第1話 思い出
数話で終わる予定です。
リハビリ的に書いていきたいな。
私は自分で言うのも何だが、「めんどくさがりや」である。
すでに、ものごころがつく頃には、それを自覚していた。
この海に囲まれた田舎の港町に生まれ育って、最初に覚えたのは「あきらめ」だった。
母親はもっと北の方からの流れ者の女で、このいなかの町では、その時点でアウトだった。
何せこの町では、20年住み着いた家の人間でも、未だに「よそ者」でしかないような土地だった。
いかんせん、流れ者の女で、しかも荒くれ漁師目当てに、小さな飲み屋をはじめた女に、海の荒くれ男より、よりたくましく生きる女達にとって、どういう風当たりか、おってはかるべし、だ。
まして、隣町の妻子がある男の子供を産んだ時点でツーアウト。
そして、酒におぼれてアル中一歩手前である事を思えば、スリーアウト決定。
よく、この私、椎名康子が無事育ったと不思議でならない。
ほら、赤ん坊っていろいろ手間がかかるでしょ?
うん、奇跡だ。
そんな私は、いわゆる「普通」というカテゴリーから外れた自由な子供時代を過ごした。
3度の食事など、あの母が用意するわけもなく、食べられる時に食べる!寝れる時に寝る!家にいられる時にいる!そんな風に、今考えても、何にも、人にも、物にも、時間にも縛られずに生きていた。
母の店にくる客もまた、どこか人生からずれてしまった人ばかりだし、母の店にホステスなんて高尚な女なんかいなくて、母と同じように、ふらっと流れてきた女が、猫のようにいつのまにか家にいつき、夜のまにまに、漂って、また、ふらっといなくなる、そんな具合だった。
私が産まれてから、隣町の洋服屋の若旦那の父親が、手切れ金がわりに、母に建てた家は小さいものだったが、1階は飲み屋で、2階は何でもありの部屋があるのが我が家だった。
2階は、店に流れてきた女が、男をとって安いお金で抱かせていたり、漁のない期間は、急きょ、地元の暴力団のしきる賭場に早変わりしたりと、そんな風に使われていた部屋だった。
子供の私は、結構煩雑に開かれる「賭場」の時は、なるべく意識して家にいるようにしていた。
何せ、いなせなヤクザの男、確か斉藤といったが、その賭場をしきる男は、賭場客に出す食事の出前をとる時、私の分もついでに注文してくれるからだ。
「ハンバーグ」「カレーライス」・・・全てその時覚えた味だ。
ついでに、その賭場が開かれている時、よく私は、その部屋の片隅で、捨ててあった漫画などを読みながら、字は読めずにいたが、書かれている絵をみながら過ごしていた。
「花札」「ちんちろりん」・・・・いろいろそこで過ごす内、私はそれらもまたすんなり覚えてしまった。
「いかさま」すらも。
斉藤は私が「いかさま」にきづくと、そのいつもきつく強いと言われている目を、きゅっと細めて私を見て笑った。
それは、はた目には何のかわりもないようだけど、私には笑っているのがわかった。
そしてまた、斉藤は、まだ幼い私を対等なものと扱う一人だった。
店にくる常連たちにもそんな人間がちらほらいた。
斉藤いわく「生きる事を知っている奴に、大人も子供もねぇ。」だそうだ。
ちっともわからん。
私の戸籍上、7歳になる頃、何故戸籍上というのか説明すると、何と私の戸籍は数年遅れて提出されていて、なおかつ誕生日などもいい加減だった。
遠い昔、笑っちゃう話しだけど、どこかで誕生日のケーキの話しを聞いてきた私が、自分の誕生日を母に聞いたら、
「あんたの戸籍めんどうでほっといたら、役所にみつかって、こっぴどく怒られたんだよ。覚えちゃいないし、大体の大きさで、生まれ年と誕生日を、シゲさん達が考えてくれてさ、聞くならシゲさんにでも聞きな。」
と、しれっとのたまった。
「さすがに、あんたの背を見ると、ちょいと1年くらいおそかったのかもしれないいねぇ。」
ひょろっと背が高い私をみながら母は笑った。
それで、私の誕生日、いやケーキの話しは2度となく、幻のケーキとして終わってしまった。
私の誕生日12月24日、どうやら、酔っ払いどもが、世界共通でめでたいだろう、というノリで決めたらしい。
斉藤に一度その話をしたら、やはり目がくにゃっとして笑っていた。
そうして、その年の12月24日、私は斉藤が持ってきたケーキ、それも生まれて初めて食べるケーキがワンホールという贅沢を味わったのだった。
なんで今そんな事を思いだしているかというと、海よりに建てられた倉庫の片隅で、斉藤の遺体が発見されたらしいと、私の通う中学校のクラスで話題になっているからだ。
私はもうすぐ中学3年になる。