第9話
翌朝、エリゼが書斎の前に現れたのは、夜明けから一時間も経たない頃だった。
廊下でゲルハルトと鉢合わせた。副官は一瞬、驚いた顔をした。
「……もうお起きですか」
「帳簿を読み終えたので、お返ししようと思って」
「一晩で?」
「分厚かったので少し時間がかかりました」
ゲルハルトが何かを言いかけて、やめた。それから書斎の扉を叩き、中に帳簿を置いてきた。
レイナルトはすでに起きていた。エリゼより早く。
視察は三人で出た。レイナルトとゲルハルト、それにエリゼ。馬に乗れるかと確認されたので、乗れますと答えたら少し意外そうな顔をされた。
領地の東端から始まった。
広大な平野が続く。遠くには枯れた木立が見え、その手前に農家が点在している。朝靄の中、景色全体がくすんだ色をしていた。作物が育っている気配がない。田畑のはずの区画が、茶色い土をただ晒していた。
最初の農家の前で馬を止めた。
出てきたのは六十がらみの老婆だった。腰が少し曲がっていて、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。しかしその目は、しっかりしていた。
「旦那様」と老婆はレイナルトに頷いてから、エリゼを見た。
「こちらが王都からいらした方ですかい」
「はい。エリゼといいます」
「マルタといいます。よろしくお頼み申します」
マルタは人懐こい顔でそう言い、それからまじまじとエリゼを見た。
「お嬢さん、こんな土地に何しに来なすった」
遠慮のない問いだった。
「緑にしに来ました」
エリゼが答えると、マルタがぱっと笑った。
「そうかい、緑に。そりゃいい。そりゃいい」
視察を続けながら、エリゼはひたすら書き留めた。
土の色と質感、水路の詰まり具合、農民の話す言葉、作物の根が残した跡——全てをノートに記した。レイナルトとゲルハルトは、時々説明を加えるが、基本的には黙ってエリゼの動きを見ていた。
昼近くなって、エリゼはしゃがみ込み、土を両手で掬った。
赤みがかった、乾いた土だ。指の間からさらさらとこぼれる。水を含む力が弱い。
エリゼはしばらく考えてから、掌の土に意識を向けた。ほんの少しだけ、魔力を流してみる。
次の瞬間、手のひらの下の地面から、細い草の芽がひとつ、顔を出した。
「……なんだ、それは」
ゲルハルトが低い声を出した。
エリゼも少し驚いた。試しにやってみただけで、ここまで反応があるとは思っていなかった。
「植物魔法です」
「知っている。だがそんな即効性のあるものじゃないはずだ」
「そうなんです、私も今確かめているところで」
エリゼはもう一度、土に手を当てた。今度は少し多めに流す。草の芽が、周囲にいくつも吹き出した。三センチ、五センチと伸びていく。
ゲルハルトが声を失った。
レイナルトは何も言わなかった。しかしエリゼが顔を上げたとき、彼の視線がわずかに変わっているのに気づいた。さっきまでの「どうせ帰る」という諦めの目ではなく、もう少し別の何かが混じっていた。
「絵空事だ、とおっしゃいますか」
エリゼは立ち上がりながら、レイナルトを見た。
レイナルトが少し間を置いた。
「……言わない」
「では、一区画試させていただけますか。水路の整備から始めて、土を改良して、植物魔法を使う。結果が出なければ、その時点で王都へ帰ります」
ゲルハルトが口を開きかけた。
レイナルトが一言言った。
「やれ」
それだけだった。
視察の帰り道、マルタがエリゼの馬の傍らを歩きながら言った。
「さっき、草を出してみせてくれたね」
「はい」
「うちの畑に、あれをやってもらえるかい」
「できるかどうか、試してみます」
マルタが「頼んだよ」と言って、皺だらけの顔で笑った。
その笑顔に、エリゼは胸の中で何かが固まっていくのを感じた。
やるべきことが、ある。ここに来た意味が、ある。
辺境の夕風が、草の匂いを運んできた。




