この気持ちに名前はまだない
翌朝、教室に入ったとき。
背中にびりびりと何かを感じた。
ああ、ってすぐにわかった。
昨日の“壁ドン”と“キス”のこと、誰かに見られてた。
――もしくは、ばれてる。
「おはよー、まひる〜」
上条――うえちゃんが、教室の奥から手を振ってきた。
笑顔。だけど目がぜったい笑ってない。
(絶対知ってる顔してる……!)
重い足取りで自席に着いた瞬間、机の下からスマホが押し出されてきた。
《うえちゃん:愛ちゃん攻めすぎワロタ》
「っ……」
「まひる、顔真っ赤だけど大丈夫?発熱?それとも恋の病?」
「やめて……!」
隣でケラケラ笑ううえちゃんのカーディガンの袖を軽くつかんで、
私は机に突っ伏した。
「昨日のこと、相沢さんには言わないでよ」
「えー、なんで?」
「だって……私、まだ自分でもよくわかってないし……」
「でもさ、昨日のまひる。すっごい顔してたよ?」
「っ!!」
耳まで熱くなる。
なにも言い返せないのが悔しい。
「じゃ、今日はほどほどにね? 人前だし」
「だからそういうの言うなって……!」
⸻
昼休み。
いつも通りのお弁当。
けれど、どこかそわそわして、箸が進まなかった。
教室のあちこちで、ちらちらと感じる視線。
聞こえないふりをしていても、小さな噂は耳に届く。
「白石さんと、相沢さんってさ……」
「なんか、最近距離近くない?」
「この前、廊下でちょっと……ねぇ」
私は下を向いて、箸の先で卵焼きを崩した。
(あれって、やっぱり“そういう風に見える”んだ)
心臓がどくどくしている。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
どこかで、もう後戻りできないことを、自分でもわかっていた。
⸻
放課後。
下校途中、昇降口で相沢さんが待っていた。
制服の袖を指先できゅっと引っ張られる。
「帰ろ」
たったそれだけ。
でも、その声が妙に甘くて、
私は何も言えずに頷いた。
昇降口を出ると、春の風がふわっと吹いた。
並んで歩く。
手はつながない。会話もない。
けれど、沈黙が嫌じゃない。
それだけで、胸の奥がふわふわした。
「ねぇ、白石さん」
「……なに?」
「名前で、呼んでいい?」
私は立ち止まった。
顔を上げると、夕陽の中に彼女の輪郭があって、
赤茶の髪がふわりと揺れていた。
「……まひる、って」
「……」
少しだけ、喉が震えた。
でも、それを誤魔化すように私は答えた。
「……いいよ。じゃあ、私も」
「うん?」
「……愛ちゃん、って」
そのとき、彼女がちょっと目を見開いて、
そして少しだけうれしそうに微笑んだ。
その笑顔が、胸の奥に灯る。
たぶん、まだ名前のないこの気持ちに、
私は少しずつ近づいているのだと思う。




