狼さんはレアが好き
吹き荒ぶ冷たい風は、容赦なく身体の熱を奪っていく。積もりゆく雪は視界を塞ぎ、やがて目の前にあるそれをも白い闇の中に埋めてしまうだろう。
今、目の前に有るのは糧である。
厳しい冬を乗り越える為に、俺はそれを食べなければならない。まだかすかに熱を残しているその肉は、十分な栄養と魔力を含んでいる。間違いなく俺の腹を満たし、滴る血は渇いた喉を潤してくれるに違いない。しかし――。
俺はその糧を前に、一歩も動けずにいた。このまま他の誰かの物になってしまうのは許容できない。保存食として凍らせ埋めてしまうか? だがそれも、掘り起こした時に再び躊躇してしまうのは目に見えている。何者かが掘り起こしてしまうかも知れない危険もあるし、暖かくなれば腐敗してしまうだろう。
ここに留まり、それを守り続けていくのもやぶさかではない。しかし、この肉の持ち主は俺がこの場に留まる事を良しとしないだろう。
『あなたが私を食べてね。他の誰でもないあなたが。明日を……生きる為に』
この肉の持ち主は最後にそう言い残してはてた。
その声は、その表情は、今も俺の心に燻り続けている。彼女の言葉は至極当然の事だ。俺たち狼は今迄そうやって生き抜いてきたのだから。それでも。
まだ俺は動けずにいた。俺が唯一心を許した、愛するものの死骸を前に。
*
僕らが生を受けたのは、薄暗い洞穴の中だった。その事に不満があるわけではない、雨露が凌げる場所だっただけましだろう。外敵から襲われにくいこの洞穴は、むしろ良い環境だったのだと思う。僕らグレイウルフとしては。
天井付近に開いた小さな隙間からは陽の光が差してくる。隙間風もあったけど、兄弟たちと寄り添えば寒さは感じなかった。
そう、僕には兄弟たちが居たんだ。
一番上の兄は頭が良く、規律に厳しい性格だった。ほとんど同時に生まれたはずの僕らに順番をつけたのも彼だ。その事に文句は無い。順番を付けるのはグレイウルフの本能だってお母さんも言っていたし、兄は仕切るのが好きそうだったから任せっきりになっている。自慢の長い耳をピンと立ててドヤ顔するのは少しムカつくけどね。
二番目の兄は体が大きく、力持ち。一番大喰らいでもあるけどね。力だけなら一番上の兄より強いけど、考える事はあまり得意ではないらしく、彼得意の突進を避けるのは難しくなかったし、何より言葉で攻撃されることに弱かった。
僕は三番目で身体は小さい方だけど、機敏さなら他の兄弟にも負けないつもりだ。せっかちなせいで一人突っ走って後で慌てる事もあるけど、その辺も一番上の兄がよく見ていてくれてフォローしてくれたりする。長い尻尾に噛み付いて止めるのはヤメて欲しいけどね。
そして、僕の下には妹が居る。身体は一番小さくおとなしい彼女は、交わす言葉も多くない。普段はお母さんにべったりだ。兄弟の中では一番下だけど、彼女の地位は低いわけではない。唯一の女の子だし、その表情は何者よりも愛くるしい。そして、何より彼女を特別たらしめているのは、その毛色だった。
彼女の毛はグレイウルフとは思えないほど黒いのだ。漆黒と言っても良いかも知れない。色が濃いのは魔力が強い証だってお母さんは教えてくれた。それでもこんなに黒い仔は始めてみたとも。
そんな見た目も相まって、彼女は兄弟の中でもマスコット的な扱いを受けている。
つまりそれは、この群れで僕が一番下になっているという事だ。上の二人には使いっ走リにされている。走り回るのは嫌いじゃないけど、自分で出来る範囲はやって欲しいとも思う。序列を付けたがる一番上の兄も難しい顔をする事があった。
そして、ある日そんな彼女の立場を危うくする出来事が起こってしまうのである。
それは、歯が生えそろってきた僕らの為に、お母さんが獲物を狩ってきた時のことだった。
それまでお母さんの乳で過ごしてきた僕らはそれを見て目を輝かせた。喧嘩しないようにと、お母さんが人数分に噛み千切って分けてくれたご馳走に、僕らは我先にと口をつける。新鮮な仔鹿の肉は臭みも無く、噛むほどに旨味が口に広がるのだ。僕も上の二人も行儀なんて気にする事も無く夢中で喰らい付いていた。
そんな中、妹はただジッとその光景を眺めていたのだ。
「食べないの?」
二番目の兄がいち早く食べ終わったせいで、自分の分を盗られないよう気にしながら妹に目を向けると、彼女は申し訳無さそうに首を振り、お母さんの所へ行って母乳をせがんだ。
「じゃあオレが貰うね」
「あ、ずるい」
妹の態度に気をとられていた僕や一番上の兄の隙をついて、二番目の兄は彼女のために小さく千切られていた肉片をあっという間にその大きな腹に収めてしまうのだった。
そんな事が数回続くと彼女への心配は僕だけのものじゃなくなっていた。僕と二番目は必死になってこの肉おいしいアピールをしてみるが、その度に妹が『それで?』って感じで冷たい目線を飛ばしてくるので、ちょっと楽……じゃなく哀しくなってきている。一番目はこの肉がいかに美味しいか、僕らの身体の成長に必要か長々と語っているが、妹の『だから?』っていう顔を見るに、あきらかに逆効果だろう。
気がつくと僕らは妹の身体よりひとまわりもふたまわりも大きくなってしまっていた。
ここでようやくお母さんも思い腰を上げた。僕らを狩りに連れて行くと言い出したのだ。
頃合いでもあったのだろう、それは今後僕らが生きていく為に必要でもあるし、妹にいろいろ教える機会にもなるだろう。命の儚さとか尊さとか、そんな感じのことをさ。
そして、僕らは思い知る。……もちろん命の儚さと尊さを、さ。
*
それはあまりにも唐突だった。
「あなたたちを狩りに連れて行きます」と宣言した母は、自信満々に見えた。母がいつも使っている狩場で、標的は小さな角の生えたウサギで。一匹二匹はすぐに狩り終えていた。兄弟の分をそろえるなら後、二・三匹は必要だろう。
順調な母の狩りを私は困り顔で眺めていた。そもそもコレは私が生肉を食べようとしなかったことが原因なんだろう。体が成長してきたとはいえ、兄たちを狩りに連れ出すにはやや尚早だったように感じる。だとすると、森を闊歩する他の魔物たちを十分に警戒しつつ、確実に狩れる獲物を探し、その狩りの間にも私たちを守らなくてはならず、その負担は計り知れない。はるかに格下のはずの角ウサギ相手に母は必死だった。
だいたい、何故私が生肉を食べる事を嫌がっているのかというと、ひとえに『記憶』のせいだと言わざるをえない。私は人間だった時の記憶を持っているのだ。
狼として生まれた事に遺恨は無い。母や兄たちとモフモフするのは至高の時間だったといえる。黒髪を引き継いだのも地味に嬉しかった。しかしその食事にはやはり、抵抗を覚えてしまうのだ。狼としての本能は生の肉でも美味しくいただけてしまう事を教えてくれている。だけど私は肉をよく焼いて食べる派の人間だったのだ。お高い肉でさえ、だ。生の肉とか、考えられん。
そんな自分の我侭で、遠足気分の兄たちはともかく母に負担を強いている現状をどうにかしたいと考え、私は母から目を離した。他の兄弟たちも既に飽きはじめていたらしく、遠くない程度で辺りをウロチョロし始めている。
さすがにコレは危険な状態だろう。母の負担を軽くする為にも兄たちに声をかけようと口を開いた時だった。
一番離れた位置に居た三番目の兄の前に、角ウサギが居た。いつもの兄ならばその俊敏さで逃げる事も出来ただろう。しかし、突然の出会いに驚いて尻餅をついている彼にそれを期待するのは酷だろう。私は声を上げる事も出来ず、その後に訪れるだろう悲惨な現実から逃げる為に目を瞑った。そして――――。
私の横を灰色の影が駆け抜ける。
目を開けたとき見えたのは母の雄志だった。鋭い牙は獲物の急所をとらえ、その力を誇示するが如く高々と持ち上げている。この光景には流石に私の枯れかけていた心も震えた。誇らしいと思った。この森で母ほど強い狼は居ないだろうと。
傾き始めた陽に母の灰色の毛はキラキラと煌めいて、逆光でよくは見えないが表情は達成感に満ちている事だろう。足元に広がる紅がコントラストとなって……紅?
見間違いではなかった。母の銀色にも見える体毛が半分以上赤に侵されている。角ウサギが兄へと放った一撃は、目標には届いていない。遮ったものがあったからだ。
母は満足げに微笑んで、自分の血溜まりへと身体を沈めていった。
悲鳴にも似た鳴き声を上げて私たちは母へと駆け寄った。その身体には深い穴が開いていて、素人目にも致命傷だとわかる。兄弟たちが声をかけるが、母の目は閉じられたままだ。三番目の兄は白を通り越して青く見えるほどだった。
彼を責める事は出来ない。他の兄弟でも同じ事は起こり得たのだ。責められるならむしろ私だろう。この狩りが強行軍になったのは、私の我侭からだ。私が生肉を本能のままに貪っていれば、兄弟たちはもっと成長してから狩りを習うことが出来たはずだ。三番目の兄はその機敏さで避ける事が出来ただろうし、一番目が指示して二番目を迎撃に向かわせる事も出来たかもしれない。母のサポートだってこの兄弟たちなら可能だったはずだ。私の、私のせいなのだ。
「子供たち……わたしの子供たちは居るの?」
母が擦り切れそうな声を出した。
「しゃべっちゃダメだ母さん! 今、薬草で」
「……聞きなさい、子供たち」
一番上の兄の声は届いていないのかもしれない。薬草程度でどうにかなる傷ではない事は、兄もわかっているだろう。少しでも身体への負担を和らげようと気遣う兄の言葉はしかし、聞き届けられなかった。
最後の力を振り絞って、母は私たちに言葉を残した。
「あなたたちがわたしを食べなさい。他の誰でもないあなたたちが。明日を……生きる為に」
その言葉に兄弟たちは呆然となった。もちろん私もだ。嫌だ、と声を上げたかった。しかし、ならば母の肉は誰が食べるのだ? 埋葬しても臭いをたどって何者かが掘り起こすだろう。そうして肉を食み骨を砕き、力を得るのは誰だ。嫌だ、と声を上げたかった。巣穴へ持ち帰って埋めるのか? 母は大地の養分になるのか。嫌だ、と声を上げたかった。傍に居て、もっと教えて欲しい事がいっぱいあったのだ。狩りの仕方を。狼としての生き方を。誰のせいだと問いただして欲しかった。お前のせいだと糾弾して欲しかった。しかし兄たちは誰も動こうとはしない。母の最後の教えを、生きる為に食べるという行為を、自ら進んですることも出来ずに。このまま野ざらしになるのを見ているつもりなのだろうか。嫌だ、と声を上げたかった。だから――――
私は母の肉に口をつけた。
*
その後、兄弟たちは無事に成長を遂げ。それぞれの新しい家族を作るために散らばっていった。
狼としての生をまっとうするなら、私もいつかどこかの狼と愛し合うのだろう。
そして最期にはその肉を、愛する者へと差し出すのだ。
その時私は愛する者にあの時の自分と同じ葛藤を強いるのだろう。
苦悩を乗り越え、強く生きる事を願いながら。
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