ドアの内側
「ここで首を吊っていたのね」
とある住宅地にある一軒家の二階で、水野彩子はそう言った。
ところで、僕の名前は町田郁斗。地方紙の新聞社に勤める人間で、水野は僕の先輩。水野はとても美しく頭も切れる人だが少しだけ不真面目なところが玉に瑕。
いや玉に瑕というよりは瑕だらけの玉、むしろこれを玉と捉える人間は外見でしか物事を判断できない人種であろうと僕は考える。言いすぎだろか。まあ要するに僕は彼女の事が苦手だ。
彼女と僕は首吊り自殺があったというこの家に『取材』という名目でやって来ている。ここへやってきたのは彼女の思いつきで、僕は運転手として駆り出された。
断っておくけど会社はそんなに暇ではない。ただ会社にとっては不幸な事に、彼女にはこうと決めたら手段を選ばず遂行する不真面目な実行力があった。
ろくでもない思いつきに意義を待たせる小賢しさを発揮してしまったがためにそうなってしまったという悲劇。無駄という損失。ぼくにとってはとばっちりという名の苦行。
『平穏な生活拠点であるはずの閑静な住宅地の中にあって、人が悩み追い詰められて簡単に死んでしまう事例は社会的にも見過ごす事ができない』
今朝のオフィスでのことだ。彼女はタイトな黒いジャケットから胸元のやけに開いた白いシャツを覗かせ、膝上十五センチのスカート姿で支社長にこう言った。上司に掛け合うときの彼女の正装だ。
支社長は彼女の持論ではなく、容姿に対して『NO!』と言えなかった。
そんなこんなを経て、そのついでに僕が徴用されて、彼女のいい加減なナビゲートでやっと辿り着いたその家はなかなかの造りだった。洋風のデザインは広さを感じる。
迎えてくれたのはゴルフ焼けした健康的な中年男性。ここの家主で自殺した男の父親で、残りの家族は自殺した息子を発見した母親。息子が死ぬまでは三人暮らしという構成だった。
葬儀の手配やら保険の手続きやらで泣く暇も無いほど忙しそうな家主である父親は、小一時間ほどの時間を指定して、立ち会うことも無く部屋への入室を許可してくれた。
母親は不在で、そのことについて旦那は素っ気無い返事ばかりである。夫婦仲はあまり芳しくないのではないかと邪推。
案内された現場――息子の部屋――はすでに片付けられており、悲惨な死の舞台となった特別な場所というような痛ましい痕跡はどこにも見当たらなかった。
部屋には立派な本棚とシンプルながら機能的な木製の机と若者らしい色合いのオフィスチェアがある。
それらのあいなかにクローゼットがあった。
そこに付いている洋服掛けのための頑丈なパイプに太い電源コードを引っ掛けて首を吊り、窒息死したらしい。
「ふうん。写真ね」
彼女は本棚に置かれたフォトフレームを手に取った。「この人物はここで死んだ息子さん。それとそのお母さんのツーショットね」
そこにはこの部屋で自殺をした若い男性と、その第一発見者である少し派手なメイクの女性が写っていた。
仕事がらみで面識のある警察の知り合いによれば、事情を聞いているときの母親の取り乱しようはそれはもう大変なもので、赤の他人の彼でさえ深く感じ入ってしまうような悲しみかたであったという。
「あら、ここにも写真。あ、ここにも」
全く同じものではないが、部屋の中には別に二枚の写真が飾ってあった。どれも母親とのツーショット。
「……それと、これはどういうことかしらね。ねえ町田君」
息子の使っていた机の上にもまた一つフォトフレームがあった。しかしその中には写真が入っていない。
水野彩子は部屋の入り口のドアの前に移動して壊れた閂錠を眺め、ゆっくりとドアを押し開けた。先ほど通ってきた廊下の白い壁紙が見える。そしてまたぱたんとドアを閉めると何かを考えるように黙り込んでしまった。
何となくしんみりとした哀愁を感じ、僕は静かに声を掛けた。「きっとですね、これはまた新しい写真を入れようと買った……」
「うるさいわね! ちょっとは黙れないの!?」
この部屋に入ってはじめて口を開いたのに、これはあまりにもひどい……。
しかたがないので黙っていると、状況を整理するためか彼女は独り言のように話し始めた。
「えーっと、第一発見者の母によると、朝になっても起きて来ないのを不審に思ってドアをこじ開けてみたら息子が死んでいた。窓には鍵が掛かっているし、このドアも小型ながら閂錠が掛かっていると……。窓の鍵も閂錠も内側からしか掛けられないので、これは言ってみれば密室よね」
「……あのお、今は話し掛けても大丈夫ですか?」
「どうぞ町田君」
「密室とか何とか仰っているようですが、自殺ですから充分あり得る話ではないでしょうか」
彼女は少し大げさに首を仰け反らせて僕を眺めると「ふっ」と鼻で笑いながらそっぽを向いた。ものすごく馬鹿にされた気分。
「閂錠は壊れているわね。ドアを無理矢理こじ開けたからそうなった……。ところで町田」
呼び捨てだ。何故だか分らないが、僕はわずか数秒の間に何かのランクを下げられてしまったらしい。もう出来るだけしゃべるのはやめようと思い振り向くだけにする。
「町田、いい笑顔だね。何か悲しい事でもあったの? まあそんなことはどうでもいいんだけど、これは殺人事件よ」
は? 殺人? だってこれはどう見たって自殺だし。まあそれを百歩譲って殺人だと仮定しよう。それでも状況は密室殺人だし不可能犯罪なんじゃないかと思う。
「で、でもですよ。自殺じゃないとしたら息子だって死を望んでいなかったわけでしょ? そうなっちゃうと密室の中で首を吊らせるっていうのは有り得ないんじゃないですか」
「催眠術よ」
僕は言葉を失った。
「嘘よ」
何だよもう。
「この部屋にいた男が自殺を装って殺されて、ドアが壊され、発見された。それだけのことね」
そんなことは僕でも分る。死の原因が自殺ではなくて、他殺であったとしてもだ。でも、問題はそこではない。
「だって鍵が掛かっていたんでしょう?」
「そんなもの、ポケットから出したどこでもど……」「それ言っちゃだめです、っていうかそんな道具ありませんから」
彼女は面白そうに僕を眺めた。何を楽しんでいるんだこの女は。
彼女は部屋の入り口のドアに向かった。「帰りましょう、お腹すいちゃった」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! これが殺人事件ならスクープじゃないですか!」
「だから帰るんじゃないの。さ、商売商売」
「あ、そういうことですか。水野さんが記事を書くんですね! どんな記事になるんですか? ちょっとぐらい教えてくださいよ」
「は? 記事はあんたの仕事でしょ? あんたが書くのよ。わたしはそれを見て駄目出しするのがお仕事なんだから、そろそろまともな記事書いてほしいわ」
「え、だって……。これはどう見たって自殺ですよね? これを他殺だなんて僕には書けませんよ」
彼女は腰に手を当てて仁王立ちになるとあきれたように天井を仰いだ。そして僕を見る。
「おまえにはその中程度の学歴以外に取り得はないのか」
「ひどい、パワハラだ! あなたがちょっといい大学出たぐらいでそれはないでしょう? 僕は学閥という奇妙な慣習に断固異議を唱える!」
彼女の暴言に乗った形でわけのわからない論争になってしまったが、それはそれ。兎にも角にも彼女の考えを引き出さないと僕にはもう何が何やら……。
「冗談よ、学歴なんてくだらないものはどうでもいい。分ったわよ教えてあげる、わたしが言うとおりに記事にしなさい。一回しか言わないからよく聞くのよ……」
彼女が言うには、母親が息子の首を絞めて殺した。首を絞めた電源コードを使ってそのまま首吊り自殺に偽装して第一発見者を装った……。何だよそれ、意味が分らない。
「何で母親が自分の息子を殺すんですか?」
「愛ね。愛ゆえに、だわ」
「何かバイオレンス漫画で読んだフレーズに似てます、まあそれは置いといて。愛してるなら、それも親子の愛情があるなら殺さないと思いますが」
「愛もさまざまなかたちがあるのよ。きっとほかの誰かに渡したくなかったのでしょう、はい論破」
「論破って、全く納得してませんよ。まあ仮にそうであったとしても、ここは密室だったからいくら親子でも物理的に接触出来ない」
「密室じゃないから簡単に近付くことが出来たのよ。ましてや家族ならとても簡単ね。で、彼が眠っているか眠らせているときに殺したのよ」
「密室じゃないって? だって鍵が……」
彼女はにこにこ笑いながらドアノブに手を掛けると体当たり気味に押し開いた。そして一歩廊下へ出て部屋を覗き込むように僕を見るとわざとらしい口調で声を上げた。
「きゃああ。死んでるう。わたしの息子が死んでるう」
……殺した後に鍵を壊したわけか。たしかにこじ開けた際に壊れたと聞いても何の違和感もなかったし、それに廊下側から『引く』よりも内側から『押す』ほうが簡単に壊れる。
「ドアの内側に薄いベージュの染みがあったわ。恐らくファンデーションだと思うけど、ほっぺたを押し当てながら力いっぱい押したんじゃないかしら」
彼女はそう付け加えた。
「じゃあわたしは捜査一課のおっさん刑事に用があるので警察署まで速やかに送り届けてください。それと書いた記事はわたしの指示があるまで公開しないように。他言も無用でお願いね」
その時彼女の携帯電話が鳴った。
「はあい水野です。どうもご苦労様でーす! はい、はい……」
彼女は電話で何かの連絡を受けた様子だったが、電話を切った途端あからさまに落胆した表情を見せながら部屋の机のほうへ近付くとそこの椅子へどっかと腰を下ろした。
ぶすっとした表情で不遜に足を組むと、ポケットから爪やすりを取り出してしゃっしゃっと爪を研ぎ始める。
「あのお、何の電話だったんですか?」
こんな状態の彼女に話し掛けるのは非常に危険だが、それよりも何よりも殺人事件のほうが気になって……いや違う。
もとい、人様の家で、それも彼らにとってはとても悲惨な出来事があったこの場所で爪を研ぐのはいかがなものかと考えた末での英断である。
僕の問いかけに対して彼女は舌打ちをしながらこちらを睨んだ。僕は作り笑いを凍りつかせながらレーザービームのようなその視線に耐える。
そして悪意の塊のようなその眼差しから一転、どういうわけか悲しそうな表情でうなだれた。
「はあ、あの刑事のおっさんから小遣い巻き上げようと思ってたのに。ついてないわあ」
このカメレオンのような表情七変化に僕は全くついていけず、ただ眺めるしかなかった。
気が抜けたように天井を見上げ、そしてまた深いため息をつく。僕はその様子を窺いながら、彼女が何か言うのを辛抱強く待った。
「自首したらしいわ、彼のお母さん」彼女は憮然とした表情で爪を研いでいた人差し指を伸ばして本棚の写真を指差す。
え、自首? 本当に母親が殺したの? 僕は驚いて彼女と本棚を交互に眺めた。
「それとこの机にはね、息子さんの彼女かな。お母さんではない別の女性の写真が入っていたはずよ」机の上にある空のフォトフレームを爪やすりで指す。
「お母さんは息子の事を溺愛していた、それも異常なまでに。この親子写真はきっと全部お母さんが持ってきて飾ったんじゃないかしら」
ふむ。それで彼女の出来た息子に対して母は嫉妬のあまり……。でもそんなこと、いや。水野彩子のような変人もいるのだからそこは分らないしあるのかも知れないな……。
「はあー、もうやる気ない。ヤルゼロだわ……せめてあんたは私に謝礼を渡しなさいよ。まあ給料も安いんで、ちょっと贅沢なご飯でもご馳走してもらおうかしら」
女性と、それも一際美しい独身女性との食事は心踊り高揚した気分になるはずなのだが、何だろう? 単に損失と危機しか感じないこの気持ちは。
外側からは誰がどう見たって楽しそうで賑やかに映る華やかな光景も、内側を見れば意外と地味で味気ない。たぶんそんな感じ。
僕らは玄関を出て家を離れた。平穏で心休まる閑静な住宅地にも様々な人たちが住んでいて、その中にはとんでもない状況に悩み苦しんで闘っている人たちもいるのだろう。
駐車場へ向かって歩く僕らの目の前を自転車に乗った若者が通り過ぎる。すれ違いざまに水野彩子を眺め慌てて二度見してバランスを崩す。騙されているうちが幸せなのかな。
真相を知ればそれは実につまらなくて不細工なものだったなんていうものが実はたくさんあって、それはそれで面白いかなとも思ったりもするし、まあ僕は僕で頑張らねばと思うわけで。