人形令嬢と蔑まれた私は、婚約者(王太子)と義母の仕事を陰で全廃していた〜「悪役令嬢」と追放されたので、全業務をストップして国ごと潰します〜
プロローグ:解かれた糸と、人形の芽生え
王立学院の大広間は、絢爛豪華な光と、優雅な音楽、そして芳醇なワインの香りに満ちていた。
卒業パーティの佳境。華やかなドレスを身に纏った夜会の花々や、凛々しい礼服に身を包んだ若き貴族たちが、杯を交わし、将来の希望を語り合っている。
その中心から少し離れた壁際で、私は背筋をピンと伸ばし、一ミリの狂いもなく美しく佇んでいた。
アリエッタ・フォン・ドミトリアス。
ドミトリアス公爵家が長女であり、このエルシュタイン王国の第一王子——セドリック・フォン・エルシュタイン殿下の婚約者。
「見ろよ、またあの『人形令嬢』だ」
「相変わらず顔色ひとつ変えないな。まるで精密に作られた精巧な蝋人形だ」
「美しい顔立ちだが、あんな氷のような女が未来の王妃だなんて、セドリック殿下もお可哀想に……」
ヒソヒソと交わされる貴族たちの不躾な噂話。
私はそれにピクリとも眉を動かさず、ただ前を見つめていた。
感情を表に出さず、笑わず、怒らず、泣かず。言われた通りの所作を、完璧な精度で淡々とこなす姿から、いつしか私は社交界で『人形令嬢』と呼ばれるようになっていた。
だが、彼らは何も知らないのだ。
私がなぜ、人形のように冷徹で無表情でいなければならなかったのかを。
(……昨夜の仮眠時間は、二十分。今週の平均睡眠時間は、一時間四十分。脳の認知機能を維持し、感情の発露による余計なエネルギー消費を極限まで削減するためには、表情筋を完全に固定するのが最も効率的なのです)
私の頭の中では、膨大な数値と情報が休むことなく駆け巡っていた。
私の「人形」のような振る舞いは、生まれつきの性格ではない。
婚約者であるセドリック王太子と、その母親であるマグダレーナ王妃殿下——この愚かな母子によって強制された、極限状態の「生存戦略」だったのだ。
「アリエッタ、王太子妃になる身として、この程度の政務は当然こなせねば困りますよ」
王妃マグダレーナは、毎朝山のような書類を私の執務室に持ち込んできた。
王家の予算管理、地方領主からの陳情書の精査、内務省の監査報告書、さらには王妃自身が主催する豪奢な茶会や夜会の準備、外交プロトコルの策定……。
そして、婚約者であるセドリック殿下もまた、へらへらとした笑みを浮かべて書類の束を投げつけてきた。
「アリエッタぁ、明日までにこの『法案改定案』の要約と、軍事費削減に関する試算表を作っておいてくれよ。俺、これから友人たちと狩りに行かなきゃいけないんだ。よろしくな!」
王太子の職務である執政の代行、騎士団の予算配分、果ては彼が学院で提出する宿題や論文の代筆に至るまで。
彼らは「王太子の妻になるのだから」という免罪符を盾に、自分たちのすべての仕事を私に押し付けていたのだ。
しかも、その成果はすべて「セドリック殿下の輝かしい功績」として公表され、王妃の浪費による赤字は、我がドミトリアス公爵家の極秘の資金援助と、私の手腕による予算の「付け替え」によって隠蔽されていた。
私は、影の労働者だった。
王家という肥大化した巨大な機械を陰で一人で回し続ける、肉体を持った奴隷。
感情を捨て、睡眠を削り、機械のように書類を処理しなければ、この国はとっくの昔に破綻していたのだ。
だが——彼らはその「真実」を理解していなかった。
自分たちが有能だから国がうまく回っているのだと、本気で思い込んでいたのである。
そして、その愚かさが、今夜決定的な破滅となって結実しようとしていた。
第一章:断罪の夜、そしてプチッと切れた音
ダンスフロアの音楽がピタリと止まった。
大広間の正面、二階へと続く大階段の上から、一人の青年が堂々と歩み出てきた。
黄金の髪をなびかせ、絢爛な礼服を着た男——セドリック王太子だ。
その傍らには、桃色のふわふわとしたドレスを着た、可憐な少女が寄り添っている。貧乏男爵家の令嬢、マリアン女男爵令嬢だった。
セドリック殿下は、会場全体を見渡すと、劇中の役者のようにオーバーな身振りで叫んだ。
「静粛に! 我がエルシュタイン王国の臣民たちよ! 今夜、私はこの神聖なる夜会において、重大な決断を発表する!」
大広間がざわめく。私は壁際から静かに歩み出で、階段の下へと向かった。
セドリック殿下は、蔑みと勝ち誇った色を混ぜあわせた視線を私に向け、ビシッと指を突きつけた。
「アリエッタ・フォン・ドミトリアス! 貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」
会場に息をのむ音が広がった。
だが、驚いた者はごく一部だ。セドリック殿下がマリアンと懇ろになり、私を蔑ろにしていたことは周知の事実だったからだ。
「……殿下。理由を伺ってもよろしいでしょうか」
私は感情の篭もらない、平坦な声で尋ねた。
「理由だと!? 白々しい! 貴様はその冷酷無比な性格で、真実の愛に目覚めた私とマリアンを嫉妬し、卑劣な嫌がらせを繰り返してきたではないか!」
「嫌がらせ、でございますか」
「そうだ! マリアンの教科書を切り裂き、階段から突き落とそうとし、さらには『男爵令嬢の分せいで王太子に近づくな』と脅迫文書を送った! その嫉妬に狂った醜悪な心根……まさに『悪役令嬢』と呼ぶにふさわしい悪行だ!」
マリアンが可憐に肩を震わせ、セドリック殿下の胸に顔をうずめた。
「ひどいです、アリエッタ様……! 私、ただセドリック様のお側にいたかっただけなのに……ううっ」
「心配いらないよ、マリアン。俺が君を守るからね」
セドリック殿下はマリアンの頭を優しく撫でると、再び私を睨みつけた。
「アリエッタ! 貴様のような血も涙もない人形女に、我が国の王妃が務まるはずがない! よって貴様をドミトリアス公爵家から廃嫡し、本日より我が国からの『永久国外追放』を命じる! 直ちにこの国から去れ!」
大広間の貴族たちから、ささやき声が漏れる。
「当然だ」「あの人形女ならやりかねない」「マリアン様がお可哀想に」……。
私の頭の中で、カチリと音がした。
(……ああ、そう。そうなのね)
嫌がらせ? 教科書を裂く?
そんな下らないことをする暇が、この私の過密スケジュールの中のどこにあるというのだろう。
毎日二十時間の政務と書類処理に追われ、分刻みで生きている私が、貧乏男爵令嬢の教科書をハサミで切る時間を作る? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そして何より。
今、この断罪劇の後ろで、扇子で口元を隠しながら優雅に微笑んでいる人物が見えた。
王妃マグダレーナだ。
彼女は知っていたのだ。セドリック殿下が私を追放しようとしていることを。
そして彼女自身も、使い古した「便利な人形」を捨て、新しく扱いやすそうな貧乏男爵令嬢を手元に置いて、さらに王家の権力を好き勝手に振るおうと企んでいたのだ。
——プチッ。
頭の中で、何かが完璧に切れる音がした。
二十年間。
この国のために、民のために、そして愚かな婚約者のために殺し続けてきた私の「感情」が、音を立てて弾け飛んだ。
脳内で、超高速の計算が開始される。
(王太子の政務代行:完全停止。王妃の裏裏予算管理:完全停止。隣国との貿易協定の更新手続き:破棄。ドミトリアス公爵家からの資金援助:即座に回収。……うん、完璧です)
私の中で、冷酷で完璧な「人形」は死んだ。
かわりに誕生したのは——すべてを完璧に計算しつくして破滅させる、真の『悪意の精密機械』だった。
私は、ゆっくりと首を傾げた。
そして、これまで誰一人として見せたことのない、あまりにも美しく、そして底知れず冷たい「微笑み」をその唇に浮かべた。
「……? なんだ、その笑みは……!?」
セドリック殿下が思わず一歩身を引いた。
周囲の貴族たちも、初めて見る私の「感情」にゾクリと背筋を凍らせる。
「承知いたしました、セドリック殿下。ならびにマグダレーナ王妃殿下」
私は深々と、完璧な動作で辞世の礼をした。
「その婚約破棄、ならびに国外追放の命、謹んでお受けいたします」
「ふ、ふん! 聞き分けが良いではないか! さっさと去れ!」
「ええ、今すぐ去らせていただきます。……ですが、追放される前に、一つだけ確認させてくださいませ」
私はスッと顔を上げた。その瞳には、氷点下数百度の漆黒の光が宿っていた。
「私が引き受けておりました『お二人の業務』ならびに『個人的な契約』につきましては、本日、今この瞬間をもって【すべて完全に停止】させていただきます。よろしいですね?」
「はあ? 業務だと?」
セドリック殿下は鼻で笑った。
「何を言っているんだ。俺の仕事は俺が完璧にこなしている! 貴様がやっていたことなど、ただのお茶汲みと書類の整理整頓くらいだろうが! くだらないハッタリをかますな!」
「お茶汲み……ふふ、左様でございますか」
私はくすくすと可愛らしく笑った。
その笑顔の恐ろしさに、近衛騎士たちすら生唾を呑み込む。
「では、せいぜい頑張ってくださいませ。……さようなら、愚かなエルシュタイン王国」
私は一度も振り返ることなく、大広間の扉に向かって歩き出した。
私の両親であるドミトリアス公爵夫妻も、すでに私からの極秘の連絡を受けて会場をあとにしていた。我が家はすでに、全財産と主要な人材を国外へ逃がす準備を終えているのだ。
私という「心臓」を自ら抉り出した愚かな国が、どのように腐り落ちていくのか。
特等席で見物させていただくとしよう。
第二章:第一の崩壊——王太子の『完璧な仕事』
アリエッタ・フォン・ドミトリアスが国外へ去ってから、わずか三日が経過した。
王宮の執務室。
セドリック王太子は、豪華な革張りの椅子に深々と腰掛け、ご機嫌な様子で極上のワインを傾けていた。
「ハハハ! 素晴らしい! あの忌々しい人形女がいなくなって、実に気分がいいぞ!」
傍らには、甘えるように寄り添うマリアンがいる。
「ええ、セドリック様♡ アリエッタ様はいつも怖い顔をして、セドリック様に小言ばかり言っていましたものね。これからは私という真のパートナーが、セドリック様をお支えしますわ」
「うむ! 頼もしいぞマリアン。……さて、そろそろ今日の執務でもササッと片付けて、街へデートにでも出かけようか」
セドリックは机の上に視線を向けた。
……しかし、そこにはいつもと違う光景があった。
いつもなら、アリエッタが朝一番に整理し、優先順位ごとに色分けされ、判を押すだけの状態にまとめられた「書類の綺麗な山」があるはずだった。
だが、今日のデスクには、雑多な書類が無造作に積み上げられ、崩れかけていた。
「……なんだこれは? 執務室の給仕は何をやっているんだ。書類の整理すらできんのか」
不機嫌そうにチッ、と舌打ちをし、セドリックは一番上の書類を手に取った。
『北方領土における街道維持費の緊急増額申請書』
「……は? 増額? 意味が分からん。去年と同じ額でやれと言っておけ」
セドリックは内容も読まずに「不承認」の印を押した。
続いて次の書類。
『隣国グランヴェル帝国との鉱物資源貿易協定・更新書類(※要:本日中に最終サイン)』
「なんだこれは……英語か? いや、帝国の古代外交語か……? 読めん! 後回しだ!」
バサッと書類を投げ捨てる。
続く書類も、複雑な数値が並ぶ国家予算の補正案、軍隊の糧食補給計画、地方領主からの訴訟の判決要請……。
セドリックの頭は、数分でパンクした。
「な……なんだこれは!? なぜこんな難しい書類ばかりがあるんだ! いつもアリエッタが持ってきていた書類は、『ここにサインをしてください』という簡単なメモが付いた、分かりやすいものばかりだったぞ!?」
セドリックは気づいていなかった。
アリエッタが持ってきていたのは、彼女が事前に数百ページの専門書や外交文書を読み込み、要点を数行にまとめ、法的な問題やリスクをすべてクリアした上で作成した「最終確認用の要約書」だったのだ。
セドリックが「自分の仕事」だと思っていたのは、単にアリエッタが作った完成品に、ハンコを押すだけの作業(それすらアリエッタが誘導していた)に過ぎなかった。
「おい! 側近! 内務大臣を呼べ!」
セドリックが叫ぶと、蒼白な顔をした内務大臣が部屋に飛び込んできた。
「で、殿下! 大変にございます! 先ほど、北方領土の領主より『街道維持費が削減されたため、補修工事がストップし、流通が完全に停止した』との悲鳴が届きました! さらに、本日正午をもってグランヴェル帝国との貿易協定の期限が切れ、我が国の主要な鉄鉱石の輸入が全面ストップいたしました!」
「な……なにぃ!?」
セドリックは立ち上がった。
「馬鹿な! なぜそんな重要なことが一日で起きるんだ! いつもはアリエッタが勝手に処理していただろうが!」
「殿下、何を仰っているのですか!?」
内務大臣は血走った目で叫んだ。
「貿易協定の複雑な外交交渉も、北方領土の複雑な予算繰りも、すべてアリエッタ様がご自身の私財と、高度な専門知識を用いて個人的に処理されていたのです! 殿下はただ、アリエッタ様が作成された書類にサインをなさっていただけではありませんか!」
「な……っ!?」
セドリックの脳裏に、追放の夜のアリエッタの言葉が蘇る。
『私が引き受けておりました、お二人の業務につきましては……本日をもって【すべて完全に停止】させていただきます』
「ぐ……っ! あいつ……あいつ、自分一人で政務をやっていたというのか……!?」
がくがくと膝が震え出す。
だが、これはまだ、王国の崩壊のほんの「序章」に過ぎなかった。
第三章:第二の崩壊——王妃の浪費と、消えた金
王宮の別館にある、豪華絢爛な王妃のサロン。
マグダレーナ王妃は、高級な紅茶を口に含みながら、優雅に扇子を煽っていた。
「ふう、あのかわいげのないアリエッタがいなくなって、ようやくこの王宮も清々しくなりましたわ」
周囲の取り巻きの貴族夫人たちが、同調するように笑う。
「ええ、王妃殿下。あのような無愛想な娘、王家にふさわしくありませんわ」
「これからは可愛らしいマリアン様が、殿下の良き妻となられましょう」
「ええ、そうですわ。……さて、そろそろ来月の『春の社交会』のためのドレスと宝飾品を注文しましょうか。王室御用達の宝石商を呼びなさい」
マグダレーナ王妃は気品高く命じた。
彼女は贅沢が大好きだった。世界中から集められた激レアな宝石、一流のデザイナーが作るドレス、連日連夜開かれる豪華な晩餐会。
これまでは、どんなに浪費しても、アリエッタが「上手く」やってくれていた。
王家の予算が足りなくなれば、アリエッタがドミトリアス公爵家から低金利(実質無利息)で資金を補填し、さらには無駄な王宮の管理費を裏で削って、帳簿の辻褄を完璧に合わしてくれていたのだ。
間もなく、青ざめた顔をした王室会計監査官が、ガタガタと震えながらサロンに駆け込んできた。
「ほ、王妃殿下……! 大変なことになりましてございます……!」
「あら、騒々しいですね。何事です?」
「宝飾店および、服飾ギルド、さらには高級食材の輸入商会から……一斉に『これまでの未払い金の請求書』が届きました!」
「は?」
マグダレーナ王妃は眉をひそめた。
「未払い金? 何を言っているのです。支払いなら、アリエッタが王家会計から済ませているはずでしょう」
「それが……届いた請求書の総額は……金貨五万枚(約五十億円)にのぼります! さらに、これまでの支払いはすべて『ドミトリアス公爵家からの個人的な融資』によって立て替えられており、アリエッタ様の追放に伴い、公爵家から『全額の即時返還』を求める法的文書が届きました!」
「……な、なんですって……!?」
マグダレーナ王妃の手から、高級な磁器のティーカップが落ち、床でパリンと砕け散った。
「馬鹿な……! ドミトリアス公爵家は王家の臣下でしょう!? なぜ王家の金を出さずに、公爵家の金を使っていたの!?」
「殿下! 王家の正規の予算など、殿下のこれまでの浪費と、セドリック殿下の無駄な私的遊興費で、とっくの昔に【赤字】だったのです!」
会計監査官は涙目で叫んだ。
「アリエッタ様は、王家の名誉を守るために、ご自身の私財と実家の資金を無償で補填し、帳簿上は『黒字』に見せかけてくださっていたのです! それを……それを殿下方は『追放』されたのですよ!?」
「ひっ……!?」
王妃の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「さ、返せばいいのでしょう! 王家の金庫から金を出しなさい!」
「金庫は……空です!」
「……え?」
「本日、アリエッタ様が個人名義で開設されていた『王家危機管理基金』の口座が凍結されました。王家の金庫に残っているのは、数枚の銅貨と、使い物にならない古文書だけです!」
サロン内にいた貴族夫人たちが、一斉にヒソヒソと話し始め、蔑むような視線を王妃に向け始めた。
「まあ……王家って、実は一銭もない破産状態だったの?」
「アリエッタ様の金で贅沢をしていただけなんて……おぞましいわ」
「黙りなさい! 黙りなさい!!」
マグダレーナ王妃は発狂したように叫んだ。
しかし、現実は容赦なかった。
その日の午後には、王宮への食料の納入がストップした。
高級なワインも、肉も、焼き立てのパンすら届かない。王宮の召使いや料理人たちは、給与が支払われないことを知ると、一夜にしてその八割が荷物をまとめて逃亡した。
数前まで絢爛豪華だった王宮は、たった数日で「金欠と飢えに苦しむ廃墟」へと成り下がり始めたのだった。
第四章:他国での再始動——新会社『アリエッタ商会』
エルシュタイン王国が地獄の混乱へと陥っていた頃。
王国の北隣に位置する、大陸最大の経済大国——グランヴェル帝国の首都ルナリア。
その中心街に位置する、超一等地の高層ビルの中に、私はいた。
「アリエッタ様、本日分の各国の市場データと、鉱物資源の先物取引に関する報告書です」
恭しく書類を差し出してきたのは、私の秘書であり、元ドミトリアス公爵家の執事であった優秀な青年、カルロスだ。
「ありがとう、カルロス。……ふむ、帝国の鉄鋼価格が予想通り15%上昇していますね。買い占めておいた先物権利を、段階的に売却してください」
「承知いたしました。さすがアリエッタ様、すべて計算通りですね」
私は、日当たりの良い豪華な執務室の窓から、活気あふれる帝国の街並みを見下ろした。
エルシュタイン王国を追放された私は、あらかじめ準備していたルートで両親や優秀な使用人たちとともに帝国へ亡命。ドミトリアス家の全財産を元手に、新会社『アリエッタ統合商会』を立ち上げた。
私の頭の中にあるのは、大陸全体の経済構造、各国の物流ルート、そして気候や政治情勢に伴う市場の変動データ。
王宮での地獄のような過重労働で鍛え上げられた私の処理能力は、ビジネスの世界において「神の領域」の力を発揮した。
創業からわずか一ヶ月。
アリエッタ商会は、鉱物資源の独占販売権、高速物流ルートの確立、さらには独自の「複式簿記」を導入した金融業によって、帝国で最も急速に成長するメガ企業となっていた。
コンコン、とノックの音が響く。
「入れ」
扉が開くと、そこには黄金の刺繍が施された軍服を着た、背の高いハンサムな青年が入ってきた。
グランヴェル帝国の第二皇子であり、帝国経済省の長官でもある、ルイス殿下だ。
「やあ、アリエッタ。今日も相変わらず美しいな……そして相変わらず恐ろしいほどの稼ぎっぷりだ」
ルイス殿下は爽やかな笑みを浮かべ、私の前のソファに腰掛けた。
「ルイス殿下。アポイントなしのご訪問は、我が社の規約により相談料が三割増しになりますが?」
「ははは! 相変わらず厳しいね。いいよ、いくらでも払うさ。君が提示してくれる政策案と投資先は、我が帝国の税収を三倍にしてくれたんだからね」
ルイス殿下は、真剣な眼差しで私を見つめた。
「それにしても……エルシュタイン王国の連中は、本当に目と頭が腐っていたんだな。君のような『国家の宝』を、悪役令嬢などとでっち上げて追放するなんて。おかげで我が帝国は棚から牡丹餅だがね」
「ふふ、彼らは『目に見えるもの』しか信じられない愚か者でしたから。……ところで殿下、あちらの国の『進捗』はいかがですか?」
私が尋ねると、ルイス殿下は口元を歪めてニヤリと笑った。
「絶望的だよ。君が手配をストップした鉄鉱石の輸入停止で、エルシュタインの軍備と農業器具の生産は完全にストップ。さらに、君の公爵家が回収した莫大な資金のせいで、王家は国家破産の危機だ。臣下や民の不満は爆発寸前、各地で暴動が起きているらしい」
「そうですか。……計算通り(計画通り)ですね」
私は静かに紅茶を口に含んだ。
「アリエッタ、君は復讐のためにあの国を潰すつもりかい?」
ルイス殿下の問いに、私はくすりと微笑んだ。
「滅相もございません。私は何もしていませんわ。ただ……『私がやっていた仕事』を、本来やるべきご本人たちにお返ししただけです。自滅したのは、彼ら自身の能力の無さと、身勝手な欲望の結果ですもの」
「くくっ……最高だ。君のそういう冷徹でいて、完璧なところが大好きだよ」
ルイス殿下は立ち上がると、私の手を取り、その甲に優しくキスをした。
「アリエッタ。我が帝国の皇妃として、私と一緒にこの大陸の経済を支配してみないか? 君となら、世界だって動かせる」
突然のプロポーズ。
だが、その提案は、かつてのセドリック殿下のような身勝手なものではなく、お互いの能力を対等に認め合った「最高のビジネスパートナー」からのオファーだった。
「……前向きに検討させていただきますわ、ルイス殿下。まずは……あの愚かな王国が完全に息の根を止めるのを、見届けてからにしましょう」
私の瞳に、冷酷で美しい決意の光が宿っていた。
第五章:決絶と、無慈悲な通告
追放から二ヶ月。
エルシュタイン王国の状態は、もはや「国家」と呼べるものではなくなっていた。
王都は暴徒化した民衆と、給与を払われない兵士たちで溢れかえり、放火と掠奪が横行。
王宮の中では、食料すら底をつき、貴族たちは我先にと国外へ逃亡していた。
「なぜだ……! なぜこんなことになるんだぁぁぁ!」
執務室で、ボロボロの服を着たセドリック王太子が髪をかきむしっていた。
かつての威厳ある王子の面影はなく、痩せこけ、目の下には黒いクマができている。
傍らにいたマリアンも、泥で汚れたドレスを着てシクシクと泣いていた。
「セドリック様ぁ……お腹が空きました……。こんなはずじゃなかったのに……。アリエッタ様を追い出せば、私たちが幸せになれるって言ったじゃないですかぁ!」
「うるさい! 黙れこの女!」
セドリックはマリアンを蹴り飛ばした。
「お前が『アリエッタにいじめられた』なんて嘘をつくからだ! お前のせいで俺は……俺はアリエッタという最高の道具を失ったんだ!」
「ひどい……! セドリック様だって面白がって乗っかってたくせに!」
醜いなすりつけ合い。
そこへ、息も絶え絶えの近衛隊長が飛び込んできた。
「で、殿下! 報せです! グランヴェル帝国の『アリエッタ統合商会』の代表……アリエッタ様が、我が国の危機を救うための『特別交渉』に応じるとの連絡が入りました!」
「な……なにぃ!? アリエッタが!?」
セドリックの顔に、劇的な希望が浮かんだ。
「そうか! やっぱりアリエッタは俺を愛していたんだ! 俺が恋しくて、国を救うために手を差し伸べてくれたんだ!」
傍らにいたマグダレーナ王妃も、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「まあ! さすがは元・我が家の嫁候補! アリエッタに言っていらっしゃい、セドリック! 『許してやるから、今すぐ金を三千万金貨ほど融資しろ』と!」
「ああ! 今すぐ帝国へ向かうぞ!」
愚かな母子は、最後の最後まで己の立場を理解していなかった。
彼らはボロボロの馬車を仕立て、命からがらグランヴェル帝国の首都ルナリアへと向かった。
——数日後。
アリエッタ統合商会の豪奢な応接室。
セドリックとマグダレーナ王妃、そしてマリアンの三人は、部屋の豪華さに圧倒されていた。
そこへ、重厚な扉が開き、アリエッタが入ってきた。
彼女が身に纏っていたのは、帝国の最高級シルクで作られた漆黒のドレス。胸元には巨大なダイヤモンドが輝き、その立ち姿はまさに「女王」の威厳そのものだった。
その隣には、帝国の第二皇子ルイス殿下が、護衛のように付き添っている。
「アリエッタ!!」
セドリックは叫び、アリエッタのもとへ駆け寄ろうとした。
しかし——
バシッ!!
立ち塞がった帝国の近衛兵たちによって、床に組み伏せられた。
「グハッ!? な、何をする! 俺はエルシュタイン王国の王太子だぞ!」
「静かにしなさい、無礼者」
アリエッタは冷ややかな視線で、床に転がるセドリックを見下ろした。
その瞳には、哀れみすら浮かんでいない。ただの「ゴミ」を見るような目だった。
「お久しぶりですね、セドリック殿下。それから元・王妃殿下」
「アリエッタ! 助けに来てくれたのね!?」
マグダレーナ王妃が悲鳴を上げる。
「今すぐ王家に資金を援助しなさい! あなたのせいで我が国は破産寸前なのよ! 謝罪するなら今なら許してあげるわ!」
アリエッタは、ふっと小さく笑った。
「謝罪? 私が? なぜでしょう?」
「なっ……! 貴様、我が国を見捨てる気か! 臣下としての義務はどうした!」
セドリックが叫ぶ。
アリエッタは優雅に椅子に腰掛け、脚を組むと、一枚の書類をテーブルの上に置いた。
「セドリック殿下。私が今回、皆様をお呼び立てしたのは……『助けるため』ではありません。【最終的な清算】を行うためです」
「せ、清算……?」
「ええ。こちらをご覧ください」
アリエッタが提示したのは、数十ページに及ぶ細かな数字がびっしりと書かれた請求書だった。
「我がドミトリアス家が過去十日間にわたって王家に極秘で融資していた金額、ならびに私が個人的に行っていた政務の労働対価、さらには私に対する不当な追放および名誉毀損に対する賠償金……合計、金貨一億二千万枚です」
「い、一億二千万……!??? 馬鹿な! そんな額、国を売っても払えるわけがないだろう!!」
セドリックは狂ったように叫んだ。
「ええ、払えないでしょうね」
アリエッタは冷酷に微笑んだ。
「ですので、本日付けで我がアリエッタ統合商会は、エルシュタイン王家のすべての資産、土地、ならびに『国家の主権』を債務の担保として差し押さえさせていただきました」
「な……なにを……!?」
「すでにグランヴェル帝国政府との間で協定は締結されています。本日をもって、エルシュタイン王国は国家としての存続を失い、我がアリエッタ商会およびグランヴェル帝国の『直轄領(直属の植民地)』となります」
「「「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!???」」」
三人から、絶望の悲鳴が上がった。
国家の消滅。
彼らが誇っていた「王族」という身分が、今この瞬間に完全に砕け散ったのだ。
「そんな……そんなこと認めないわ! 私たちは王族よ! 貴族なのよ!」
マグダレーナ王妃が狂乱して叫ぶ。
「いいえ、ただの『破産した巨額の債務者』です」
アリエッタは残酷な真実を突きつけた。
「あなた方には、これから死ぬまで、我が商会が経営する鉱山と農場で働いていただきます。……安心してください。私が効率的な労働シフトを組んであげましたから。睡眠時間は一日四時間、休日は年に一日です」
「や、やめろぉぉぉ! そんなの人間がやる仕事じゃない! 俺は王子だぞ! 王子なんだぁぁぁ!」
セドリックはボロボロと涙をこぼし、アリエッタの靴に縋り付こうとした。
「アリエッタ! 悪かった! 俺が間違っていた! 俺が愛しているのは君だけだ! マリアンなんかじゃなかった! 頼む、もう一度婚約者にしてくれ! 君の言う通りにするから! 人形にでも何にでもなるからぁぁぁ!」
その惨めな姿に、アリエッタはフッと蔑みの笑みを浮かべた。
「お断りいたします」
アリエッタは、足元のセドリックを冷たく踏みつけた。
「私はね……『自分より無能な人形』なんて、ひとつも欲しくありませんの」
「連れて行きなさい」
ルイス殿下の合図とともに、帝国兵たちが暴れるセドリック、マグダレーナ、そしてマリアンの三人を引きずっていく。
「アリエッタぁぁぁぁぁっ! 助けてくれぇぇぇぇっ!」
「嫌よ! 鉱山なんて嫌ぁぁぁぁっ!」
悲鳴は重厚な扉の向こうへと消え、二度と戻ってくることはなかった。
エピローグ:ガラスの靴を脱ぎ捨てた人形
数か月後。
旧エルシュタイン王国は、アリエッタ統合商会の合理的な経営と、グランヴェル帝国の支援により、急速に復興を遂げていた。
無駄な王家への税金がなくなり、アリエッタが策定した完璧な物流網と産業育成計画によって、民たちの暮らしは以前よりも遥かに豊かで平和なものとなっていた。
誰も、滅びた愚かな王家や、身勝手な王子を悼む者などいなかった。
民たちは口々に、新しい統治者であり、「救国の女神」となったアリエッタを称賛した。
グランヴェル帝国の皇宮。
夕陽が美しく差し込むテラスで、私は一人、上質なワイングラスを傾けていた。
「ふう……ようやく旧王国のインフラ再構築の第一期計画が完了しましたわ」
背後から、温かい気配が近づいてくる。
ルイス殿下が、優しく私の肩に羽織りをかけてくれた。
「お疲れ様、アリエッタ。君のおかげで、旧領土の生産性は去年の三倍だよ。……本当に、君という人は休むことを知らないね」
「あら、これでも以前に比べたら、毎日六時間も睡眠が摂れていますのよ? 夢のようなスローライフですわ」
私がくすりと笑うと、ルイス殿下は愛おしそうに私を見つめた。
「ねえ、アリエッタ。……そろそろ、最初のプロポーズの返事を聞かせてもらえないかい?」
ルイス殿下は私の前にひざまずき、小さなベルベットの箱を開いた。
中には、どんな王冠よりも眩しく輝く、最高品質のブルーダイヤモンドの指輪があった。
「私は君を『便利な道具』として扱うつもりは毛頭ない。君の知性を尊敬し、君の冷徹さも、その裏にある高潔さもすべて愛している。……私の生涯のパートナーになってくれないか?」
セドリックの与えてきた「偽りの栄光」とは違う。
ここにあるのは、対等な人間としての、真実の敬意と愛だった。
私は、自分の胸に手を当てた。
かつて「人形令嬢」と呼ばれ、感情を殺して生きていた私。
だが、今の私の胸の中には、温かい情熱と、未来への希望がはっきりと脈打っていた。
私は、ゆっくりと微笑んだ。
それは、誰かに作られた人形の笑顔ではなく——自分の意思で生きる、一人の女性の、誇り高き笑顔だった。
「……喜んで、お受けいたします。ルイス殿下」
私はその手を取り、永遠の誓いのキスを受け入れた。
愚かな者たちは自らの愚かさによって破滅し、真に力を尽くした者は最高の幸せを手に入れる。
ガラスの靴を自ら脱ぎ捨て、己の足で未来を掴み取った元・人形令嬢の物語は、こうして最高のハッピーエンドを迎えたのだった。




