第3話
翌朝、目が覚めると、空が白かった。
エリゼは少し眠れなかった。眠れなかった割に頭は妙にすっきりしていて、昨夜の出来事がどこか遠い記憶のように思われた。着替えを済ませ、朝食をとるよりも先に、庭に出た。
外の空気を吸いたかった。ただそれだけだった。
アルトワ侯爵邸の庭は、手入れの行き届いた美しい庭だった。白い玉砂利の小径が続き、左右には四季折々の花々が植えられている。春の今は、バラと藤の時期だ。
しかしエリゼが足を止めたのは、庭の隅にある古い花壇の前だった。
昨日まで、そこのバラは枯れかけていた。冬の霜で傷んだまま、庭師が処置する暇もなかったのだろう。茶色く変色した茎が、寂しく並んでいるだけだった。
それが今朝、一面に芽吹いていた。
エリゼはしばらく、ただ立ち尽くした。
鮮やかな緑の新芽が、枯れていたはずの茎という茎から吹き出している。小さなつぼみさえ、いくつか見えた。昨日まで確かに枯れていたバラが、一夜でこうなるはずがない。
自然にそうなることは、あり得ない。
エリゼは膝を折り、花壇の縁に手をついた。指先でそっと新芽に触れる。柔らかく、みずみずしく、命の感触があった。
そのとき、手のひらの奥でうっすらと何かが動いた気がした。
温かくて、静かな何か。
知っている感触だ、とエリゼは思った。
ずっと昔に触れたことのある、あの感触。
エリゼが植物魔法に目覚めたのは、八歳のときだった。
侯爵邸から少し離れた野原で、摘もうとした野の花が指先から光を受けて一斉に開いたのだ。驚いて、次の瞬間には嬉しくなって、エリゼはその日の午後いっぱいをかけて、野原中の花を咲かせて遊んだ。
帰宅したエリゼに、父は怒らなかった。ただ静かに言った。
「エリゼ、侯爵令嬢がそのような魔法を使うのは、はしたない」
はしたない。
その一言が、子どものエリゼには十分すぎる言葉だった。
植物魔法は農民や庭師のための技術だ、という認識が貴族社会には根強くある。生き物を育て、土を耕すための力は、上流の社交界では「野卑な魔法」と見なされる。令嬢にふさわしいのは光魔法や治癒魔法、精霊魔法といった「高貴な」技術のほうだ。
以来エリゼは、指先に魔力が集まりそうになるたびに抑えてきた。
十二年間、ずっとそうしてきた。
指先に、また温もりが灯った。
エリゼは今度は抑えなかった。
意識して、そっと流してみる。指の腹から、細い光の糸のようなものが花壇の土へ染み込んでいく。次の瞬間、つぼみのひとつがゆっくりと開いた。薄いピンクの花びら。昨日まで死んでいたバラの花。
エリゼは息を詰めて、それを見つめた。
胸の中で何かが、ゆっくりとほどけていくようだった。
これが私の魔法だった。
ずっとしまい込んで、忘れかけていた、私のもの。
「奥様?」
背後からリーナの声がした。
エリゼは顔を上げた。リーナが朝の割烹着姿のまま、驚いた顔でバラを見ている。
「これは……昨日まで枯れていませんでしたか」
「ええ」
「奥様が?」
エリゼは少し考えてから、頷いた。
「昨夜、無意識にやってしまったみたい。それで今朝、ためしてみたら」
「すごい」
リーナが屈み込んで、花に顔を近づけた。
「本当に咲いてる。きれいですね、奥様」
「ね」
エリゼはもう一度、花を見た。
ピンクのバラが、朝日の中で静かに揺れていた。
これが私にはある。
婚約者も、王子妃という未来も、王都での立場も、全部なくなった。でも、これは残った。
エリゼは立ち上がった。
裾についた土を払いながら、ふと思う。この力を、もっとちゃんと使ったらどうなるだろう。十二年間、封じ続けてきた分だけ——どれだけのことができるのか、自分でも知らない。
「リーナ、朝食のあと、図書室を使わせて」
「図書室ですか? 何を調べるんですか」
「植物魔法のことを、ちゃんと勉強してみようと思って」
リーナがぱっと顔を輝かせた。
「はい、すぐに準備します!」
朝の庭に、バラの薄い香りが広がっていた。
エリゼは、初めて昨日からの重さが完全に消えた気がして、小さく息を吐いた。




