正義の破壊者 .4 **
小さな小さなリボンの蝶の羽ばたきに従い、未だレイトを抱える男は悠然と歩いた。その姿はあたかも、自らの領域を歩いているだけのように見間違う。きっと、彼が城に相対する者なのだと知れば、城の者達はもっと、彼らの進行を妨げようとしたに違いない。
しかし、例え我が物顔で歩く彼の前に立ち塞がる者がいたとしても、恐らく時間稼ぎにもならない事は、レイトに絡んだ男が証明している。四人ばかりのメイドと、城の中枢に差し掛かるにつれて増えた常駐の兵達ですら、先陣と同じ末路だった。
不審の声を上げようとして、途端に彼らは姿を消した。同時に遠くで石畳を叩く音がするのでそちらに意識を向けると、目の前で消えたはずの匂いが、そちらに移されているのが辛うじて解った。それに気がついた事で、レイトは自分を抱える姿が何をしているのか理解した。
見上げる表情は、先程ラズをからかったきり、詰まらなそうに先を見据えているばかりだ。
「あ、の」
ただそれ以上に、レイトには限界だった。
「僕はもう、平気ですから。下ろして頂けませんか?」
申し出に、ゆっくりとこちらに視線を落として、初めて男は不思議そうに片眉をつり上げた。やがて、心得たのか表情が戻る。
「ああ。頭に血でも上ったか」
「ええと、それだけじゃなくて、その……花の甘い匂いが強すぎて、酔いそうです」
恐る恐る告げると、やや間があった。
レイトの言わんとした事をいち早く察したラズが、苦々しく眉を顰めていた。
「…………ああ。忘れていた」
きっと、両手が空いていれば手のひらでも打っていた事だろう。今気が付き、心得たと言わんばかりに頷くと、かがんで下ろした。
丁寧に下ろされた事にしどろもどろになりながら、恐る恐る地につけたレイトの足は、微かにふらついていた。鼻の奥にこびりついた香りを振り払おうと、頭を振る。すぐに言わなければならない事を思い出して、レイトは男を見上げた。
「あ、あの。重ね重ねありがとうございました」
「いや」
特別礼を言われるような事はしていない。変わらない表情が、はっきりと表していた。
ゆるりとまた、男は蝶の後を追う。
「貴方は……」
「ん?」
そんな姿に言葉が出そうになって、レイトは慌てて飲み込んだ。ただ、しっかりと聞き付けていた男が、振り返る。続きを言えと、促された気がした。
「……その、貴方は何故こんな事をするんです? 聞いていた貴方たちは、もっと……」
「なんだ?」
「もっと、その……面白半分でこの街を壊そうとしてるだけって聞いてたのに、こんな……」
言葉の続きを探そうとして、レイトは辺りに視線を向けるが、怪訝そうなラズしか居ない。不躾な事を言っている自覚のあるレイトは、それ以上目線を上げられなかった。
頭の上から緊張感が降って来ているような気がして、焦りばかりが募る。
だがその緊張感も、僅かな時だった。
「自由である筈の風が泣いていた」
「え?」
不意を突くように言われて、やっとその姿を見上げた。既に背中を向けられて、彼は再び歩き出す。
「だからだ」
釈然としていないレイトの横を、馬鹿でも見るような冷めた目をしたラズは抜ける。
「話すだけ無駄だよ。あれはもう、やるって決めてるんだもん。周りの声なんて関係ないよ」
まるでラズの言葉を同意するように、微かに振り返った男は唇の端でうすらと笑っていた。
「よもや、最も周りなんて関係ないお前にそれを言われるとはな。……いや、竜の性質を考えれば当然か」
「煩い。関係ないでしょ。そっちに何が解るって言うのさ」
「さあ。解らないな」
軽口は、そこで途切れた。男がとある扉の前で足を止めたせいだ。
ひらひらと羽ばたいていた朱色のリボンはほどけ、青い絨毯の上に落ちた。そこで漸く、先程まで彼らが歩いていた場所とは様子が違う事に気がついた。
辺りの雰囲気も、要塞のような物々しさから身分のある者が居る気位が感じられる。
内部では既に揉めてるらしい。
好都合だと、躊躇う様子もなく男は扉に手をかけようとして、止めた。
「けど、俺を脅したからって、あんたたちが温室で実験してた事がなくなる訳じゃねぇ、だろ!」
同時に扉の向こうから、ラズ達がよく知った者が非難の声を上げていたせいだ。それに対して、静かな声が反論している。分は後者にある事が手に取る様に解る。
たったそれだけの事なのに、レイトが縮こまって後退りするには十分だった。
即座に乗り込んで行こうとするラズを、一瞥しただけで押し留める。男は、中の騒ぎたちがこちらに気がついていないのを良いことに、暫し聞き耳を立てた。
その背中に、ラズは眉を顰める。
「立ち聞きなんて趣味わる」
「情報も武器だ。タイミングも、な」
「……むかつく」
やがて確信を得て、大きく扉を押し開く。
「なるほど。つまりこの場を掌握してしまえば、この地の首は我々の手中同然という事か」
薄く笑った男を前に、そこにいた者たちは動きを止めていた。王子と女騎手、それからおまけの一般人。男がゆっくりと視線を移していくと、最奥の祭壇に立つ巫女だけが、微かに驚きを見せたあとに、即座に眉を顰めていた。
視線が交差したのはその一瞬。一息つくよりも先に、巫女は動いていた。
巫女が微かに唇を動かす。それだけで、彼女の祈りを代行するかのように風は刃と形を変えて、空を切った。
男には、きっと見えていた事だろう。しかし、薄く笑うばかりの姿は避ける事もしなかった。
「あっ……!」
目の前で起きた光景に、レイトは息を飲んだ。先まで見上げていた筈の姿の背が、縮む。
はるか背後で、何度となく聞いた物が落ちる鈍い音がした。何が落ちたかなんて、確認するまでもないだろう。
首の離れた胴が、やけにゆっくりと倒れ込んでいた。
扉の向こうでは、まるで何事もなかったかのような声が告げていた。
支えを失った扉がゆっくりと閉じられようとする。中で震える声を聞き付けたラズは、不快感をあらわに深く溜め息をこぼした。
「ねえ、ちょっと。遊んでるの?」
「ひっ……」
レイトはラズに睨まれて、思わずその身を固くした。だがそんなレイトの事なんぞ、ラズは見ていない。遥か後方に向かって、当たり前のように文句をつけた。
「あんたのせいで兄ちゃんが驚いたじゃないか。どうしてくれるの」
答えは、すぐにあった。
「……やれやれ、手荒い歓迎じゃないか」
ぽん、と、誰のものと解らない手が、レイトの頭に乗せられた。飛び上がった彼が首の筋を痛めそうなくらいに素早く振り返ると、そこには同じく、彼らをここまで連れてきた男の姿が当たり前のようにあった。
レイトが戸惑って、先の扉を今一度振り返ったのは仕方ない。首のない身体は、刹那、風の結び目がほどけるように姿を消した。
吹き込むはずのない風が、微かに甘い匂いを含ませて、無機質な廊下の空気に溶けて消える。
目を白黒させる姿がお気に召したのだろうか。男はクスリと唇の端で笑うと、指を一つ軽やかに鳴らした。たったそれだけで、両開きの扉は彼の前から消え失せる。否、爆破でもしたかのような轟音を伴って、跡形もなく吹き飛んだ。
「そんな……!」
驚いた声は、一体誰のものなのか。
そんな些細な事は、上機嫌な男の笑みに一蹴されるのだ。
「花に、首はない」
つと開いた手から、藤色の花弁が儚く散っていた。
悠然とした男の面持ちに、巫女である少女だけが悔しそうに唇を噛んでいた。
短めですみません。
役者が揃ったところで戻ります




