランがくれたもの。そういやこれ、深月君のクエストの為の援助金の残りだった。すっかり渡すの忘れていたけど……まあ、いっか。何度も会ってるのに一度として文句言われていないし。
「銅貨、と…………五グラム銀貨が、いち、に……」
静かな部屋に、金を数える俺の声が妙に大きく聞こえる。やってる事はみみっちくても、数えない訳にはいかなかった。
――――――ある事を、決意していた。
ずっとずっと、頭の端っこで考えていたことだ。
ある意味ずっと、逃げていた問題でもある、それ。
「こっちは……あのエルフのか? は、金貨? 頭おかしいだろ、こんなの。……ま、迷惑料なんだから、有り難く貰うけど」
ラズは、意味が解らないと言うだろう。
もしかしたら、エンマには今度こそ『愛の鞭』を打たれて、ベッド送りにされるかもしれない。
それでも俺は、ふたりに提案しなければいけなかった。進む為にも。
そして、俺自身があの日、あの時勝手に誓った事を成す為にも。
その決意は、何よりも固い。
どれくらいの時間が経っただろうか。数え始めて一時間が経ったのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
どちらでもいい。自分の目が信じられなくて、数える為に作ったいくつもの硬貨の山を二度と言わず三度四度数えなおしてしまった。
「十グラム銀貨……三十枚分。これで、揃った……!」
これでやっと、俺は進む事が出来るはず。




