第10話
翌朝、エリゼは農民たちと一緒に水路に入った。
膝まである長靴を借りて、泥の中に足を踏み入れた。リーナは城で待機させた。こういう作業に令嬢の侍女を連れていっても、互いに気を遣うだけだ。
「お嬢さん、本当にやるんですか」
水路の端で、マルタが心配そうに見ていた。
「やります。一緒に教えてください、マルタさん」
農民の男たちが顔を見合わせた。侯爵令嬢が泥仕事をすると言い出すとは思っていなかったのだろう。しかしエリゼが迷わず水路に入っていくのを見て、一人、また一人と後に続いた。
水路の詰まりは、思った以上にひどかった。
堆積した土砂と枯れ草が水の流れを完全に塞いでいる箇所が何カ所もある。エリゼは農民たちと一緒にそれを取り除き、傷んだ石積みを補修し、流れを整えた。昨日の視察で確認した石灰も、土壌の改良のために畑に混ぜ込んだ。
昼を過ぎた頃には、エリゼのドレスの裾は泥だらけになっていた。
「奥様を見たら、リーナさんが卒倒しますよ」と農民の若者が笑った。
「そうかもしれません」
エリゼも笑った。
夕方近くなって、作業の区切りがついた。
マルタが選んでくれた一区画——城から一番近い、小麦を植えるための畑。水路が整い、石灰が混ざった土が、夕陽の中で静かに待っていた。
エリゼは畑の端に跪いた。
両手を土に当てる。土の冷たさと、その奥にある静かな生命の気配を感じた。
ゆっくりと、魔力を流し始めた。
昨日の視察のときとは違う。今回はもっと丁寧に、もっと深く。土の層に沿って魔力を送り込むように、時間をかけて。
指の先から光の糸が伸びて、地面に染み込んでいく。
はじめは何も起きなかった。
農民たちが固唾を呑んで見ていた。マルタが胸の前で手を組んでいた。
それから——土がわずかに動いた。
ほんのかすかな動きだった。表面が盛り上がり、割れて、緑が顔を出した。一つ、二つ、十、三十——草の芽が、波が広がるように畑全体へと広がっていった。
夕暮れの光の中で、一面が淡い緑に染まった。
ああ、これだ。
エリゼは思った。
封じていた間も、ずっと内側に眠っていたものが、今ここで目を覚ましている。王都では「はしたない」と言われたこの力が、ここでは誰かの役に立てている。
これが私だ。
これが、ずっとしまい込んでいた、私自身だ。
マルタが泣いていた。
声を押し殺して、皺だらけの両手で顔を覆っていた。隣の若い農民も目を赤くしていた。
「こんなに……こんなに育つのは、何年ぶりだろう」
マルタが絞り出すように言った。
「十年は経つかねえ。ちゃんとした芽が出たのは」
エリゼは両手を土の上に置いたまま、その言葉を聞いた。
胸の中に、じわりと何かが満ちた。
少し離れた場所に、二つの影があった。
レイナルトとゲルハルトが、畑の外から見ていた。
ゲルハルトは口に手を当てて、何か言葉を探しているようだった。
レイナルトは無表情だった。しかし——エリゼが立ち上がって振り返ったとき、彼の目が、朝とは違っていた。硬い壁の向こうに、何か柔らかいものが見えた気がした。
それが何なのか、エリゼにはまだわからなかった。
エリゼが頭を下げると、レイナルトは黙って頷いた。
「……まあ」
ゲルハルトが、搾り出すように呟いた。
「認めてやる」
農民たちが笑い出した。マルタが「当たり前だ」と言って涙を拭った。
夕陽が、緑の畑を橙色に染めた。




