もう見ているだけじゃいられない
教室の空気が、少しだけ変わった気がした。
久遠さんの気配が消えてから、数日。
私は、ようやく“日常”に戻りつつあった。
でも、何かが――ほんの少しだけ、違う。
教室で視線が合う回数が増えた。
それは、前の席に座る相沢さんと。
目が合うたびに、彼女はすぐに逸らす。
けれど、その動きは以前のように冷たくない。
むしろ、気づかれたことに少し照れているような、不器用さがあった。
私はそれに、気づいてしまった。
気づいた自分にも、少しだけ戸惑っていた。
⸻
放課後。
教室にひとり残っていたとき、
相沢さんが、私の隣に来た。
「まひる、ちょっといい?」
呼び方に、ほんの少しだけ違和感を覚える。
でも、それを言い出す間もなく、彼女は一歩近づいてきた。
「……何?」
「ちょっと、動かないで」
「え?」
気づいた時には、背中に硬い感触。
壁。
そのすぐ前に、相沢さんが立っていた。
右手は私の肩の横、壁に添えられている。
目の前に、彼女の赤茶色の瞳。
「……な、なにこれ……」
「壁ドンってやつ。雰囲気だけ、ね」
「や、やめてよ……!」
「じゃあ、やめる?」
「……やめなくていいけど」
それを聞いて、彼女の目がふっと和らいだ。
「ずっと、見てるだけだったから。
もう、やめようと思って」
「え……?」
「見てるだけじゃ、何も伝わらないから。
まひるが誰かを見てたとき、私、ずっとそれを見てた。
正直、苦しかった。
でも、それでも、目を逸らせなかった」
「……」
「だから今度は、こっちから見る。ちゃんと伝える」
彼女の言葉が、息のすぐ近くで届く。
その熱に、胸がどきどきしている。
「まひるは、私のことどう思ってる?」
その問いに、答えが出なかった。
言葉が詰まった。
けど――
「嫌いじゃない」
「それ、どういう意味?」
「……わかんない。でも、嫌じゃない」
相沢さんが、少しだけ顔を近づけた。
私は反射的に目を閉じて――
唇に、柔らかなものがふれた。
ほんの一瞬。
でも、確かに届いたキス。
「……人前じゃないから、オッケーでしょ?」
にやりと笑うその顔は、少しずるくて、でもとても綺麗だった。
私は、それ以上何も言えなかった。
ただ、胸の鼓動の速さだけが、答えのように伝わっていた。
◇◇◇
その夜。
ベッドの上で、私はまた天井を見つめていた。
久遠さんのことを思い出しても、もう胸は痛くならない。
代わりに、今日のあの瞬間が何度もリフレインする。
壁。
近い距離。
唇にふれた、やわらかい感触。
(……なにこれ)
布団に顔を埋めて、もぞもぞと転がった。
(私、相沢さんに――キス、された)
考えるだけで、顔が熱くなる。
わけがわからないまま、私は枕に頭を押しつけた。




