第3話 どうでもいいこと
あれはまだ暑い日だった。
海水浴客も去り、やっと落ち着いたかのような海辺の町は、9月になっても暑い日が続いていた。
小学校に入っても相変わらず気ままに過ごしていた康子は、斉藤付きの若いチンピラに店まで迎えに来られて、もう夜も更けるというのに、連れ出された。
母は、チンピラが斉藤から持たされてくる高級酒と、一応客としてビールを一杯だけ飲み、これまた斉藤から出てるだろう多額に払ってくれるピン札に目を輝かせて、康子を喜んで引き渡す。
母は私がこうして連れ出される度に、斉藤と何をしているかなど、本当に気にもしてはいないのだろう。
夜ごと、子供の私の、小さな部屋の、その足元で繰り返される、店で働く女や、時々やってくる町の女の売春などを少しも気にしないのと一緒だ。
町の連中は、康子や母が町を歩いていると、その侮蔑や嫌悪を隠しもしない癖に、ひどい時には、視線でねめつけるだけでなく、「出ていけ」だのとあしざまに、ののしったり、連れている子供に石を投げさせたりもする。
ところが、いざ深い夜のとばりに包まれる時間になると、その同じ町の男や女が、ひっそりとこの2階の部屋で濃密な熟れた果物のはなつような臭いをまきちらし、よどんだ時間を過ごしていく。
斉藤にいつだか「不思議だ。」と話したら、やはりいつものように、きゅっと目だけで笑って答えた。
「俺達も、まあ、お前のとこもだが、奴らにしたら、見たくない時は見えねえ都合の良い異世界みてぇなもんだ。」
「そこじゃ初めから全てないものなのさ。目の前にいるお前でさえな。俺たちゃあ、あいつらにとって、都合の良い化けもん、そういうこった。人間じゃない。な、ほとほとあきれるぜ。」
「化けもんバンザイだ。」
そう言って私の髪を撫でながら、くにゃりと笑った。
その場所で痛めつけられる人間は、たいていが、水商売の女に貢いで、その女と金貸しがグルだとも知らず、身ぐるみはがされたあげく、それでも懲りずに厄介ごとをおこしそうな男だとか、少し知恵があり、まだ前向きな人間が、それ以上借金を払えないと警察にかけこんで何とかしてもらおうと考える奴だとか、他の暴力団に頼ろうとする人間などが、斉藤が言う「話し合い」と呼ばれる凄絶なリンチに引きずりだされていた。
その、人間一人を潰すのを、いつも斉藤は私に経緯を説明しながら、子供の私が普通に、ここにいるのが当たり前のように、話しかけてくる。
たいていのそういう堕ちた男はどうみても子供の私が斉藤のそばにいるのに初め驚き、やがて凄絶なリンチがはじまり耐えられなくなると、なぜか私へと助けを求めるようにすがってくる。
血だらけではいずりながら手を伸ばされても、私に届く前に斉藤がひょい、っと私を抱き抱えてしまうので、まずその必死の血の跡はいつも無駄になる。
たまに女の人もいたが、男も女も関係なく斉藤は二度と馬鹿な考えをおこさないように、きっちり「話しあい」を行った。
私は何度も、斉藤いわく、そんな堕ちる人間を見せられていた。
それが終わると斉藤は、そのまま私と、うちの店にきて飲むときもあるし、ただ私の後について、私がフラフラするのを、何が楽しいのか一緒に何を話すでもないのに、くっついてくる事も多かった。
その夜も、いつものように、チンピラが買ってくれた甘いイチゴオレを飲みながら、倉庫についていくと、珍しい事に斉藤がひどく機嫌が良いのがわかった。
思わず、ふだんしゃべらない私が、迎えの若い男に「斉藤さん、機嫌いいね。」と言ったら、若い男はそれがわからなかったらしい。
不思議そうな顔をしていた。
あんなにわかりやすいくらい機嫌よさそうなのに、やはり私以外にはわからないらしい。
それも斉藤に言わせれば、人と、俺たちのようなありようなものとの違いだ、という。
そこにいつものように入っていくと、もう既にボコボコにされはじめていた人間の後ろ姿だけをみれば男の人のようだった。
いつものように斉藤の隣りまでいくと、そのリンチされている男となぜか目があった。
その顔を腫れあがらせて、床に這いつくばっていたのは、私の知った顔だった。
それは、私の父親だった。
思わず、イチゴオレを飲むのをやめた私に、斉藤は「甘そうだなぁ。」と眉をしかめて、普通に声をかけてきた。
さすがに私が驚いているのを見ても、いつものように何でもない事のように説明をしてくれた。
要は賭場の借金が払えないくらい溜まって、家を取られ嫁と中学生の娘も借金のかたに売られたらしい。
それでも利息には足りないので「話し合い」をしている、そう言った。
たまに賭場にいる時以外顔を見る事もなく、ただ、この人が父親か、くらいの認識しかなかった私だが、私の顔を見たとたん、父の顔色が変わり、私に見せないでくれ、と言って泣きだした。
うちの店では、酒に酔って暴れたり、泣いたり、ましてや賭場が開かれていれば、血を見る事もあるし、ましてや、こうして斉藤に呼ばれては、こういう「話し会い」も数多く見てきた。
別段変わったことではないのに、それなのに、なぜそんな事をしたのかわからない。
今でも、それはわからない。
私は父の元に近づくと、「見せるな、見せるな!」と、泣きわめく父に、自分の飲んでたイチゴオレをひょいと差し出した。
かがむ私に、父は目を合わせ、生まれて初めてこんなに近い距離で、2人初めて顔を合わせた。
そのまま父の手が私に伸びてきた時、突然、周りの雰囲気が一気に凍った。
なぜか感じる重い、冷たい、ぞっとするようなその雰囲気に、私が不思議に思い顔をあげると、父に暴力をふるっていた男達が顔色をなくして後ずさっていた。
それを不思議に思い、もう一度そちらをみようとしたら、私の胴に太い手が回り、あっというまに私は抱きかかえられていた。
なんだと振り返ってみれば、斉藤で、私をもう一度抱え直すと、私を向い合せに抱き上げ、私の髪を撫でながら、何かを小さな声で言っていた。
「ダメだ、だめだろ、おい。・・・・・。」
それだけは聞こえたが、その後の言葉は聞き取れなかった。
その私を撫でる手つきは優しいのに、斉藤の顔は一切の生き物としてあるべきものをそげおとしたかのような顔だった。
けれど、それもつかのま、私が不思議に思い、その顔に手を伸ばし、その顔に手を触れると、一転、斉藤は激しいまなざしで私を見た。
その目の奥は燃え上がる炎のようで、剣呑なくせに、それでいて熱いような、冷たいような、優しいような、そんな眼差しだった。
私はそれが気に入って、思わず、父に対しての関心をすっかりなくしてしまった。
結局その後、私を片手に抱きかかえたまま、斉藤自ら「話し会い」に加わり、私は暴力で人が死ぬのを目の前で初めて見た。
こうして、父は私の目の前で死んだ。
斉藤は飛び散った父の血がつく、その手の平で私の頬を撫でながら、普通に、
「イチゴオレはうまいか?」と聞いてきた。
その時斉藤が、私のイチゴオレを欲しがってるのが口にださずともわかったので、私はそれを「んっ」と斉藤の口元に差し出した。
斉藤は眉をしかめ、「甘ぇのは苦手なんだ。」と言いながら、それでも私のイチゴオレを綺麗に飲み干した。
今でもイチゴオレを飲むときには、あの時の父の声が聞こえてくる。