第4話
婚約破棄から一週間が経った。
王都は相変わらず動いていた。朝には市場が開き、昼には馬車が往来し、夕には貴族の窓に明かりが灯る。エリゼの人生が大きく変わったとしても、都市の時間はひとつも止まらない。それがどこか、清々しかった。
図書室に積み上げた文献は、この一週間でずいぶん減った。農業土壌の基礎知識、水利の管理法、植物魔法の体系的な記録——王都の図書室にある関連書物はほとんど読み終えていた。
エリゼはいま、次に何を読もうかと考えていた。
「お嬢様」
執事のベルナールが書斎の扉から顔を出した。
「王家より使者がまいりました。旦那様がお呼びです」
書斎に通されると、父・クロード侯爵が机の前に座っていた。その顔は、先日より少し険しかった。
使者はすでに帰ったらしい。机の上に、封蝋を割った書状が置かれている。
「座りなさい、エリゼ」
エリゼは促されるまま椅子に腰を下ろした。
「王家より、非公式な打診があった」
父が書状を手に取る。
「北の辺境、ヴォルフ伯領では長らく農業振興の専門家を必要としているそうだ。もし望むなら、名誉顧問として派遣してはどうか——という内容だ」
父がそこで口を止めた。読み上げながら、顔色が変わっていくのがわかった。
「要するに、お前を厄介払いしたいのだ」
声に怒りが混じった。
「婚約破棄のうえ、辺境送りとは。これが王家のすることか」
エリゼは書状を受け取り、目を通した。
確かに「非公式」と書いてある。表向きは農業振興のためだが、父の言う通り、断罪した令嬢を王都から遠ざけたいという意図が透けて見えた。貴族社会に漂う「可哀想なエリゼ様」という同情の空気を、早く消したいのだろう。
エリゼは書状をそっと机に戻した。
「承ります」
父が顔を上げた。
「行きます、お父様。ヴォルフ伯領へ」
「何を言っているんだ! これは追放も同然だぞ」
「そうかもしれません」
エリゼは静かに、しかし確かな声で言った。
「でも私、辺境で暮らしてみたいと思っていたんです。ちょうどよかった」
「……ちょうどよかった、だと?」
父の声に、呆れと心配が混じった。エリゼは少し微笑んだ。
「お父様、私はもう、誰かの都合に合わせて生きるのはやめにしようと思っています」
父が黙った。
「王家の打診は、確かに私を遠ざけるためのものでしょう。でも——辺境に行くのは、私が行きたいから行くんです。理由はそれだけで十分です」
しばらく、書斎に沈黙が続いた。
暖炉の火が揺れた。父がため息をついた。それから、わずかに声を和らげた。
「……ヴォルフ伯領のことを、少しは知っているか」
「いいえ。教えていただけますか」
父が渋い顔のまま、話し始めた。
ヴォルフ伯領は王都から馬車で五日ほど北へ向かった先にある、広大だが過疎の辺境地だ。かつては鉱山で栄えたが、鉱脈が枯れて以来、農業への転換がうまくいっていない。領主のレイナルト・ヴォルフは今年二十七歳。寡黙で社交を好まず、王都への出席はほとんどない。
「三年前に奥方を亡くしていてな」
父がそこで少し声を落とした。
「病弱な方だったそうだ。子もなかった。それ以来、あの男はますます人と関わらなくなったと聞く」
「そうですか」
「領地は荒れている。農民は疲弊しているという話だ。行っても何もできんぞ」
「それは行ってみなければわかりません」
エリゼは答えた。
父はまだ何か言いたそうにしていたが、エリゼの目を見て、それ以上は言わなかった。
エリゼは「面白そう」と、声に出さず思った。
何もないところから始める。誰の顔色も窺わず、ただ土地と向き合う。そういう仕事が、今の自分には合っている気がした。
「出発の準備を始めてもよいですか」
父がまた深いため息をついた。
「……わかった。ただし、辛くなったらすぐ帰ってこい」
「はい、お父様」
エリゼは立ち上がり、礼をした。
書斎を出ると、廊下でリーナが待ち構えていた。
「聞こえていました。辺境ですか!」
「一緒に来てくれる?」
「もちろんです!」
リーナが目を輝かせた。エリゼは小さく笑って、図書室へ向かった。
今日中に、ヴォルフ伯領の農業事情に関する文献を探さなければならない。




