第2話
アルトワ侯爵邸に戻ったのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
玄関の前で父・クロード侯爵が待っていた。夜会には体調を崩して欠席していたはずだが、この時間まで起きていたということは、何かを感じ取っていたのかもしれない。父の顔に影が差した。
「エリゼ」
「お父様」
エリゼは微笑んだ。
「今夜、殿下に婚約を解消していただきました」
クロード侯爵は絶句した。
書斎に場所を移し、エリゼが夜会での出来事を手短に話すと、父の顔は青から赤へ、そして紫へと変わっていった。
「なんということだ」
拳が机を叩く。
「明朝、王家に使者を送る。このような仕打ちは断じて——」
「お父様」
エリゼは静かに遮った。
「それは、おやめください」
「しかし!」
「お父様が動けば、家が傷つきます。相手は王家です」
父が口を開きかけて、閉じた。エリゼは続けた。
「私は大丈夫です。ご心配はいりません」
父は長い間、何も言わなかった。
暖炉の火が揺れる音だけが、書斎に満ちた。それからクロード侯爵は深いため息をついて、椅子に沈み込んだ。急に老いたように見えた。
「……すまなかった」
その一言が、予想外だった。
「私がもっと早く気づいていれば」
エリゼは何も答えなかった。父が気づいていなかったのは本当のことで、それを今さら責める気にはなれなかった。
「おやすみなさい、お父様」
エリゼは礼をして、書斎を出た。
自室の扉を閉めた瞬間、侍女のリーナが振り返った。十八歳の彼女はエリゼより二つ年下で、五年前から仕えている。その目が赤く腫れていた。
「奥様」
「聞いていたの」
「……廊下で」
リーナが唇を引き結んで俯いた。泣くまいとしているのが、肩の震えでわかった。
エリゼはドレスのまま窓辺の椅子に腰を下ろした。夜の庭が見える。月が出ていた。
「不思議なことを言うようですけれど」
エリゼは言った。
「なぜ泣いているのか、自分でもよくわからないの」
リーナが顔を上げた。
「殿下が憎いわけではないの。悲しいというより……何か、ずっと重いものを持っていたのが、急に手放せた、みたいな感じがして」
それは正確な言葉ではなかった。でも、今の自分の内側に一番近い言葉だった。
「私は殿下のことが、好きだったのかしら」
声に出してみると、答えが出なかった。
好きだと思っていた時期はあったはずだ。しかしいつからか、婚約者の傍らに立つことは「義務」になっていた。殿下のために、家のために、この縁を守るために——そういう理由で動いていた。
恋心は、いつの間にか義務感にすり替わっていたのかもしれない。
そして今、その義務が終わった。
涙が出てきたのは、そのことに気づいたときだった。
怒りのためでも、失恋のためでもない。
何年もかけて、自分のためではない時間を積み上げてきたこと。その年月が、今夜ようやく視界に入ってきて——それが、悲しかった。
声を殺して泣いた。上品に泣く余裕は、さすがになかった。
リーナが何も言わずに隣に座って、エリゼの背中に手を当てた。
「泣いていいですよ、奥様」
その一言で、もっと泣けた。
どれくらい泣いたのかわからない。気がつくと、頰が乾いていた。
リーナが温かいお茶を持ってきて、エリゼの手に押し付けた。
「奥様はこれから、好きに生きればいいんです」
きっぱりとした声だった。
「今まで、ずっと誰かのために動いてきたじゃないですか。これからは奥様が好きなことを、好きなだけやればいいんです」
「好きなこと」
エリゼは繰り返した。
それが何なのか、すぐには答えが出なかった。それだけ長い間、自分の「好き」から遠ざかっていたということなのかもしれない。
「考えてみるわ」
エリゼはお茶を一口飲んだ。ほのかにハーブの香りがした。
「ありがとう、リーナ」
リーナが「当然です」と言って、ようやく笑った。
月が少し、動いていた。




