第1話
春の夜会は、いつも甘い花の香りがする。
白薔薇が咲き乱れる王城の庭園には、貴族たちの笑い声と楽団の調べが満ちていた。絹のドレスが夜風に揺れ、シャンデリアの光が宝石を弾いて瞬く。誰もが美しく、誰もが楽しげで、そしてエリゼ・フォン・アルトワは、その輪の中心に立ちながら、ひどく遠い場所にいるような気がしていた。
婚約者であるアルフォンス第二王子の隣に並ぶのも、もう三年になる。
最初のうちは、それなりに胸が弾んだものだった。黄金の髪と青い目を持つ王子は誰もが羨む美貌の持ち主で、エリゼへの態度も丁寧だった。しかし今夜のアルフォンスは、エリゼの方をほとんど見ていない。
その視線はもっぱら、斜め後ろに控えるもう一人の女性——シャルロット・ミレイユへと向けられていた。
「エリゼ」
アルフォンスが静かに名を呼んだ。
いつもと違う声の質に、エリゼは背筋がわずかに強張るのを感じた。
「殿下」
答えながら、エリゼはすでに悟っていた。この夜が来ることは、半年ほど前から予感していた。いや、もっと早くから、どこかで知っていたのかもしれない。
アルフォンスが庭園の中央へ足を向ける。周囲の貴族たちが、何事かを察して静かに道を空けた。夜会の音楽が遠のいていく。
エリゼはドレスの裾を持ち、静かに続いた。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
アルフォンスが庭園の中央で立ち止まり、振り返った。その背後には、シャルロットがおずおずと立っている。青みがかった薄紫のドレスが夜風に揺れ、彼女の目には涙の膜が張っていた。
「エリゼ・フォン・アルトワとの婚約を、本日をもって解消する」
声は穏やかだが、はっきりしていた。
会場が静まり返る。
「彼女は侯爵令嬢としての品格を欠き、冷たく高慢で、令嬢としての情けを持たない。婚約者として、私の傍らに立つに値しない」
言葉がひとつひとつ、石畳に落ちていくようだった。
エリゼは動かなかった。
胸の中に何かが満ちてくるのを感じたが、それは予想していたような怒りでも、悲しみでもなかった。もっと静かで、乾いた何か——疲弊、とでも呼ぶべきものだった。
ああ、やはりそうなったか。
ただそれだけを思った。
一年前のことを思い出す。
シャルロットが隣国の使節との晩餐で、うっかり国交に関わる失言をしたとき。エリゼが即座に話題を転換し、さりげなく場を収めた。
半年前、アルフォンスが王妃との関係を悪化させたとき。エリゼが何度も王妃の元を訪れ、時間をかけて取り成した。
三ヶ月前、外交文書の清書が間に合わないとアルフォンスが焦ったとき。エリゼが一晩かけて代わりに仕上げた。
誰にも言わなかった。言う必要がないと思っていたし、それが婚約者の務めだと思っていた。
けれど今夜、その全てが「冷たく高慢な令嬢」という一言で塗り潰された。
会場のどこかで、誰かが息を飲む音がした。
エリゼはゆっくりと、アルフォンスを見た。彼は少し気まずそうに目を逸らした。シャルロットは「ごめんなさい」と口の形だけ動かして、本物の涙を一粒こぼした。
エリゼは何も言わなかった。
言葉は、もう必要ない気がした。
ただ膝を折り、深く礼をする。婚約者としての最後の礼儀。それから顔を上げたとき、エリゼの表情は穏やかだった。怒りも涙も、そこにはなかった。
「ご意向、承りました」
それだけ言って、エリゼは踵を返した。
背後で、何人かがざわめく気配がした。
王城の庭園を横切り、大広間を抜け、正面の廊下を進む。誰かが声をかけようとして、やめる気配が続いた。エリゼは前だけを見て歩き続けた。
白薔薇の香りが、まだどこかに漂っていた。
今まで美しいと思っていた、その香りが、この夜を境に少し違う匂いになった気がした。
馬車に乗り込むまで、エリゼは一度も立ち止まらなかった。




