穏やかなひと時は続かない .5 **
「失礼致します」
「はいよー」
控えめな声と共に開けられ扉には、犬の獣人少年が深く頭を下げていた。垂れた耳に、つい目がいく。恐らく下働きなのではないだろうか。動きやすそうな作業着を着ていて、下働きだろうが大事にされているんだろうなっていうのが解る。
顔を上げようとしないのは、俺らに気を使っているからか?
ただ、うん。あれ……?
気のせい、だろうか。その声には聞き覚えがあった。
最近じゃない。
人懐っこくて、まだ声変わりを迎えていない少年のような高い声。
「サミュエル様、お客様がいるところ、すみません。ヴィンが起きたのでお知らせに来ました」
「おー、ありがとう。いつも悪いな」
「いえいえ、僕の仕事ですから!」
ぱっと慌てたように顔を上げた。サミュエルさんのお礼に、黒い瞳が泳いでいて可笑しい。
ああほら、だって、いつもそうやって俺を見上げていたの、覚えている。
聞いたのは、そう。
俺がまだ、親父殿の店に居た――――。
「え、あれ……ディオさん……?」
こちらに顔を上げた途端に、きょとんとした表情が驚きに目を見開いた。
ひょっとなんて、しなくもない。
「レイト」
自分の口から出た名前に、自分でも驚いた。
有り得る訳がないって、思ってたから。こんなところでかつての『商品』に、会うと思っていなかったから。
呆気に取られていると、破顔した犬耳少年が飛んできていた。
ん? 知り合いか? って、サミュエルさんが聞いてきた気がする。
だが、それを聞き取ることも、ましてや答える事も出来ずに、俺は腹に来た衝撃に椅子ごと吹っ飛ばされかかって、一瞬意識が飛んだ。
「ふがっ!?」
「兄ちゃん!」
ガタン! と、椅子が大きく揺れて、危うく背中から一緒に倒れそうになった。口から何か出てはいけない物が出た気がする。
天井の木目がヒトの顔に見えるのは、心霊現象なのかなぁー。そっかー。
幸い、この抱きすくめてくる万力のお蔭で、倒れる事はなかった。
だが、ぎりぎりと脇腹を締め上げてくる腕が余りにも苦しくて、現実逃避すらしてる場合じゃなかった。
「ディオさ……ああああっディオさん! ずっとお会いしたかったです、ディオさん!」
やばい。俺の胸骨を折る勢いで頭押し付けてくるその向こうで、ぶんぶん振ってるようなあの尻尾はなんだろう。そして、左側からは悪寒がする。
いや、そうか。きっとこれは、お迎えが来るって奴だろうか。
「おーい、レイ。落ち着け」
「ちょっと! 兄ちゃんに何するの。駄犬の分際で。離れて」
意識が遠くの故郷に旅立とうとし始めたとき、べりって音がするんじゃないかってくらい乱雑に、その姿が引き離された。
すなわち、サミュエルさんは〈レイト〉の首根っこを捕まえてくれ、〈レイト〉を突き飛ばした間に、ラズが立っていた。
……ん、あれ?
前にもあったな。こんなデジャヴ。
前は猫のフリした狐…………まあ、いいや。
「なっ、ヤナ?! なんで、お前がここに!」
ハッとしたのは、何も俺だけじゃなかった。目の前に立ったラズに、レイトはあからさまに嫌な顔して牙を向いていた。
その姿を、ラズは鼻で笑っていた。
「なんで? 僕は兄ちゃんの行くところになら、どこにだって行くよ?」
羨ましい? って言われて、何故か悔しそうにしているのがよく解らない。サミュエルさんまでも苦笑しまくっている。
ただ、うん。ふたりを言い合いさせていても仕方がなさそうだ。
「あー、レイ? もしかして、これが前に言っていた……?」
「はい! 僕のご主人さまでした!」
おい。そこのワンコ。違うから。
首根っこを掴まれながらも、清々しいまでの笑顔で宣言した〈レイト〉に、サミュエルさんは妙に納得した様だった。
いや、っていうか、サミュエルさんに『これ』って言われるの地味に傷つく。散々馬鹿にされてるから今更だけど、これって……。
……あれ? 今のサミュエルさんから見た俺って、もしかして、エニスさんと同じ扱い? うそん。
まあ、そりゃ、今の主人が自分なのに、元主人だっていう奴が現れて、自分の所有物が喜んでるなんて面白くないかもしれないけどさ。俺の扱い地の底まで落ちてる気がしてならない。
気にしてないけどね。うん。気にしてない。大事な事だから三回言った。
異論は認める。
便宜上つけていた〈レイト〉ってナンバリングを、こうして名乗ってくれているとは思わなかった。今こうして喜んで名乗ってくれているのを見ると、あの時の俺のやってた事は間違っていなかったんだって思えて、俺も嬉しい。
「元気そうでよかった。それにしてもレイト、あの時の冒険者のヒトはどうしたんだ?」
「え! えっと……」
何だかんだを遮る様に尋ねたら、今度は目に見えて「ええと、その」 と、視線を泳がす様は変わらない。
なんだか懐かしくて、また笑ってしまった。
「別に怒ったりしないから、言いにくければ言わなくていいぞ」
「あ、いえ! そういう訳じゃないんです!」
「おう」
あまりにも声を上げるから、その勢いに俺も押されてしまった。
「あの方は……その、冒険者であり、仲介人、でして」
「仲介人?! あー……なんだ、そういう事か……」
なるほど。納得した。
なんで冒険者なのに、ラングスタの上客なんだろうって常々疑問だった。だけど、ウチで買って他所に売っていたなら、説明はつく。
多分、親父殿もそれは解っていたんだろうな。レーセテイブの端っこで商売するよりも、各地を巡る冒険者に一任した方が儲けもあったんだろう。
……まあ、今さら店の事情知ったところで、何か意味がある訳じゃないけどな。強いて言うなら、こんな北の国にも親父殿の情報網はあるのか?! って思ったら、恐怖しかない。
嫌だな、どうしよ。兎に角、この街に長居するのは得策じゃない。早いとこエニスさんからお金受け取って、とんずらさせて頂こう。
こんなところで親父殿に居場所がばれるかもしれない恐怖に遭うなんて、思ってもみなかったぞ?!
俺が内心で焦っていた時だった。
背後の扉がノックされて、思わず飛び上がってしまった。寿命が縮んだかと思った。
周りの皆は――特にサミュエルさんに――面白そうに笑っていたけど、俺にしてみれば冗談じゃない。このドキドキ感、誰か解ってくれないか。親父殿に見つかるかもしれない恐怖は、直結で命の危機への恐怖なのだから。
「エニスかな? それとも団長? まあいいや。悪い、レイト。迎えてやって」
サミュエルさんののんびりとした口調に、そうだよなって思えた。流石の親父殿も、噂したからってここまでは現れない。
「はい、もちろんです!」
屈託ない笑顔を浮かべたレイトは、多分今この場所で、本当に大事にされているんだろう。何だか授業参観している気分になって来て、漸く気持ちも和む。 再びノックされた扉に、「お待たせいたしました!」 と弾んだ声で返答している姿すら、今の俺には微笑ましかった。
ラズはどこか面白くなさそうにしているけど、まあ、今日くらいは大目に見てもらうしかない。
ただ、扉を開けた先にあった姿は、エニスさんでも、団長さんでもなかった。
なんで会った事もない団長さんじゃないか解ったかって、そいつが灰色のインバネスを着ていたからだ。
扉を開けたレイトの姿に、そいつはあからさまに顔を歪ませて、汚いものでも見るような眼を向けていた。
「チッ! なんで小汚い下賤の犬がなんでこんなところにいるんだ」
低い声で唸ったかと思ったら、何の躊躇いもなく腕を振り上げた。
直後に何をしようとしているのか解った。その時には、もう身体が動いていた。
椅子から転がるように飛び出して、レイトの首根っこを捕まえて背中に隠した。直後に来るであろう衝撃が怖くて、思わず空いた腕で頭を庇い、目を瞑る。
だが。
「ちょっとー? ウチの下働き君に手を出さないでくれる? 城は竜騎士を敵に回したいんだ?」
来ると思っていた痛みは無く、代わりに背中の方でサミュエルさんはのんびりと告げた。
「チィッ! うるせえ! 物好きではぐれ者同士、精々仲良くしてろ!」
やり場を失った腕は、乱雑に空を切った。罵る様子だけなら、三下臭い。きっと、使いっぱしり程度なんじゃないだろうか。
ただ、灰色のインバネスを纏った姿が、『ただのストーカー』ってだけじゃない事を俺もいい加減理解している。少しずつ、レイトを庇いながら後退って距離を確保していたら、ちら、と、今度は俺の方に視線を向けた。
上から下まで舐めるような視線が気持ち悪くて眉を顰めたが、クソ野郎は気にした様子はない。
「貴様がディオだな」
ふてぶてしい言い方に、イラッとする。
視界の端で、レイトが震えているのに気が付いて、余計に腹が立った。
「は? どちら様で?」
「貴様が思想犯だという知らせは、エニス・レイバールより受けている。素直に投降すれば、多少は酌量してやってもいい」
「………………は?」
突き付けられた言葉に出たのは、間抜けとしか言い様のないそんな一言だった。ぽかんって、口が開いたのは仕方ないと思わないか。
っていうか、言いがかり酷くねえか?
なんで今そこでエニスさんの名前がわざとらしく出るんだろうなあ?
ちょっと、色々、訳が解らない。
どういう事だろうって、思わずサミュエルさんを振り返ってしまった。
「に――――」
けど、不安そうに、というか、爛々と目を輝かせて椅子の影からこっちを伺っていたラズは、その隣に居たサミュエルさんによって、口をふさがれていた。味方は、いないらしい。
なんだ? 今何が俺に降りかかろうとしている?
状況が理解できない。
「言っておくが、貴様が何を言おうが、事実は覆らないからな。大人しく我々に従え」
ただ、どうやらこいつらは、俺だけが目当てだという事は解った。
ちらりともう一度サミュエルさんを伺ったら、自分は関係ないと言わんばかりに視線を反らしていた。横顔は無表情だ。……食えない。おまけにレイトは真っ青で痛々しい。
ただ、ラズが大人しくなったところを見ると、何かしら吹き込まれたんじゃないだろうか。そうでなければ、大人しく座っていないはずだ。
……なら、大丈夫、か?
いや、捕まって大丈夫って判断はおかしいけどもな?!
まあ、まあ。けど、よくよく考えたら現状として、サミュエルさんにエンマを人質に取られているようなもんだ。ラズをどう丸め込んだのか知らないけど、下手な事して、そっちまで盾に取られたら、たまったもんじゃないからなあ……。
俺の中で、ひとまずいくつか打算が働いた。
このままついて行って大丈夫なのか、不安がない訳じゃないけど、エニスさんが絡んでいるらしい以上、直ぐにはどうにかならないだろう。
……。
…………。
………………と、思いたい。
「解った」
「賢い選択だな」
端的に告げたら、クソ野郎は満足そうに卑下た笑みを浮かべていた。乱雑に腕を掴まれて、正直かなり痛い。今にも悲鳴をあげそうなレイトが、腕を掴んだまま抵抗してくれようとしてくれていたけど、あっさりと引きはがされていた。
腕を後ろで縛られて、軽々と俵のように担がれたのがなんだか悔しい。
「では、竜騎士の協力に感謝しよう」
俺を担いだそいつは、長居は無用だと言わんばかりだ。
サミュエルさんが、抑揚のない声で唸った。
「そう思うなら、二度とウチの敷居を跨がないでくれる? 不愉快」
「ハッ! 言われなくとも、こんな獣臭い家畜小屋なんて来ねえさ」
今、サミュエルさんがどんな顔で、このクソ野郎に受け答えしていたのかは伺えない。それどころじゃなかったって言うべきか。建物の外に連れ出された途端、クソ野郎の足元にて魔法陣が展開されていた。
外に出た途端に周りの景色が滲んでぼやけ、どこかに転移しようとしているのだと知る。
景色が完全に転ずる直前。
「にいちゃ……!」
やっと、そんな声が聞こえた気がした。
ただ、声はまるで消しゴムで無理やり消したみたいに、余韻もなくぶつっと途絶えた。
次の瞬間には既に景色は暗くなり、湿った匂いが鼻についた。どこかに連れ込まれたのだと、直ぐに解る。
いや、『やっと』ってなんだよ。
俺、心配して欲しかったのか?
と、言うか。うん。
俺、大丈夫……だよな?
全力で保身に走りたい。




