第11話
その夜、ゲルハルトが珍しく城を空けた。
隣の集落まで水利の確認に行くと言い残して、夕方には出かけてしまった。夕食の時間になって、エリゼが食堂へ向かうと、長いテーブルの端にレイナルトが一人で座っていた。
互いに一瞬、間があった。
「失礼します」
エリゼは反対側の端ではなく、レイナルトから二席ほど空けた場所に座った。遠すぎず、近すぎない距離。
食事が運ばれてきた。スープと、黒パン、それから煮込んだ肉の料理。王都の晩餐とは比べようもなく質素だが、温かい湯気が立っていた。
しばらく、無言が続いた。
王都での夕食は、いつも誰かの声が飛び交っていた。社交の義務としての会話、気を遣った言葉、笑顔の応酬。それが当たり前だったから、今この静けさは少し奇妙な感じがした。
しかし不快ではなかった。
スープが美味しかった。野菜の出汁がよく出ていて、少しハーブの香りがする。体の芯まで温まるような味だった。
「辺境伯様」
エリゼが口を開いた。
レイナルトが顔を上げた。
「なぜこの地を、緑にしたいのですか」
少し直接的すぎる問いだったかもしれない、と思った。しかし今夜は二人きりで、お互い余分な社交をする気がない夜だった。
レイナルトは黙って、スプーンを置いた。
「民が飢えないようにするためだ」
しばらく経ってから、そう言った。
「それだけですか」
「それだけで十分だ」
短い返答だった。しかしその言葉の裏に、何かが詰まっているのをエリゼは感じた。言葉を選ぶのが不得手なのではなく、言葉を多く使う習慣がないのだ。
エリゼはしばらく考えてから、答えた。
「そうですね。それで十分です」
レイナルトが初めて、エリゼの方へ向き直った。
何かを測るような目だった。馬鹿にしているわけでも、おべっかを言っているわけでもない、という確認をしているような。
エリゼは視線を受け止めた。
「民が飢えないことのために全力を尽くす、というのは立派な理由です。それ以上でも以下でもない」
レイナルトがまた黙った。
今度の沈黙は、少し前のものと質が違った気がした。
食事を再開した。
窓の外で風が鳴った。辺境の夜は静かで、食器の音がよく響く。それでも沈黙は重くなかった。
エリゼはスープを飲みながら、今日の水路作業のことを思い返した。あの畑に何を植えるか、次の区画はどこから始めるか。頭の中でいくつかのことが同時に動いていた。
「今日の視察で、東の丘の斜面が気になりました」
エリゼは思ったことを口にした。
「草木の根が浅い。雨が降ると土が流れやすいかもしれません。防草の植え付けが先になるかもしれませんね」
「確認してみる」
「あと水路の三番と七番の合流地点、少し角度を変えると流れがよくなる気がします。明日、もう一度見ていただけますか」
「わかった」
会話が弾むとは言えなかった。でも、言葉が届いていた。ちゃんと聞かれて、ちゃんと返ってくる。それだけで十分だった。
食事が終わる頃、エリゼは席を立ちながら言った。
「夕食がとても美味しかったです。料理人の方にお伝えいただけますか」
「……俺が作った」
一瞬、間があった。
エリゼは振り返った。レイナルトが、少し居心地悪そうにしていた。
「辺境伯様が?」
「料理人は一人しかいないが、今日は体調を崩していた。ゲルハルトが不在で、他に誰もいなかっただけだ」
「そうでしたか」
エリゼはしばらく言葉を探した。
「では、辺境伯様に直接お伝えします。とても美味しかったです。特にスープのハーブの使い方が好みでした」
レイナルトが何も言わなかった。
エリゼが食堂を出ようとして、ふと振り返ると、レイナルトが前を向いたまま、空になった器をじっと見ていた。
その横顔が、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。




