拝啓、鉄格子の間より .3 *
声につられて、辿るように目線を上げて辺りを伺うと、温室のように茂った観葉植物の向こう側から、そいつはゆったりとやって来た。いつも通り、妙にスカしていて気に食わない。
俺よりも頭二つ分程度高く、うらやましいくらいに体躯に恵まれたその姿。赤褐色の髪は、相変わらず獅子のようで存在感は抜群だ。切れ長の目を楽しそうにすっと細め、相変わらずにやりと笑う。
……だから、その獲物を見つけたと言わんばかりに威圧感ほとばしらせるのやめてくれないか。一度は情けない姿を拝めたと言っても、はっきり言って未だに怖い。
ああ。怖いよ。だって今は、俺一人だ。心細くて仕方ない。
散々打ちのめされたあの日を思い出して、背中がぞくっと鳥肌が立った。……震えなかっただけ、マシだと思う。
なんでこいつがここに居るんだよって、悲鳴を上げられたらどんなに楽だっただろうか。
「チルオール・トルエニア……」
前門の虎後門の狼ってか?
ははっ。いや、ただの挟み撃ちか。敵の敵は味方じゃないって話だよ。けっ!
残念な事に、俺の呟きは歌舞伎野郎にもばっちり聞こえてしまっていたらしい。取って食おうとするかのように、唇の端で笑いやがった。
よく覚えていましたね、ってか。くそ。
「おやおや。まさかあなたが戻って来るなんて意外ですねえ。ふふ!」
このおっさんですら、そいつの登場には少しばかり驚いたようだった。有り難いことに、俺に迫りくるのを止めてそちらに向き直った。
今の内にこの場を離脱してやろうと、さりげなさを装いつつ見回す。一番近い場所は……元来た場所だけど……うん。そっちに行くのは有りえない。牢屋に続いているって事は、少なくとも常駐の見張りとか居そうだもんな。
「やはり、元の騎士職に納まる気になりました?」
だが、よそ見していた耳にとんでもない言葉が飛び込んできて、おっさんの言葉に思わず口が空いた。そちらをまじまじと伺っていしまったのも無理はない。
こいつが、騎士?
……何の悪い冗談だよ。こんな、頭のネジがどこか飛んでいる系の騎士が国を守ってるなんて、世も末じゃねぇか?
驚いている俺を含めて、そいつは鼻で笑いやがった。
「騎士職? 例え戻りたいって思っていたとしても、そうありたいのは俺じゃねえな?」
「ふふふ、とぼけた事を。間違いなくあなたでしょうに」
「冗談。あんたの言うそいつはよ? 『双頭』なんてつまらない称号なんかに誓って、世間知らずのお姫様に手向かう敵から身を守るクソ犬。絶対の盾だとかヌカしていた、どこぞの大馬鹿野郎のチルオール・トルエニアの事だろう?」
したり顔で言う、歌舞伎野郎の言葉の意味が解らない。
確かに目の前で笑うこいつは、俺に対してその様に名乗っていた筈だろうに。何で、まるで他人の話だと言わんばかりなのだろうか。
だが、状況を解っていないらしいのは、俺だけみたいだ。
俺の反応が望んだ通りのもので、心底愉快だとチルオールにはくつくつと嗤われた。なんで負けたような気持にならないといけないのか、遺憾である。
……ってか、ん? 待てよ?
今、何か聞き覚えがあったような気がした。でも、何に自分が引っかかったのかが解らない。
残念なことに、当然ながらこの場にいる奴が、俺の感じた疑問に説明してくれるはずはない。どうやら理解していないのは俺だけで、おっさんの方もチルオールの言葉の意味は解っているらしい。
「おやおや。どうやら爪と空の王者とて、その由縁を持つ身体を捨て置く事は出来ないようですねぇ。執着でしょうか? 実に興味深い」
嬉しそうにメモを取っているおっさんに、ここまで熱心な研究者然とする姿は、忌避どころかもはや脱帽ものだ。キチガイってすげえ。
「ハッ! 笑わせんな。この身体も、あれも、全部! 俺のもんだからに決まってるだろうが」
「欲張りですねえ。あなたが今所有して使っている身体の主は、そもそもがこの地の王族なのですが? 貴方の場合、眷属って言えばよいのでしょうかね? あなた方の界隈で眷属を奪うのは御法度なのだと聞いていましたけれど、あなただけは例外だとでも言うのですか?」
「馬鹿言え。ヒューマン如きが驕るな?」
「ふひゃ! おかしな事を言いますねえ? そのヒューマンにまんまとしてやられた挙句、爪と空の王者でいられなくなったあなたが! まさかそんな事いうだなんて! ふ、ふ、ふ! ふ、ひゃひゃ!」
さも驚いたって言わんばかりに、おっさんはオーバーリアクションで仰け反ったかと思うと、我慢できないと言わんばかりに腹を抱えて転げまわった。
文字通り。最初は腹を抱えて笑っていたけど、それだけじゃ満足出来なかったみたいで、身体を折った拍子に頭から転がり、そのまま地面をごろごろと転がった。
げらげらと笑うそいつに、言うまでもなくチルオールは気分を害したようだった。
「チッ! …………調子に乗りやがる」
目線の先に居た筈のそいつは、途端に姿を消した。
ノーモーションでおっさんとの間合いを詰めたかと思うと、次の刹那には一撃でおっさんを踏みつけていた。
「うぎゃっ?!」
悲鳴が上がるまで、俺はチルオールの姿を見失っていた。
転げまわっていた姿を止めたんだって、そいつがおっさんを踏みつけたまま、顔を覗き込んだところでやっと気がついた。
「なあ、この外道。王者っつーのはよお? なあ? クズ野郎。図体のデカさどうこうでなるもんじゃねぇんだよ。あ?」
「あ?! あががっ……! お、およしなさい! あなた、この世の神秘を解き明かし、この地に集結した英知の詰まった貴重な頭脳を足蹴にするなど! ゆ、許される事じゃありませ――――――んぎゃっ!」
「黙れっつってんだろうが。てめえの頭に詰まってるのは、腐りきった探求心以外の何物でもねえんだよ。どんなに建前並べても、てめえがやってることは神秘の究明なんかじゃねえ。いかにも綺麗な目的のように飾り立てて喚いているんじゃねえよ、クソッタレ」
ぐりぐりと他人の頭に踵をねじ込む構図なんて、正直言って生で見たくなかった。おっさんはどうにか足の下から抜け出そうともがいていたが、一際強く踏みつけられたせいで、その動きも止まる。
……あれ、大丈夫なのか? 外道はお前もだろうって思ったのは、ぶっちゃけ余談だ。
「レピュスがてめえで片をつけるって言いださなけりゃ、最っ高の見世物にしてやったのになあ? ホント、残念だ。精々あいつに感謝するんだな」
残念だと言いながら、犬歯を剥きだしに笑っている所を見ている限り、残念がっているようには見えない。
ああ、そういえば彼女は入れ替えられたって言っていたなぁって、思い出した。その原因がこのおっさんなのかって聞かされたら、妙に納得してしまう。
その足元で、おっさんは不思議そうに首を傾げていた。
「れぴゅす……? はて?」
心底不思議そうにしている姿にぞっとしない。このおっさんは多分、本当に心当たりがないのだろう。
まあ、うん。
なんとなく、そんな事だろうなって思った。だって、マッド系の研究者だし。実験動物は、あくまで使うためにある消耗品だって、普通に思っていそうだもんな。
だが納得している俺の目の前で、あからさまに空気が変わった。
背筋と言わずに腕や足、全身の毛穴が縮み上がり、肌が泡立った上に、頭髪までも恐怖から身を守る為に膨らんでいるじゃないかって錯覚してしまう程のぞわっとした気配に、膝の力が抜けた。膝と言うか、腰って言うか。
失禁しなかったのはほんとよかった。恐怖自体があるものの、不思議と命の危険までもを思う程ではなかったお蔭じゃないだろうか。
当然今、目の前で一体何が起きたんだって、捜すまでもなかった。さっきまで口が悪いながらも不敵そうに笑っていたチルオールから、表情が消えていたからだ。
「てめえは、好き勝手腹ん中刻んだ奴の事すらも覚えてねえのか」
まるで地響きだって、錯覚した。地面が意思を持って喋ったらきっと、こんな感じじゃないだろうか。
多分、これは殺意だ。俺が知っている限りのこいつからは考えられないのだが、純粋な怒りなんじゃないだろうかって気が付いた。
でもそんな空気も物ともせずに、おっさんは不思議そうにするばかりだ。空気読めないって、よく言ったもんだって思う。
「腹を刻んだ? はて?」
やっぱり心当たりがないって言わんばかりのおっさんに、今度こそ、俺までも身の危険を感じた。すぐに逃げられそうな場所……は、相変わらず、元来た方の階段しか思いつかない。
逃げ切れ……ないだろうなあ。って、呑気に思ったのは、毎度お馴染みの現実逃避である。成るようにしか成らないって、もう達観した。
「そのような物に覚えなんぞ…………ああ、あの四大精霊の端材でちゃっかり生き延びたヒューマンの事でしたか? すみませんねえ。副産物よりも、主要なものの記録が忙しかったもので、すっかり記憶にありませんでしたよ。ひゃひゃひゃ!」
救えない。
悪びれる様子もなく笑う姿に、そう思った。
「チッ……ああ、そうだろうな。だからてめえは……!」
多分、そう感じたのは俺だけじゃないだろう。苛立ちを隠す事無く、チルオールは再三おっさんの腹を踏みつけ蹴り転がした。ぎゃって悲鳴を上げて丸まったおっさんに、もはや同情はしようがない。
……まあ、だからと言ってチルオールがやってる事は、そもそもかなり一方的で褒められた事じゃないけどな。
でも、そう。可哀想だって思ってしまった。
自分でも、散々俺とラズの事を痛めつけて来やがったこいつに持つような感情じゃないって事は、よーく解っている。建前があるから、周りに同じ事をしていい免罪符になる訳じゃない。それでも、だ。
「あんたは……」
だからだろうか。気が付いたら逃げる事も忘れて、俺は話しかけてしまっていた。
「あんたはそのヒトに、復讐でもしようっていうんだな」
「は?」
尋ねてから、後悔した。場違いな質問だってすぐに自分で気が付いてしまったって事もそうだし、そもそも悪人面で笑っていたチルオールが『何バカな事聞いてきているんだこいつ』って顔をして、こちらを伺っていたせいだ。
「復讐……復讐、ね」
まるで馴染みのない言葉だと言うように聞こえた。復讐どころか、『言いがかり』とか『不条理』とか『一方的』とかって言葉が最も似合いそうな野郎が、まるで自分には当てはまらないと言わんばかりに首を傾げているから、正直違和感しかない。
怪訝に思えて眉を顰めていた俺に、そいつは今度こそ馬鹿にしてくつくつと笑った。
「ハハ! 俺は、そんな可愛らしいもので済ませる気は、これっぽっちもなかったがなあ?」
犬歯を剥きながらこちらを見下ろしてくる姿に威圧されたせいだろうか。ぞわっと、再び全身に寒イボが立った。
いいや、さっきの比じゃない。
明らかに、心からの害意であり、逆鱗に触れてしまったようだった。
復讐が可愛らしい、だなんて言われて、『蹂躙しつくさなければ気が済まない』って、聞こえたような気がしてならない。
ああ、ああ。こいつは面白がっているうちはまだ、可愛げがあって安全――――って言っても、俺にはちっとも可愛くも安全にも思えないけど――――だったんだって、今更のように思い知った。
間違いなくおっさんや、そしてもしかしたら俺ももう、ここから生きて出られないんじゃないだろうか。そう覚悟せざるを得なかった。
その時だ。
ギンッ! と、金属同士がぶつかったような鈍い音が響いてきた。ざわ、と、この温室の中の空気が変わったのは、恐らく気のせいではないだろう。
直後に、何か大きなものが壁に体当たりでもした振動と、カランカランと軽い音が響いて来た。
「……遅かったな」
やっとか、って。チルオールが音の方に目を向けながら呟くから、つい、音のした方に一瞥くれた。途端、緑の向こう側と目が合った気がした。
――――ヤバい。
咄嗟に思ったのは、それだけだった。目を合わせてはいけないものに、狙い定められたのが解った。射竦められて怯んだ拍子に、へたりこんだままの地面に尻から縫い止められた気がした。
緊迫したのはほんの一瞬。温室らしく繁った植物を掻き分けるように、それはやってきた。
「あ……あああ……! なんて勿体無いことをしてくれたんです……!」
転がされていたおっさんは、玩具を取り上げられた子供みたいに悲壮感漂わせて目を見開いていた。
目の前に立ちはだかるように、そびえ立つように、次第にその姿の全貌が姿を現して来る。動けない俺を舐めるように見ながら、ひたひたと足音を忍ばせて距離を詰めてきた。
後退ることも、恐怖に悲鳴を上げることも出来そうにない。首をもたげてギロリとこちらを見下ろす姿を、俺は呆然と見返すばかりだ。
その全長は一体何メートルあるのだろうか。見上げた頭が既に三メートル以上ある気がしてならない。
……いや、ほんとヤバい。
動くと頭から食われる。そんな事まで否応なしに理解させられて、ゾッとした。
やがて、かがめていた頭を反り返らせて、随分と上からこちらを見下ろした。鷲の鋭い眼差しが、獲物を品定めしている。比喩じゃない。鷹の頭だ。
のし、と音もなく踏み出した足音は聞こえない。大猫……いや、きっと百獣の王の身体と言った方がいいのだろう。
「な、んだよ……コレ……」
貼りついた喉から、かすれた声で零れてしまった。何だよって聞いたのは、自分の脳裏に過った姿を否定したかっただけだ。
――――グリフィン。
ただ、種族の名前として、そう呼んでいいのかすらも解らない。ただならぬ強者の風格、とでも言えばいいのだろうか。動くことすら、許されない。
さっきの話は、本当なのか?
理解が追いつくはずがなくて、俺は、そんな俺の反応を見て楽しそうに口元を歪める歌舞伎野郎に、恐る恐る視線を向ける事しか出来なかった。




