ありふれた俺の日常は奴隷によって変わる.1
再投稿作品の為、大きく変更がない限り細かい修正のみ行っております。
大きな変更があった際には前書きにてお知らせいたしますので、ご容赦くださいませ。
レーセテイブ島、蒼風の月五日。日の出前。
木と漆喰の室内は、朝の空気にひんやりとしている。ベッドから出たくない。
代わり映えのしない一日が始まる。そう思うと、欠伸が止まらない。
ベッドの片脇にある窓の外に目を向ければ、間続きの建物に遮られた藍色の空はオレンジ色を無理やり混ぜ込んだような色をしている。ぼんやりとしている間にも、下方からその濃紺を薄くして、水に溶かしたような透き通った色に変わっている。
あと三十分もしない内に、夜は明けるだろう。
「…………起きるか」
明かりをつけるまでもなくて、馴れた足取りで部屋を横切る。昨日から汲み置きしておいた桶の水で顔を洗って、洗濯された草木染めの制服用シャツに袖を通した。
身だしなみは整えろと言われているせいで、俺の部屋にまである高価な鏡を覗けば、寝ぼけ眼の黒髪黒目が見返してきた。それを見て思うのは……ああ、眠いな。ただ、それだけ。意識がぼやける。
眠いせいで自然と視線は足元に落ちて、板張りの床のワックスがハゲかかっている事に気がつく。
……そろそろ塗り直さないといけないと思うと、正直面倒臭い。いっそのこと、誰かの予定を変更させて塗らせるかなぁ、なんてズルい事をぼんやりと思う。
デスクの上に放り投げたままだった日誌を取って、パラパラとめくる。そこに綴られているのは先一週間の個人の予定。どいつもこいつもきっちりかっちり予定はあって、自分で入れたにも関わらず嫌になってくる。
誰だったら、俺の変わりにワックスがけやってくれるだろうか、と。ずるい考えの元、物思いに更けた。それを眺めながら部屋の扉を開け放った――――その時だ。
「おはようございます、ディオさん!」
身支度をすっかり整えて自室を出れば、真っ先にそんな元気のいい声がかかって、俺は初めて日誌から目線を上げた。
作業場へと続く廊下はシンプルに木造漆喰。客が来ない場所に絨毯なんて、当然引いていない。石畳じゃない分寒々しさはないが、やはり明け方は冷える。
そこに居たのは、木製バケツを両手に下げた犬の獣人の子供。バケツの中の水をこぼすことなく、嬉しそうに飛んできた彼の姿につい苦笑してしまった。
「おはよう、〈レイト〉。今日はお前が水汲み当番だったんだな」
目線を合わせて訪ねてやれば、きらきらとした笑顔で頷かれてしまう。
「はいっ、今日は〈ミナ〉と〈ナナイ〉が一緒です」
「そうだった。ふたりはどうしたんだ?」
「えっと、〈ミナ〉は先に行ってしまって、多分もうこっちに戻ってます。〈ナナイ〉は途中で転んでしまって――――あっ! そのっ、ごめんなさい! 今急いで汲みに戻っているところなので、罰は…………!」
ハッとして、慌てだした姿が可笑しい。慌てるくらいならば言わなきゃいいのにな、なんて。正直者過ぎて、先が不安になってしまう。
……いや、そもそもそれは奴隷に言う言葉ではない、か。自分の白々しさについ、自嘲してしまった。
それを誤魔化すように、〈レイト〉には笑いかけてやる。
「あっはは、うん、解った。頑張ってるみたいだから、親父殿達には黙っててやるよ。代わりに、これ置いたら〈ナナイ〉を手伝ってくれるか?」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
「よし、行きな」
くしゃっとその頭を撫でてやれば、尻尾をちぎれんばかりに振っているのが見えてしまった。
良くない兆候と解っていても、甘ちゃんの自覚がある俺には達観することくらいしか出来そうにない。他の奴らに見つかったらきっと、また小言を言われてしまうんだろうな、なんて。
でもそれは仕方がない事なんだって、諦めている。俺には厄介な記憶があるせいで、周りと同じように、彼らを突き放す事は出来そうにないのだから。争い事、乱闘騒ぎは御免だ。
厄介な記憶と言うのも、端的に言ってしまえば俺には前世の記憶がある。それも、世界で一番治安がよくて平和とされている日本で、うすらぼんやりと過ごしていた日々の記憶だ。
昔はどうして、こんなにも自分が争い事を好まないのだろうと疑問にも思った事もあった。どうしてこんなにも、全てが他人事のように見えてくるのだろう、と。
だが、そんなの考えるまでもなく解りきった事だ。ぼんやりと生きていた記憶があるから、ここが夢の世界のように感じてしまう。ゲームの中に紛れ込んでしまったような、そんな感覚に。
その記憶があるから、モンスターが跋扈し、冒険者達は剣や魔法を存分に奮い、ウチみたいな胸くそ悪い商売だって罷り通るこの世界に馴染めない自分になってしまったのだろう。
いや、そもそもあちらの世界で人格形成されてんだ。別に、その事に何の疑問も思わないさ。
……まあ、親父殿を初めとして、他の従業員や周りの奴らには口が割けてもそんな事は言えないけどな。
『日和人の甘ちゃん息子』。
それが、周りからの俺の評価だ。そしてその立場に俺は、甘えて暮らしている。とても楽だ。そう、そう言われていることがとても楽だ。それで十分。
奴隷商会ラングスタ。それが今世の俺の居場所であり、ウチの商売なのである。それを取り仕切っているのが親父殿であり、俺はその息子として――――あるいは一従業員として日々、商品である奴隷達の面倒を見ている。
三食食えて風呂に自室付き。しんどい肉体労働も何もない! その生活に不満? そんなもん、有るわけがない!
ああ。あるとしたら…………『商品』への申し訳なさ、だろうか?
奴隷商。まさか、生まれ変わって人身売買に携わるとは思ってもみなかった。……いや、前世でもそれに似たもの自体は意外とあったか。
……まあ、いいや。今さら俺には関係ない話だ。
朝飯よりも前に真っ先に俺が向かうのは、彼ら奴隷を収容している別館である建物だ。毎朝奴隷達の健康状態やその様子を確認するのが、俺の最初の日課。
周りはもう、同じように朝飯前の仕事におもむく奴隷たちで賑わっている。
彼らが行うのは〈レイト〉がやっていたような水汲みの他にも、中庭にある畑の手入れや身の回りの清掃など。現に渡り廊下を行けば、俺を見かけた奴みんながみんな挨拶してくる。
見張りを兼ねている俺としては、その頭数を数えるだけで事足りて助かる。……いや、挨拶しないと体罰があるっていう、ウチのルールのせいもあるだろうけどな。
何もただ、買い手がつくまで檻に入れる訳がない。ひとりひとりに小さな仕事を与えて利益を出させる。ついでに彼らが一つでも得意とする職を持てれば買い手がつきやすくなるという、一石二鳥以上得られる妙案。やたらめったら彼らを傷付けるような事をしないのは、当たり前の事だ。
ただ――――――――。
渡り廊下の先にある別館の扉。そちらに目を上げた拍子に、それは目に留まった。
中庭の植木の片隅にて、打ち捨てられたように転がされている、その姿。あんなにも明るく寄って来るほかの奴隷たちですら、とばっちりを恐れて近づかないその姿に気が付かない訳がなかった。
青みがかった白髪は肩より長いまま散切りに、背を向けられているせいで解らないけれども、多分、気を失っているのだろう。
食事は必ず与えているはずなのに、他の奴隷と比べてほっそりとしている体躯は、誰か他の従業員にまた体罰を与えられているのか。それとも俺の知らないところで食事を抜かされているのか。
簡素なシャツにズボン姿から出ている、本来真っ白な肌には、所々に幾筋もの蚯蚓腫れが見えて痛々しい。
〈ヤナ〉。八十七番と呼ばれる彼は、いつもそうだ。
ほかの奴隷たちに対する見せしめのため、か。それにしては、度が過ぎていやしないだろうか。
やれやれと、溜息を一つついて足を止めた。
「ディーオ~、珍しく遅刻~?」
そちらに出向こうとしたそんな時、これから入ろうとしていた建物の扉が開けられていた。
明らかにわざとらしい声に差し止められて、そちらに視線を戻せば案の定の姿があった。糸目をさらに細めてにんまりと笑う、数少ない俺と同じ従業員の、グルアガッハのその姿が。
オールバックに流していた金髪が、首を傾げた拍子にはらりと一筋落ちてくる。
剽軽者を装った表情は、糸目の向こうからこちらを油断なく伺い、俺が隙を晒すのを待っているのが解る。その隙を与えれば、こいつのお得意の魔術でどんな目にあわされるか解ったもんじゃない。ひょろりとした長身に見下ろされるだけで、いつもながらイラッとするのは仕方がないだろう。
……ちっ、嫌な奴に見つかった。
「おはよう、カミュ。丁度良かった、あれどうしたんだ?」
そんな俺の内心なんぞおくびにも出さずに笑顔で尋ねてやれば、さすがのこいつも興醒めしてくれたらしい。つまらないものでも見るような眼を、捨てられたままの姿に向ける。
「ああ、あれの事? 相変わらず態度がなってなかったから、ほらちょっと、ね?」
「そう、ならいいんだ」
くすくすと楽しそうに笑っているのは、こちらを煽っているのか。別にいつもの事だろ? と、如何にも正統性を主張してくるからめんどくさい。
「なら、さっさと仕事を始めよう。朝飯が遅れてタイムスケジュールが狂うようなら、親父殿が怖いからな」
「おお、くわばらくわばら。そればっかりはゴメンだよー」
くっくっくと喉を鳴らして笑う様は、本当に恐ろしいと思っているのか。さっさと行こうかと促されて、結局、転がされたままの姿に一瞥くれてカミュに続いた。
俺らの朝は忙しい。奴隷達の為のこの別館は、三階建ての刑務所に似ていると思う。沢山の小部屋が並んでいて、そこに二人から三人程度の奴隷が入れられている。
トイレや食堂なんかはもちろん共同。生憎『水洗トイレ』なんてものはない。汲み取り式って言って、解るだろうか。まあ、そんなことどうでもいいわ。
食事は一日三回で、専ら俺が調理場に立つ。料理が出来る奴や出来るようになりたいやつなんかを積極的に手伝わせているから、それほど苦に感じたことはない。
……苦に感じるとすれば、体調不良を起こした奴の状態を、自己判断で捌いていかないといけないことくらいか。
毎朝食事前に行うこの『管理』。数少ない奴隷達との交流の時間でもあるけれど、同時に憂鬱に思わない訳がない。
たとえば体調崩して起きられない奴が出たとしよう。
ただの風邪くらいならば、スケジュールを無理矢理ズラして、栄養あるもん食べさせて寝かせておけば、大概なんとかなる。治る。
だけれども。俺ではどうにもならない病を拗らせた奴隷が出てしまった時が、何よりも辛い。何故なら、医者の出番なんてないからだ。
ニワトリの殺処分と同じ要領、『沢山いる内の一つ』がダメになってしまえば、周りにその病を拡散するより先に元凶を断て。それがウチの方針だ。今までに、何度手を尽くしても助けられずに殺された奴はいる。
それまでその部屋に居た筈の奴が――――時間の許す限り面倒見ていた奴が、気が付いた時には部屋から連れ出されていたなんて事はしょっちゅうだ。がらんとしてしまった小部屋で放心してきた回数は数えきれない。
俺には、使い捨てみたいに消されていくそれを、ただ指をくわえて見ているだけなんて出来そうにない。
だから――――。
「――――……ディオさん、大丈夫ですか?」
「……え? あっ!」
――――つい、ぼんやりしてしまっていたらしい。
〈レイト〉にぱたぱたと目の前で手を振られて、ハッとしない訳がなかった。とりあえず誤魔化そうとして笑ってみるが、じとりとした目を向けられた。
そうだ、今は出荷の為の急ぎの準備中。〈レイト〉の頭に念入りにかけていた、タオルドライを再開する。
「ディオさんまた、僕らの為に何か抱えてないですか?」
頼ってくれないことが恨みがましい。タオルの向こうからこちらを上目遣いに見てくるこのワンコに、核心を突かれて今度こそどきりとした。何と言うか、奴隷に心配されてしまう俺って、一体何なんだろうなぁ、なんて。
「いや、そんなことないさ」
「嘘ですー。気になることがあるって、お顔に書いてありますー」
「あっはは、勘繰りすぎだよ〈レイト〉。でも、その観察力はこれから君のご主人に向けないとダメ、だからな」
「解ってますよ。……ディオさんがそうなってくれるなら僕、ここにずっといても良かったのにな……」
「レイト…………」
ぽつり、呟かれた言葉は本心なのだろう。気持ちは嬉しく思うけれども、それに応えられない思いもあって、苦しい。胸を締め付けるような息苦しさを感じて、ふっと息を吐いて首を振った。
「それは出来ないって、何度も言っているだろ?」
「はい……。口答えしてしまい、申し訳……ありません、でした」
しょんぼりと肩もしっぽも落とす様子に罪悪感を拭えない俺は、つくづくこの仕事に向いてないのではないかと思わずにはいられない。突き放すことが出来ないからこうなって、こうなるから突き放しきれない。
悪循環としか言いようがないだろう。
「……さ、あとは髪をすいてやるから、背筋正しな。挨拶はちゃんと言えるな?」
「っ…………はい。……えっと、『初めましてご主人様! 本日より誠心誠意を働かせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします!』」
「…………よし、上出来」
しっかりと言えたな、なんて、整えたばかりの頭をくしゃりと撫でれば破顔された。その表情を見ていられなくて、行こうか、なんて促した俺は卑怯者でしかない。
ああ、願わくはこの子を引き取ろうとしている冒険者のおっさんが、優しい奴であることを願いたいものだ。
そうして今日も、手塩にかけて面倒見てきた奴隷がひとり、またひとりと売られていく。