おかしな婚約破棄と精霊王
「ティラミシア、貴様のような女は皇后に相応しくない。婚約関係を破棄すると、精霊様に宣言する」
カサリ、と音を立ててクッキーの入った袋が落ちた。第一皇子にはたき落とされたそれは衝撃でバラバラに砕けてしまっており、もう誰かへ渡すことはできない。
「陛下やバウマフィン伯爵の承諾は既に得てある。残る人生は好きにしろ」
「ま、待ってくださいませ! オーガスト様!」
伸ばされたティラミシアの、ラミスの手が空を掴む。遠ざかっていく背中を彼女はただ見つめることしかできない。
追いかけようにも、つい先ほど向けられた氷のような青色の視線が足を凍てつかせる。彼の美しい金色の髪は変わらない光を見せているはずなのに、それすら冷たく映った。
「舞踏会の場であのようなこと……。哀れなティラミシア様」
「ええ、殿下もお人が悪い。でも、ティラミシア様はその、たしかに変わっていらしましたから……」
「そう、ですわね。伯爵家の令嬢でありながら、お菓子作りなんてものを好いておられますし。そう考えると、皇后に相応しいとは思えなくなってしまいますね……」
周囲の囁きはラミスの耳には届かない。しかしその仕草で、表情で、彼女らが何を言っているのかくらいは分かってしまう。
同情に見せかけた嘲り。嘲笑。どうして貴族というのは、一度体面を保つ言葉を挟むのか。
ラピスは床に落ちた袋を拾い、無言のまま大広間を後にする。その桃色の瞳には僅かばかりの陰が差していて、普段なら弾むように揺れる金色の長髪も今ばかりは元気が無かった。
(美味しいですのに……)
手のひらに収めた小袋は質の良い青色のリボンで留められている。少しばかり形が崩れているのは、ラミスがその手で自ら結んだからだ。
このクッキーは、彼女が婚約者であるオーガストのために手作りしたものだった。
その関係も過去形となってしまったのだが、どうせ元々、親同士が決めた結婚だ。彼女に親愛以上の情は無く、貴族としての責務と、好きに趣味であるお菓子作りをさせてくれた父、バウマフィン伯爵のためになると知っていたことだけがオーガストとの関係に積極的になっていた理由だった。
唯一あった個人的な下心で言えば、帝城の厨房でより珍しい食材を使ったお菓子が作れるかもしれないということだけ。お菓子さえ作れるなら何でもいい。
だから、婚約を破棄されたことじたいはあまり気にしていなかった。
「……やっぱり、美味しいですわね」
皇子の瞳と同じ色のリボンをほどき、四分の一ほどのカケラになってしまったクッキーを口へと運ぶ。
これほど美味しいのに、どうしてオーガストは受け取ってくれないのか。ラミスはそれが不思議で、悲しかった。
(このまま帰って、気分転換にガトーショコラでも作りましょうか……?)
父も婚約の破談を知っているのなら、きっと外で馬車が待っているはずだ。
一人帝城の門をくぐると、やはりそこにはバウマフィン伯爵家の紋が入った箱馬車が停まっていた。夜闇のその窓には伯爵の美麗な横顔も浮かんでいる。
ラミスが馬車に乗り込んで対面の座席に座るまでの間、伯爵は瞑目したまま口を閉ざしていた。
馬のいななきが聞こえて、細かな振動がラミスの金髪を揺らす。それでも伯爵は何も言わないまま動かない。ラミスも、少しばかり不安になってしまう。
「その、お父様、申し訳ありません。殿下との婚約を、破棄されてしまって……」
恐る恐る、口を開いてみる。そこでようやく、伯爵は瞼を開いた。ラミスに似た真っ赤な瞳が姿を表して、静かに娘を見据える。
「ティラミシアよ」
愛称以外で直接呼ばれたのは、いつ以来だろうか。
「今回の件、私は、心の底から残念でならない。お前のくだらない趣味のせいで王家との繋がりが途絶え、我が家は恥を晒すこととなった」
感情を感じさせない声だ。燃えるような赤の瞳に熱は見えず、無能な貴族の話をする時と同じ目が娘であるはずのラミスに向けられている。
「申し訳、ございません……」
これなら怒鳴られた方が幾分ましだったのではないだろうか。未だ十六年ほどしか生きていない彼女にとって、父から向けられるそれは受け流せるようなものではない。
「お前は我が家の汚点だ。野に放り出さない慈悲に感謝するのだな」
ラミスの顔から途端に色が失せる。今、父がその言葉を口にする意味を、彼女が察せない筈がない。
弾かれるようにして窓の外へ視線を向けると、明らかに屋敷への帰路とは違う道にいる。歩く人々も見慣れない、着古したような服ばかり着ており、時々明かりに映る肌は薄汚れていた。
「残りの生は教会で、ラミスとして、精霊様に祈りを捧げながら暮らすことだ」
それはつまり、二度とティラミシア・バウマフィンの名を名乗ってはならないということ。いや、そんなことはどうだっていい。
そんなことよりも、教会に入ってしまったら、お菓子なんて作れなくなる。
(お菓子を作れないなんて、絶対にイヤ!)
お菓子作りには高価な食材を山のように使うのだ。小麦やバターは平民でも比較的楽に手に入るが、砂糖や一部の果実などはそうもいかない。一度作るにも平民の数年分の稼ぎが必要だ。燃料代もバカにはならないだろう。
お金の問題だけでもない。伯爵家の人脈があってようやく手に入れられていたものもあった。
だからラミスは父に感謝していたし、全く好きになれないオーガストとの関係を深めることにも積極的だった。恩返しのつもりだった。
「ではな」
馬車の揺れが止まり、扉が開かれた。その先には月明かりに照らされた教会が見える。服は、餞別のつもりなのだろうか。半ば放心したラミスが馬車を降りても何かを言われることはなく、馬が歩き出す。
残されたのは、舞踏会のために着飾った元伯爵令嬢が一人と、砕けたクッキーの袋が一つだけ。
(慈悲って、それも体面のためでしょうに……)
けっきょくは、父バウマフィン伯爵も貴族なのだ。
どれほどそうしていただろうか。いつの間にか空には雲がかかっていて、彼女を避けるように通り過ぎる人の顔も見えない。
(もう、生きてる意味、あるのかしら……)
大貴族の娘として生きてきたラミスにとって、お菓子作りが唯一、彼女を彼女たらしめていたもので、全てだった。
このまま真っ直ぐ歩いて教会の扉をくぐったなら、きっと出迎えの用意を済ませてあるのだろう。その場にいる者たちがラミスにどのような視線を向けるのかは分からない。歓迎なのか、侮蔑なのか、憐憫なのか。
ラミスにはどうでも良いことだ。些事でしかない。
教会のアプローチを渡り、玄関を通り過ぎて、裏の庭へ回る。初めて来た場所ではあったが、精霊を信仰する教会は大抵同じ作りだ。真っ暗で何も見えないにも拘らず、不思議と恐怖は無かった。
庭木の隙間を縫いながら奥まで進むと池がある。精霊の世界に繋がると言われる場所で、教会にはほとんど必ず作られているものだ。その前でラミスは立ち止まって、ぼんやりと、湛えられた闇を見つめる。
(ここに飛び込めば、もう終わりにできる……)
役割を演じる人生を。
伯爵令嬢という役割が終わっても、次は精霊という神の下僕の役割につくだけ。唯一違うのは、そこにお菓子作りという彩りがないこと。
悩む必要は無かった。ラミスの足は、まるでそこに大地があると思っているかのように、自然と前へ踏み出す。直後に感じた冷たさは一瞬で彼女の全身を包み、そして抱きしめた。
ブクブクと気泡の弾ける音が聞こえた後は、もう何も見えず、何も聞こえない、闇の中。水を吸ったドレスが凍てつく水と共に彼女を抱擁して、底へ底へと誘う。
(もし、生まれ変われるのなら、次はなんの気兼ねもなくお菓子を作れる立場に……)
「やっと、来てくれた」
光が差した。月明かりだろうか。それとも、声の主の持つ明かりだろうか。
(何でもいいか。……いえ、どうして、声が聞こえたの?)
水の中で聞こえる筈がないのに。
光が揺らめいて月が飛び込んできた。ぼやけた視界の中で気泡が人型となり、ラミスを捉える。
僅かな浮遊感があって、気がつくと、光り輝く花園にいた。
「ケホっコホっ……。どこ……?」
「ここはサルカラの園。これから君が住む、精霊の楽園だよ」
答えたのは、凍える彼女を抱き上げた誰かだ。その柔らかな男声に釣られて顔を戻すと、そこには、神々しさすら感じる、目も眩むような美貌があった。
覗き込んでくるブルーベリー色の瞳に、涼しげな目元。サラサラとした銀髪は少し長めで、よく磨かれた銀食器のような艶がある。浮かんだ微笑みは生クリームのように甘くて、優しげだ。
オーガストも第一皇子に相応しい恵まれた容姿だったが、目の前の彼に比べたら霞んでしまうだろう。それほどの美男子がそこにいた。
「サル、カラ? 私が住む……?」
「まぁ、混乱するのも無理はない。一旦宮殿に行こう。僕のことは、そこで教えてあげる」
拒否することはできない。両腕で横向きに抱えられているし、まだ息も整い切っていない。さらにドレスが水浸しで重いのだから、逃げる選択肢はそもそもないのだろう。
(それにしても、この方も、池に飛び込んだんですわよね?)
その割には髪が一切濡れていないように見える。身体は、自身がびしょ濡れなせいで分からない。
しかしその疑問は、次の瞬間に吹き飛んだ。
「しっかり捕まって」
「えっ、えぇえぇえぇえ……!」
青年がラミスを抱えたまま宙に浮いた。七色の花畑はみるみる離れていって、もう虹の絨毯にしか見えない。
ラミスは無意識に青年にしがみつく自分に気がついたが、はしたないと思ってもその手を離すことはできない。
「大丈夫。絶対に離すことはないから」
まだ名前すら教えてもらっていないのに、信じられるわけがない。少なくともいつものラミスならそうだ。
その筈なのに、どうしてか青年の言葉は信じたくなった。
恐る恐るしがみつく腕の力を弱め、前を向く。そこには、黄金の空が広がっていた。
「凄い……」
幼い頃に読み聞かせてもらった御伽話の世界のようだ。
桃色の瞳に映った雲は虹色の綿菓子のようで、花々の絨毯はどこまでも続いている。
向かう先に見えるのはガラスの宮殿だろうか。飴細工のように美しくて儚げなそれは、しかし何ものよりも強い存在感を放っていた。
青年はその宮殿のバルコニーに降り立つと、ゆっくり、優しくラミスを下ろす。彼女の髪も服も、いつの間にかすっかり乾いていたが、首を傾げる余裕はない。
「おかえりなさいませ、陛下」
「うん、ただいま」
静かに近づいてきて礼をする老紳士。彼の言葉で、ラミスは記憶の奥底にあったものを思い出した。
声を上げなかったのは賞賛されてもいいだろう。何せ、すぐ横にいる彼の顔は、大抵の神殿に飾られる絵にそっくりだったのだから。
「精霊王、様……」
そういえば昔、人間の世界に降りたことがあったっけ、と彼は目を細める。
「そう。僕は精霊の王、エンリケ。よろしくね、ラミス」
ラミスは口をパクパクと意味もなく動かすことしかできない。
どうしてそんな存在が自分を助けたのか、抱えて飛んでいたのか。
わけが分からなくて、手に持ったままだったクッキーの袋に指を入れる。老紳士の眉が一瞬動いたが、一つ頷くばかりで何も言われない。
「あ……」
しかし指先に触れたのは硬いクッキーではなくて、柔らかく湿った何かだった。よく考えなくても、池に飛び込んだのだから当然だ。
「貸してごらん」
「は、はい」
言われるがままに渡してから、慌てる。陛下と呼ばれるような相手に何を渡しているのかと。しかも、国を挙げて信仰しているような、神に等しい存在の王だ。そもそも自分はどうして彼の御前でクッキーを食べようとしていたのか。
いくらラミスでも、そこまでの不敬、普段ならするはずがない。
「し、た、大変失礼いたしましたっ!」
「ふふ、大丈夫だよ。これでよし。一つ食べて確かめるといい」
「……はい」
実質これは命令なのだから、とラミスは返してもらった袋から一欠片を取り出す。触った感触は水に濡れたものではなくて、硬い。
何をしたのかは分からないが、相手は精霊の王だ。考えても仕方ない。
エンリケや老紳士をちらちら見ながら、口に入れる。
(美味しい……)
たしかに、彼女に覚えのある味だ。
「僕も一つもらっていいかい?」
「はい……じゃなくて、えっと、砕けちゃってますし!」
「知ってる。君のことは、ずっと見ていたからね」
ますます意味が分からなかった。意味が分からないままに、袋を差し出してしまう。
エンリケはニコリと笑みを浮かべると、クッキーの欠片を一つ取り出して、じっとブルーベリーの視線を向ける。
「あの、やっぱり、割れたクッキーだなんて……」
「ふふ」
クッキーを口へ運んだエンリケは目を瞑り、口の端を緩める。ラミスには、彼がたかだかクッキーをめったに味わえない珍味かのようにじっくり味わっているように見えた。
「うん、美味しいね、凄く」
胸が高く鳴った。口角が高くなるのを感じる。
思い出したのは彼女がまだ幼い頃、彼女の初めて作ったお菓子を食べた使用人や両親の言葉。
あの時はバウマフィン伯爵も、美味しいと綻んだ顔を見せてくれた。
(ああ、そうでしたわ。こうして喜んでもらえるのが嬉しくて、お菓子作りにはまったんでしたわ……)
すっかり忘れていた。いつしか、お菓子を作ることだけが目的になっていた。
久しぶりに満たされた気がした。
「昔、君は自分の作ったクッキーを捧げてくれたね。初めて食べたそれが忘れられなくて、君に興味を持ったんだ」
ラミスにとっては、そんなこともあったという程度の話だった。
「あれって、ちゃんと届いていたんですのね……」
「全部ではないけどね」
頬の緩むのを自覚した。長らく感じていなかった感情だ。
もっと作ったら、また食べてもらえるのだろうか。喜んでもらえるのだろうか。
そんな夢想をした。
「……その、私を連れてきたのは、またお菓子を作ってほしかったからですか?」
期待の滲む声だと、ラミス自身感じた。
「それもあるね」
心が踊って、口元が奇妙に歪んだ。慌ててクッキーの袋で隠したが、老紳士には見られてしまっただろうか。
「それともう一つ」
もう一つ? と首を傾げる。
「僕の、妻になってほしい」
「ほぇぁっ⁉︎」
ラミスは顔を苺のように染めて袋を口に押し付けた。揶揄われているのだろうか、とエンリケの顔を伺えば、ブルーベリー色の瞳が真っ直ぐ彼女を見つめてくる。
老紳士を見ても、当然の如く頷かれた。
では夢なのだろうか。死ぬ間際に見る幻なのだろうか。そっと頬をつねってみる。
「痛い……」
「もちろん断ってもかまわない。その場合でもこの世界で暮らしていいし、お菓子作りに不自由しないよう手配する」
どうしてそうまでしてくれるのか、ラミスには分からない。
ただ、エンリケが真剣なのは理解できた。
(受け入れても、いいのかもしれない)
エンリケの笑みは、優しい。オーガストと違って上部ばかりには感じない。
役割も、今のところは求められていない気がする。
何より、お菓子を美味しそうに食べてくれる。
ラミスが受け入れるには十分な理由だった。
(でも、一つだけ……)
「どうして、私なんですの……?」
もっとお菓子作りの上手い人間だっているはずだ。人間社会での階級なんて関係ないはずだし、ラミスでなくてもいいはずだった。
「言っただろう。ずっと見ていたって。僕は、君の心の美しさに惹かれたんだ。僕たちは物に込められた人の心を感じ取れるからね」
ラミスは静かに目を瞑る。心は、すぐに決まった。
「よろしくお願い、いたします。エンリケ様」
「ああ、うん、よろしくね、ラミス」
ラミスのその花のような笑みは、幼い頃以来浮かべたことのない、心からの笑みだった。
それからの日々は、人間の貴族だったならきっと手に入らなかっただろう、ケーキのような日々だった。
毎日好きな時にお菓子を作って、エンリケや仲良くなった精霊たちに持っていく。そうすると皆、嬉しそうな笑みを浮かべ、美味しそうに食べてくれる。
人間の世界にいた頃のことがどうでも良くなってしまうくらいには、幸せな日々だった。
「今度の人間たちの祭典で君のことを紹介しようと思ってるんだけど、どうかな?」
「それは、私がいた国の?」
「うん、そこ」
エンリケの顔がいたずらっぽく歪んで、ラミスも倣らう。
「ええ、いいかもしれませんわね」
だって、そこにはきっと、オーガスト皇子やバウマフィン伯爵もいるのだろうから。
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