アルコール
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
「ちょっとトイレ行ってくる。もう結構いろいろ頼んじゃってるけど、坂辺も欲しいのあったら適当に頼んでて。テーブルにあるものも好きに食べちゃっていいよ」
岡崎は早口にそう言って通路側に座っていたおれを退かして席を立ち、いそいそと店の奥へ行ってしまった。どうやら、ずっと尿意を我慢していたらしい。おれが到着するまで岡崎は目印として待機しており、席を立つことができなかったのだろう。
おれは、向かいに座る本間さんとふたり、なんだか宙ぶらりんのままに取り残された。
居酒屋の喧噪が耳の表面を通り過ぎる。本間さんは、もう残り少ないビールジョッキを片手に、熱心にメニューを見ている。こちらを見ようともしない。というか、時折ジョッキを口に運ぶ以外は微動だにしない。とにかく、目線はメニューに釘付けだ。もしかしたら、本間さんも人見知りなのかもしれない。そう思った。
岡崎に誘われて居酒屋に出向くと、本間さんがいた。てっきり、前みたいにふたりで飲むものだと思い込んでいたので、少し驚いた。そして、反射的に身構えた。人見知りが発動した瞬間だ。それに、本間さんだ。目の前に本間さんがいるのだ。いつも以上に緊張してしまう。
「こんばんは」
本間さんは、いちごのようにあまずっぱい声で、しかし、無表情に言った。何度聴いてもうっとりするような美声。第一印象よりも少しシャープな感じの顔立ちは、うたっている時とは違い、固くこわばっているようにも見える。
「こんばんは」
おれも挨拶を返す。人見知りが発動してしまったため、きっとおれの表情も固い。
「はじめまして」
そう言ってしまってから、おれは本間さんを一方的に見知っているのではじめましての気はしないが、本間さんはおれのことを知らないだろうし、おれも会話をするのは初めてなので、「はじめまして」で間違いはないはずだ、などと、うだうだ考える。そんな結構どうでもいいことをいつもいつも考えているものだから、やはり妙な沈黙が下りる。この沈黙もいつものことではあるのだが、一向に慣れない。気まずい。
岡崎に促されて席に座る。他にもなにか言わないと、と思い、口を開きかけた時、
「坂辺は小学校ん時の同級生なんだ」
岡崎がにこにこと言った。
「土曜日、駅んとこの広場でストリートやったじゃん。あん時、偶然再会したんだよ」
「ああ、あん時」
本間さんは、納得したようにうなずいた。
そうだ、あの時のことを話そう。おれは、きゅっと拳に力を入れる。
あの時、歌を聴きました、とか、すごくよかったです感動しました、とか、ありきたりの言葉だが、いろいろと言いたいことはあった。しかし、心の深層で躊躇っているのかなんなのか、声が全然出てくれない。酸欠の金魚のように、口をぱくぱくさせていると、岡崎の「ちょっとトイレ」だ。そうなるともう完全にタイミングを失ってしまい、おれは結局口を閉じる。残念なことに、いつもこんな感じだ。
とりあえず、行動を次に移す。おれは、呼び鈴を強く押し、飛んできた店員にビールをふたつ注文した。岡崎のジョッキには、まだ半分ほどビールが残っていたので、本間さんのぶんとおれのぶんだ。同時に、岡崎がトイレから戻ってくる。「なんか頼んだ?」と聞くので、「いま、ビールを頼んだ」と答えながら、おれは立ち上がって、岡崎を奥の席へ通してやる。
「ありがとう」
やはり、岡崎がいるといないとでは、空気が違う。岡崎がいると、空気が軽くなる。
正直、ほっとした。友だちの友だちというのは、その友だちがいて初めて成り立つ関係なのだ。
ほどなくして届いたビールをひとつ、本間さんに差し出すと、
「あ。これ俺のぶんだったの? ありがとう」
と遠慮がちに微笑んでくれた。なんだかわからないけれど、やたらとうれしくなった。
発動してしまった人見知りをストップさせるには、アルコールしかない。酔うと気が大きくなるのか、人見知りも緩和されるのだ。
ぐいぐいとビールを飲みながら、おれは本間さんを盗み見る。本間さんも、ぐいぐいとジョッキをあおっていた。その姿を見て、確信する。本間さんも人見知りだ。絶対。
「本間さんて、何歳なんですか?」
アルコールがほどよく入り、いい感じに気が大きくなったところで尋ねてみる。
「坂辺くん、悠人の同級生だって言ってたよな?」
おれはうなずいた。隣で岡崎がからあげを食べながら、「そうだよー」とうなずいている。本間さんも、アルコールが入って気が大きくなったのか言葉が砕けてきている。悠人というのが一瞬誰のことだかわからなかったが、すぐに岡崎の下の名だと思い出す。岡崎悠人。確か、フルネームはそんな感じだった。
「おまえ、悠人っていうんだっけ?」
「そうだよ。なんだ、坂辺もオレの名前おぼえてないんじゃん」
岡崎が、おぼえてなかったのオレだけじゃないじゃん、というふうに言うので、
「おまえは、おれの下の名前どころか苗字すら覚えてなかったじゃないか」
と言い返す。
「すぐ思い出したじゃん」
そんなやりとりをしながらも、おれは、本間さんのその声で「坂辺くん」なんて呼ばれてしまったことに、不覚にも照れていた。ただ名前を呼ばれただけなのに、なにをそんなに照れることがあるのか、自分でもわけがわからないが、何故か頬がじわじわと熱くなってくる。
「小学校の時の同級生です。岡崎とは五年生の時、いっしょにベルマーク委員をやってました」
おれは謎の照れと微かな赤面を気取られないように、努めて冷静な態度を心がけた。しかし、
「だったら、同い年だ」
本間さんのさらりとした言葉に、冷静な態度はほどけてしまう。「え」と間の抜けた声が出てしまう。
「俺と坂辺くんはタメだっつってんの。俺は、悠人の高校の時の同級生だ」
本間さんはそんなおれの様子に首を傾げながら、噛んで含めるようにそう言った。隣で岡崎がたこわさを食べながら、「そうだよー」とうなずいている。
なんだ、本間さんは同い年なのか。岡崎がさん付けで呼んでいるので、てっきり年上なのだと思っていた。
「あ。そうなの」
気が抜けたように返事をすると、本間さんは少し笑った。
「坂辺くん、わっかりやすいな」
「え」
再び、間の抜けた声を発してしまう。
「俺がタメだってわかった途端、タメ口になった」
ああ、と納得する。
「長いものにだけ巻かれるタイプなんだ」
おれが言うと、本間さんはまた少し笑った。
「俺は短いのか」
たぶん、なにも考えずに言った、ただの反対言葉。しかし、本間さんの声で紡がれた「俺は短いのか」は、とんでもなく素敵な言葉に聞こえた。この素敵な言葉を、おれもどこかで使おう、と思ったが、どこで使ったらいいのかわからない。自分が短いシチュエーションなんてあるのだろうか。
「おまえ、なんで『本間さん』て呼んでんの?」
岡崎に話を振ると、
「前は下の名前で呼んでたんだけど、呼ぶなって言うから。本間さん、自分の名前好きじゃないんだって」
アルコールで弛緩した表情で、へらへらと笑いながらそんなことを言う。本間さんを見ると、目をそらされた。下の名前を教えてくれる気はないらしい。
おれは、四杯目のジョッキをぐいぐいと干すと、
「教えて」
と、満足に思考のできなくなった、ふわふわの脳みそのままに訴える。
「本間さんの下の名前、教えて」
「坂辺、しっかりしてる雰囲気なのに、飲むとキャラ変わるね」
岡崎がおれの様子を見てけらけらと笑っている。本間さんは、しぶしぶというふうに口を開いた。
「『ゆかり』だよ。縁結びの『縁』て書いて、ゆかり」
それを聞いた途端、脳みそのふわふわがどこかへ吹っ飛んだような気がした。天地が半回転したような感じで、目の前がぐらっと揺れる。
その名前には、聞き覚えがあった。
「女みたいな名前だろ。いい年して未だに気にしてるんだ」
そう言って、本間さんは困ったように笑った。おれは首を振る。
「いい名前だと思う」
本間さんは、困ったような表情のままおれを見た。
「おれと本間さんが、いまここでこうして会話をしてるのも、言ってみればなにかの縁だし、岡崎とおれが小学校で出会って、そんで先日再会したのも縁だ。もちろん、本間さんと岡崎が出会ったのも縁。だから、いい名前だと思う」
そう言って、真顔で本間さんを見返すと、本間さんはアルコールのせいでうっすらと赤くなった頬をこわばらせ、目をそらした。そして、口のなかでごにょごにょとなにか呟いたようだった。怒らせたかな、と不安になる。
「本間さん、照れてる!」
岡崎が大口を開けて笑うので、ああ、これは照れてるのか、と安心した。
「ありがとう」
本間さんは、小さく言った。照れ隠しなのかなんなのか、「ていうか、ベルマーク委員てなんだよ」という言葉を添えて。
岡崎に再会したあの夜、同時に、おれは本間さんに出会った。
通勤に使う電車の駅の近くに、公園とはいかないまでも、小さな広場がある。そこは、ストリートミュージシャンたちのたまり場になっており、毎晩のように誰かがギターをかき鳴らしながら歌をうたっていた。週末になると、その人数はどっと増える。そういう時も、邪魔にならない程度の間隔を取りながら、彼らは各々うたっていた。
その日は土曜日だったので、広場は歌い手とお客さんとでこちゃこちゃと地味に混雑していた。
いつものように広場の前を通り過ぎようとしたところで、ミュージシャンの中に見たことのあるような顔を発見した。
誰だっただろうか、と考える。取引先のひとか。いや、そんなわけはない。たぶん、同級生とかそんな感じだ。どこかで見たことのある、懐かしい顔。
おれは、大学、高校、中学、と記憶を遡った。小学校の頃の記憶を探っていた時に、その顔に思いあたった。岡崎だ。五年生の時にベルマーク委員でいっしょだった、岡崎。あれ、岡本だったか? 岡島? いや、やっぱり岡崎。
しかし、岡崎には小学校卒業以来会っていないので、本人かどうかはかなり疑わしい。ただ似ているだけの別人かもしれない。約十三年のブランクは大きいだろう。
岡崎らしき人物は、うたい終えると、ギターを傍らのケースに仕舞い、観客たちの背後に回った。それに立ち代わり、別のミュージシャンがスタンドマイクを調節し始める。どうやら、数人のミュージシャンが交代で何曲かずつうたっているらしい。
声をかけてみようか、と思ったが、本当に岡崎かどうかすら疑わしいのに声をかける勇気はない。もし人違いだったら、と思うと躊躇われた。しかし、どうすれば彼が岡崎かそうでないのか確認できるのだろう。
横を見ると、学生らしき女の子が立っている。マイクの調節を終え、軽くギターのチューニングをしているミュージシャンに熱っぽい視線を注いでいた。
この子は、さっきの彼の名前を知っているのではないか、と、ふと思う。聞いてみようか。だが、人見知りが知らないひとに声をかけようと思えば、大変なエネルギーを要する。それでも、先ほどの岡崎らしき人物に声をかけ、彼が岡崎ではなかったとして、すみません人違いでした、というやりとりをするよりも、まずはこの子に尋ねたほうがエネルギーの消耗が少ない気がする。
おれは勇気を振り絞って、女の子に声をかけた。
「すみません。さっきそこでうたってたひと、誰ですか?」
このくらいのことで勇気を振り絞らなくちゃいけないなんて、人見知りという人種はなんとも面倒くさい。自分が情けなくなる瞬間のひとつだ。
「え? えっと、さっきのひとですか?」
場違いなサラリーマン風の男にいきなり声をかけられた女の子は、戸惑いながらも親切に答えてくれた。
「岡崎さんです。岡崎悠人さん。えっと、ストロベリーグリードの」
やっぱり岡崎だった、と心の中で正解を喜びながら、なんだかよくわからない横文字が出てきたことに戸惑う。
「ストロベリー?」
「あ、はい。そういう名前のグループというか、デュオっていうんですか? それなんですけど。あ、いま。いまうたってるのが、岡崎さんの相方さん。本間さん」
女の子は焦ったように視線を歌声のほうに向けた。まるで、一秒でも見逃すとペナルティが課せられそうな雰囲気だ。熱心なファンなのだろう。
本間さんとやらは、いちごみたいにあまずっぱい声で、ゆったりとした曲調の歌をうたっている。
ごくん、と唾を飲み込んだ。ああ、と、ため息にも似た声が漏れる。
まず、聴覚をがっちりと捕らえられた。やわらかく、やさしく、耳をくすぐる美しい歌声。いちごのあまさ、いちごのすっぱさ、いちごのみずみずしさ、それが黄金比で混じり合っているかのような声。なんとも言えない心地よい感覚が脳天から爪先までを支配した。打ち抜かれたのだ。その歌声に。放心したように、うっとりと聴き入る。身体が波打つように、感動の鳥肌が立った。すごい、とシンプルに思った。歌で、こんなに心を掴まれたのは、初めてだ。
本間さん。おれは、この歌声の持ち主の名前を頭に刻みつける。このひとは岡崎の相方なのだという、女の子の言葉を思い出した。
相方。このすごいひとが。岡崎のほうに目をやると、彼は彼で観客たちの後ろで、うっとりとその歌声に耳を傾けているようだった。
一曲目が終わったところで、拍手の波がそこら中に拡がった。
「なんで、いっしょに歌わないんだろ。相方なのに」
ひとりごと同然に呟いた俺の声に、
「いま、ストロベリーグリードは活動休止中なんです」
女の子が、視線を本間さんに向けたままで答えてくれる。
「じゃあ、逆になんでいっしょにストリートやってるんだろ」
「仲はいいみたいなんですよ」
女の子は言う。
「岡崎さんの歌が気に入ったんなら、声かけてみたらどうですか」
「そうだね」
おれはうなずいて、女の子に礼を言った。気に入ったのは岡崎の歌ではなく、本間さんの歌だ。しかし、岡崎に声をかける予定だったことに変わりはないので、おれは観客の間をすり抜けて、岡崎の背後へ回った。
「あの」
声をかけると、岡崎は、にっこりと人懐っこい笑顔で振り向いた。ファンに声をかけられることには慣れているのだろう。その笑顔が、おれの顔を見て何かに気づいた時みたいな無表情になった。
「あーっ、と」
岡崎はおでこに拳をあて、
「小学校の時、ベルマーク委員だった?」
と、おずおずと尋ねてくる。
「ああ」
おれはうなずいた。
「ごめん。覚えてるよ。覚えてるんだ。でも名前がさ」
岡崎は申し訳なさそうにおれを見る。やはり、お互い名前はおぼろげなのだな、と、おれは笑う。「坂辺」と言いかけたところで、
「そうだ! 坂辺。坂辺正樹」
岡崎は明るい声を上げた。
「坂辺、スーツ着てんじゃん。変なの」
そう言って岡崎は、はしゃいだように笑う。
「会社帰りだから。え、てか、変?」
「いや、変ていうか、なんか違和感あって。時間すっ飛ばしたみたいな」
岡崎の言葉に、おれも同意を示す。確かに、「懐かしい」というよりも、「違和感」のほうがしっくりくる。記憶の中では、お互いまだ小学生の姿でいたはずだから。
「土曜日でも会社あんだね」
岡崎が言うので、
「今日はたまたま。普段は休みだ」
おれは答える。
「せっかく再会したんだからさ、ライブおわったら飲みに行こう。もうすぐ片付けるからさ。いい?」
「いいよ」
明日は休みなので、おれは快諾した。
酒が大好きなので、人見知りのくせに、飲みの席には結構出席している。それに、アルコールが入ると親しくないひととでも普通に話せるようになるので、酒さえあれば、他人とのコミュニケーションも苦ではない。飲みの誘いだけは、大歓迎だ。
「あ、そうだ。ほら、歌。あのひとの」
そう言って、岡崎は本間さんのほうを示す。
「本間さんていうんだ。本間さんの歌、聴いてってよ。超イイから」
言われておれは、もちろん、とうなずいた。
本間さんもいっしょに飲めないかな、と、ちらりと思ったが、そんな虫のいい話にはならないだろう。おれは、ゆったりと、本間さんの歌声に身をゆだねた。
その後、ふたりで居酒屋で飲んで、次の店へ行って……と、おれは、あの夜の自分たちの足取りを思い出す。
結局、岡崎が終電を逃したと言うので、まだぎりぎり終電のあったおれの部屋に連れてきたのだ。
岡崎は、ぐでぐでに酔っぱらっていた。ほとんど抱えるようにしないと歩いてくれないくらいだった。
居酒屋での岡崎は、見るからにはしゃいでいた。おれなんかと再会したくらいで、どうしてそんなにはしゃぐことができるのかはわからないが、そういえば小学校の時も、こいつは無駄にテンションが高かったなあ、と思い出す。
岡崎は、思い出話を高速でべらべらと話し、近況をゆっくりぽつぽつと話した。歌をうたっているのだ、と。事務所に所属し、一応プロとして活動しているが、歌だけでは食べていけないので時々バイトもしている。本間さんとふたりでうたっていたが、現在とある事情で活動休止中。活動を再開する意志はあるが、いつになるかはわからない。
そんなことを話しながら、結構なピッチで酒を飲んでいた。しかも、ビールと焼酎とウイスキーのチャンポンだ。これで酔わないはずがない。
おれは、なんとか岡崎を連れて部屋に帰り、そのままワンルームの床に転がした。
「大人になるって、面倒くさいよなあ」
と、ひとりごちる。こういうふうに前後不覚になるくらい酔っぱらいたい背景が、岡崎にも少なからずあるのだろう。おれ自身も、ストレスがふくらむと、時々こんなふうに酔っぱらったりもする。おれは、そういう時、誰かにやさしくしてもらいたい。すごく。
だから、岡崎にもやさしくしてやろう、と思った。
キッチンで水を用意し、岡崎の上半身を支えて慎重に飲ませた。
「大丈夫か、岡崎」
「はあ」
岡崎が大きく息を吐き出して、ぼんやりと目を開いた。
「しんどいか?」
尋ねると、微かにうなずく。
「水、もっと飲めよ」
言うと、やはり微かにうなずいて、おれの差し出したコップをちゃんと自分で持って水を飲んだ。それを見て、大丈夫そうだ、と安心する。
「トイレは、あそこだから」
おれはトイレの場所を岡崎に示す。岡崎の視線がふらふらとそちらに泳ぐのを見て、
「水分出したら、また飲むんだぞ」
と、背中をさすってやる。泳いでいた岡崎の視線が、おれを捕らえた。目が充血している。なにか言いたげに、口が開く。
「どうした?」
岡崎の腕がこちらに伸びておれの首の後ろを、がっちりとホールドした。次の瞬間、キスをされた。しかも、ディープなやつ。思いっきり酒くさい。
岡崎の体重がかけられたおれの身体は、驚くほどすんなりと押し倒された。床で頭を打ち、その痛さに鼻息だけで呻いた。
まじか、こいつ。キス魔だったのか。おれは、内心でため息を吐く。会社の同僚に、そういうやつがひとりいる。おれは被害に遭ったことはないが、飲みの席で何人かが被害に遭っているのをゲラゲラと笑って見ていた。まさか、自分がこんな目に遭うとは。
「おい、岡崎」
身を捩って唇を解放させてもらう。岡崎、岡崎、と呼びながら、おれは岡崎の腕をゆっくりとほどき、身体を起こそうとした。しかし、岡崎はそれを再び抑えつけ、もう一度唇をくっつけてきた。さっきよりも、さらに濃厚に。おれは、うんざりと眉根を寄せる。もういいって。
そして、岡崎は誰かの名前を呟いた。女の名前だった。ああ、こいつはキス魔というわけではなくて、おれを彼女か誰かと勘違いしているんだな、と思った。そういうひとがいるのか。羨ましいことだ。
岡崎は、愛おしそうに、大事そうに、その名前を口にした。
「ゆかり」と。
そういえば、ふたりの活動休止の理由はなんだろう。
備品の発注チェックをしながら、ぼんやりと思う。昨日飲んだ時、聞いておけばよかった。
まさか、恋愛のもつれとかじゃないだろうな。いやいや、ないない。もつれない。男同士だし。そんなふうに短絡的にふたりを繋げて考えてしまうのは、岡崎の呟いた名前のせいかもしれない。いや、かもしれない、どころか、絶対そうだ。
あの夜のあれは、一体どういう意味だったのか。気になるのならば岡崎に確認すれば早いのだろうが、あいつは酔っぱらっていてあの夜のことは大半記憶に残っていないだろうし、それを尋ねるとなると、「あの夜、おれはおまえにそれはそれは濃厚なキスをされたんだが、あれはどういう意味だったのかしら」と聞いているようにも取られかねない。それは、ちょっといやだなあ、と思う。蒸し返したくない事柄だ。あのキスに意味なんてない。あってたまるか。
しかし、恋愛のもつれというのは、理由としてはありそうだ。ひとりの女性を取り合ったとか、そういうもつれ方。本間さんと岡崎を直接繋げて考えるよりもありそうな、世間的にもありふれた、正しいもつれ方。
いや、それもないか。おれは心の中で首を振る。ふたりの間に、ぎこちない空気は全くなかった。ぎこちなかったのは、初対面同士だったおれと本間さんだけだ。本間さんと岡崎の間には、むしろ家族に近いような、安定した空気が流れていたような気がする。相方というのは、そういうものなのだろうか。そういうひとがいるというのも、少し羨ましい。
ごちゃごちゃと考えていると、仕事の手が止まってしまう。おれは、頭の中のごちゃごちゃを一旦追い出し、発見した備品の発注漏れを上司に報告した。
会社帰りにも、やはりごちゃごちゃ考える。例の広場を見渡しても、うたうひとたちの中に、本間さんも岡崎もいなかった。当然だ。そんなにしょっちゅうストリートライブをやっているはずはない。しかし、いないかな、いたらうれしいな、と、そういう感情が芽生えてしまうのは、自分が彼らのことを好ましく思っているからだろう。もっと、ふたりと話してみたいと思った。酒を飲みながら、くだらない話をいろいろと。
岡崎とは小学校の同級生だったとはいえ、大人になってからの付き合いはなかった。つい最近再会したばかりなのだ。付き合いと呼べるほどの付き合いではないかもしれない。そう呼ぶには、期間が短すぎる。本間さんとなんて、それこそ、まだ一回会っただけだ。だから、これから仲良くなっていけばいいのだ。酒の力を借りなくても、普通におしゃべりができるくらいに。
そうか、こういう時に使うのかもしれない。おれはにやりと笑い、口の中で呟いた。
「おれは短いのか」
運命のひとが、異性とは限らない。昔、そんなCMがあった。おれにとって、本間さんがそうだった。いや、そうだったらいいな、というだけのことなのだけど。でも、おれの脳天から爪先までを支配した本間さんの歌声は、運命と呼ぶのにふさわしい気がした。
ある日の仕事帰り、おれは駅で本間さんを見かけた。本間さんは、ちょうど改札を通る列に入ろうとしているところだった。通してはいけない。とっさに思って、ひとにぶつかりながら、急いで本間さんのそばに寄り、細い肩に手をかける。本間さんの肩が、びくりと大きく揺れた。
「ああ、坂辺くん」
こちらを振り返った本間さんがおれを確認して戸惑ったように言った。
「びっくりした」
その後、本間さんは無言になった。おれの言葉を待っているようだ。
「本間さん、偶然……」
言いながら、人通りの邪魔にならないところへ移動する。そして、あ、と思った。いけない。人見知りが発動した。
「本間さん、これから飲みに行こう」
世間話をすっ飛ばして、おれは言った。情けないことにアルコールを入れないと話もできない。
「無理。俺、今月もう金ない」
本間さんは、あっさりと言う。
「おごる」
「じゃあ、行こう」
またも、本間さんはあっさりと言った。とっさにおごると言ってしまったけれど、おれもそんなに金があるわけではない。必然的に安い居酒屋になる。ふたりでビールを注文し、つまみ中心の軽い食事をした。
いい具合にアルコールでほぐれてきたおれの頭と口は、自分でも意外なほどよく回った。本間さんも飲むにつれて、口数が多くなっっていった。べらべらと他愛もないことをしゃべり、その延長で本間さんと岡崎の活動休止理由を質問してみる。その返答が、
「理由? ああ。イベントで出された弁当のおかずが原因で大喧嘩したんだ」
だったので、爆笑した。もつれ方が、くだらない。そのくだらなさが、楽しかった。本間さんも、薄く笑っている。
改めて見ると、本間さんは、つるんとなめらかな白い肌に、やわらかそうな髪の毛をしていた。男には見えない。かといって、女にも見えない。性別がないみたいに見える。決して大きくはない目は、一重まぶただ。けれど、茶色のビー玉みたいな、きれいな目をしていた。美人というわけではないのだけど、素朴な感じに整っている。肌の色といい、髪の毛の色といい、目の色といい、いろいろと色素が薄い。白桃に似ている。岡崎と正反対だ、と思う。岡崎は、いろいろなパーツがでかいし、髪の毛も真っ黒で堅そうだ。肌の色も濃い。男にしか見えない。なんというか、あいつは見た目がわかりやすい。わかりやすいというよりも、「簡単そう」とか「単純そう」と言ってしまったほうがいいのかもしれない。本間さんは、なんとなく「難しそう」で「複雑そう」だ。
人懐っこい雰囲気の岡崎と、クールでシャープな雰囲気の本間さんが並ぶと、妙にバランスが取れていて目にうれしい。おれがそう思うくらいだから、女の子たちにとっては、余計にそうだろう。ストリートライブの時に、質問に答えてくれた女の子のことを思い出す。彼女は、ストロベリーグリードの熱心なファンだった。
「この前、岡崎と飲んだ時、あいつ酔っぱらっておれのことを『ゆかり』って呼んだんだ」
ふと、言ってみた。キスのことは黙っていた。言う必要もないと思った。笑い話にしてしまえばいいのだろうけど、なんだか知られたくなかった。
「本間さんのことかな」
「いや、彼女だろ」
軟骨の唐揚げに箸を伸ばしながら、本間さんはあっさり言う。箸を持つ指が、白くて細い。きれいだ、と思う。
「悠人の彼女も『ゆかり』だ。俺とは字が違うけど」
「まじで」
ややこしくないか、それって。そう思いながら、おれは笑った。なぜだかわからないけれど、ほっとした。それが不思議だった。おれは、なにに安心しているのだろう。
「キスでもされたか」
言われ、不本意にも顔がぼわっと熱くなる。それを見て、本間さんは笑いながら言う。
「あんなの気にすんな。俺もされたことがある」
さっきまでの安心が、一瞬でかき消えた。なんだか、胸の奥にもやもやが発生する。それを振り払うように、
「間接キスだ」
冗談ぽく言うと、
「坂辺くんは、バカなのかい?」
と真顔で言われてしまった。否定はできない。少しへこむ。
「おれのことも名前で呼んでよ。正樹って」
バカついでに勢いで言ってみた。酔っていないと言えないことは、酔っている時に言うに限る。
「ん? ああ、別にいいけど」
本間さんは怪訝そうな顔をしながら、それでもうなずいてくれた。本間さんの声で名前を呼んでもらえる。そう思っただけで、身体の中心に熱が集まるような心地がした。あ、やばい勃起しそう、と思ったけれど、アルコールのせいか、そんなことにはならなくてほっとする。
勃起? なんで?
疑問がふっとよぎる。しかし、その疑問は、やはり摂取しすぎたアルコールのせいで、すぐに消えてしまった。
「でも、俺のことは絶対名前で呼ぶな」
そう言って、本間さんは薄く笑った。
無表情だとクールな雰囲気の本間さんだけど、笑うとかわいらしい雰囲気になる。それを見て、おれは少しどきどきする。なるほど。おれは、ギャップに弱いのか。
それが判明したからといって、同性のギャップにどきどきする意味を全くもって見出せない。生産性がなさすぎる。疑問が再び、もやもやと燻り始めた。もしかして、と思う。
もしかして、おれは同性愛の気があるのだろうか。そう思いあたってしまうと、もう、そうとしか思えなくなった。
愕然として、本間さんの顔を凝視してしまう。
「どうした、正樹」
本間さんが、おれの名前を口にした。いちごみたいにあまずっぱい声で。
「正樹?」
その瞬間、身体の中心が今度こそ、はっきりと熱を持った。
すし詰めの電車に揺られながら、会社へ向かう。昨日、自分がどうやって帰ったのか、よく覚えていない。本間さんが、「また飲もう」と言って手を振ってくれたのは覚えている。それを覚えているだけでも上等だ、と思う。本間さんは、ちゃんと無事に家に帰ることができたのだろう。
さようなら、平穏な日々。こんにちは、未知の世界。
おれは、ため息をついた。男相手に勃起してしまったという事実が、重く肩にのしかかる。ひええ、と思う。自分がそういう世界に片足を突っ込んでしまうとは思ってもみなかったのだ。
会社に着いても、うわの空だった。しかし、染みついた習慣というものはおそろしいもので、おれは特に大きなミスもなく業務をこなしてしまっていた。どんな業務をこなしたのかは、非常にふわっとした記憶しか残っていないのだが、パソコンや書類には、おれがこなした業務の形跡がちゃんと残っていた。集中しないと、と思う。今日はたまたまミスがなかっただけで、これからもこんなことでは、いつか大きなミスをしてしまうだろう。それ以前に、ぼんやりと仕事をするなんて社会人失格だ。おれは、買ってきた缶コーヒーを飲んで気合いを入れた。
仕事終わりに、同僚の芝田に飲みに誘われた。明日は土曜日、休みなので快諾する。飲みたい気分でもあった。
飲みに行くメンバーは決まりつつある。男三人、女二人という、いささかいびつな人数だ。連れ立って、いつもの居酒屋へ流れる。人数が人数なので、だいたいいつも座敷に通される。
そこでも、おれはまだ、悶々と悩んでいた。
異性とか同性とか言う前に、おれは恋に落ちる期間が短すぎやしないか。
本間さんとは、まだ三回しか会っていないのに。しかも、その内一回は、「会った」ではなく「見た」もしくは「聴いた」だ。おれは、本間さんのことをまだなにも知らないのに。
一目惚れ? いや、一耳惚れ? とにかく、短い。それなのに、名前を呼ばれただけで勃起しちゃうおれ。
「おれは、短いのか」
呟いてみる。本間さんの白桃のような顔を思い出し、ふふっ、と笑いがこぼれた。
「気にすることないですよう」
横から急に言われ、ぎょっとする。誰もいないと思っていたそこには、いつの間にか、同僚の原口さんがハイボールのグラスを持って、にこにこと座っていた。原口さんは、年齢も役職も職業も関係なく、誰にでも敬語でしゃべる。長い髪の似合う、普段はおとなしい、感じのいい子だ。やわらかそうなほっぺたが、アルコールでピンク色に染まっている。
「大きさとか、女性はあんまり気にしませんし。だいじょーぶ、大丈夫」
そう言って、原口さんはおれの肩を労わるように、ぽんぽんと軽く叩いた。あっけにとられた。そして、数秒遅れて、違う! と思った。焦る。誤解だ。
「違う、原口さん! 誤解だ!」
思ったそのままを切実に声に出したが、遅かった。原口さんは、そのままふらふらと別の席へ移動し、もうひとりの女性の同僚に絡み始めた。相当、酔っ払っている。普段はおとなしいのに、アルコールが入ると下ネタも平気なのか。しかも自ら言っちゃうのか。女性というものは、なんとも不思議な生き物だ。
「なんだ、坂辺。おまえ、大きさで悩んでんの?」
こちらの話が耳に入ったのだろう。芝田が声をかけてきた。
「違う」
おれは、即座に否定した。
おれとは違い、芝田は誰とでも仲良くなれるタイプだ。要するに、こいつも岡崎タイプ。わかりやすくて、単純だ。こうやって頻繁に飲み会をするのも、芝田がみんなを誘ってくれるからだ。
「じゃあ、なにが短いんだ」
からかうつもりはないらしく、芝田は落ち着いたトーンで聞いてくる。いいやつなのだ。なので、思わず相談モードに入ってしまった。
「まだ三回しか会ってないのに、恋ってできるもんだろうか」
「できるだろ」
芝田は即答した。
「時間とか、関係ないよ」
そう言った芝田の視線の向こうには、原口さんがいた。なるほどな、と思う。芝田は、こんなふうにみんなで飲むんじゃなくて、原口さんとふたりで飲みたいのかもしれない。なら、誘えばいいのに、と思う。芝田なら簡単だろう。しかし、恋愛となると、事はそう単純には運ばないのかもしれない。
「あんなこと言っちゃう子でも好きなのか?」
そんな失礼な質問が、ついうっかり口に出てしまった。芝田は笑って答えた。
「一目惚れだからなあ。まあ、でも、あんなこと言っちゃう子だから好きなんだ」
「変わってるなあ」
言いながらおれは、変わっていてもいいのかもしれない、と思っていた。変わっているのも、ありかもしれない。そして、ぐいっとジョッキをあおって空にした。その瞬間だった。
「あれ、正樹」
呼ばれた。いちごみたいな、あまずっぱい声に。声のしたほうを見ると、そこには、つるんとした白桃のようなひと。本間さんだ。
「本間さん」
本間さんは、ここの居酒屋のエプロンをつけていた。空いた食器を下げに来たらしい。エプロンには、「ほんまゆかり」と、まるっこいひらがなで書かれたプラスチックのネームプレートがついていた。ご丁寧にハートマークも描かれている。『ほんまゆかり(はあと)』なんて自分で描くはずはないだろうから、誰かに書かれたのだろう。
「偶然。いつもここで飲んでんの?」
本間さんは、驚いたように言った。
「本間さんは? バイト?」
おれも、驚いて聞く。
「うん。今日から」
おれは、周りの景色が見えなくなっていた。
「昨日、駅で会ったろ。ここの面接の帰りだったんだ。経験者だっつったら早速働かされてるよ」
空のジョッキを両手に持つ、本間さんの姿だけが、浮かび上がって見えた。耳には、いちごのあまずっぱさだけがひろがっている。
偶然? 違う。これは、
「運命だ!」
思わず叫んでいた。途端、周りの景色が元に戻る。他の四人がぎょっとしたようにおれを見た。
「なにが」
本間さんは怪訝そうな表情で言った。
「なんでもない」
我に返って、慌てて首を振る。
「じゃあ、またな。ごゆっくりどうぞ」
そう言って微笑むと、本間さんは、てきぱきと食器をまとめて行ってしまった。手慣れていた。さすが経験者だ。
「あのひとは」
芝田が口を開いた。
「あのひとは、男だろうか。女だろうか」
「どっちだと思う?」
ぼんやりと質問を質問で返したおれに、
「どっちにも見えない。声もどっちかわからない。けど、身長としゃべり方からして男かな」
芝田は言った。
「うん。大正解」
おれはため息をつく。
「本間さん、なんで男なんだろ」
思ったことがつい口に出ていたようで、芝田がおれをじっと見る。
「時間が短い短くないじゃなくて、まず悩むべきはそっちだ、坂辺」
「いや、そっちはもう結構悩んだから飽きちゃって」
目をそらしたというか、なんというか。答えは出ていないけれど、と、もごもご呟くおれに、
「おまえ、変わってるな」
と、芝田はおれの肩をがしっと抱いた。変わってる、で済ませてくれた芝田に心の中で感謝する。芝田、本当にいいやつだ。
「買え」
本間さんが、真顔で言った。目の前のテーブルには、チケットが数枚置かれている。
「一枚、二千五百円だ。安いもんだろう、社会人」
居酒屋のテーブル席で、本間さんと岡崎とおれは顔を突き合わせていた。注文したビールはまだ来ない。
「本間さん、ライブするの?」
尋ねると、本間さんは神妙にうなずいた。
「ストロベリーグリードとしてじゃなく、本間さん個人としての参加だ。なにしろ、活動休止中だから」
「自分のこと、さん付けしちゃってるじゃん」
岡崎が笑う。
「いまから緊張しててどうすんの」
「別に緊張はしてない」
おれは、チケットを一枚手に取って詳細を読む。本間さんだけではなく、いろんなひとやグループが参加するライブのようだ。本間さんの名前は、『本間縁(from SG)』と表記されている。開場が十八時半、開演が十九時。行けなくはないので、是非行きたい。そう口を開こうとした時、
「お待たせしましたー」
ビールのジョッキがテーブルに置かれた。おざなりな乾杯をしたところで、
「そもそも、あれだよな」
本間さんが言った。
「ストロベリーグリードってユニット名がダサいよな。無駄に長いし」
「な。どういう意味?」
岡崎が、ぎょっとしたように言う。
「そのまんまの意味だよ。正樹、このユニット名、俺が考えたんじゃないからな。考えたの、悠人だからな。それだけは理解しておいてくれ」
本間さんは言う。おれは勢いに押されて、うん、とうなずいてしまう。
「ほ、本間さん、もしかしてずっと思ってた? ダサいって」
岡崎はショックを隠しきれない、というふうに声を震わせている。
「思ってた。いまも思ってる。ダサいって」
きっぱりとした本間さんの物言いに、岡崎はテーブルに突っ伏した。
「だから、活動再開してくんないの?」
弱々しい声で岡崎が呟く。
「それもあるけど、単純に、もう少しひとりでやってみたい」
本間さんは、のんびりとした口調で言った。
「それもあるんだ……」
岡崎は、顔を上げるもしょんぼりと肩を落としている。
「本間さん、おれライブ行く」
おれは、チケット代の二千五百円を財布から出す。本間さんの歌声を聴けるのなら、行くという選択肢しかないではないか。
「持つべきものは正樹だな」
いちごみたいな美声でそんなふうに言われ、舞い上がってしまう。
「いや、オレも行くし。チケットちゃんと買うし」
岡崎が慌てたように財布を出す。
「言っとくけど、オレ、本間さんの大ファンなんだからね」
岡崎の言葉に、本間さんは、「知ってるよ」と笑った。
なに、いまの感じ。超うらやましい。
「仲いいね」
と言うと、岡崎はさわやかに笑い、本間さんは眉間にしわを寄せ憮然としていた。
「本間さんのCDあるんなら、ほしいな」
ふと思いついて言ってみた。CDがあれば、毎日、本間さんの歌声を聴けるじゃないか。
「ああ」
本間さんは、ビールをひとくち飲んでうなずいた。
「俺個人のCDは出てないけど、ダサいユニット名でなら何枚か出してるよ」
「ひどいよ、本間さん」
岡崎がまた声を震わせている。
「探してみる」
おれが言うと、本間さんは、
「いいよ、やる。今度持ってくる」
そう言って笑った。「今度」があるということを、おれは単純にうれしく思う。
「坂辺もすっかり本間さんのファンだよね」
岡崎が、うれしそうに笑っていた。
「ファン歴は短いけど」
「関係ないよ、そんなの」
岡崎は、やはりうれしそうだ。自分の好きなものを好きと言ってもらえるのは、人間、無条件にうれしいものらしい。
「あ、ライブ、俺の出番はだいたい八時くらいになるから」
そう言った本間さんの耳は、真っ赤になっていた。
「おまえの彼女も、『ゆかり』っていうんだって?」
ライブハウスへの道すがら、おれは岡崎に尋ねた。
今日は、本間さんの出演するライブの日だ。ライブハウスというものへ行ったことがないのでシステムがよくわからない。そもそも、場所もわからない。岡崎にそうメールをしたら、「なら、いっしょに行こう」と返事があった。そういうわけで、おれたちは、最寄りの駅前で待ち合わせて、いっしょにライブハウスへと向かっている。
「本間さんから聞いたの?」
「うん」
うなずくと、
「もう別れたから彼女じゃないんだけど」
岡崎は言った。
「うん、そう。『ゆかり』って名前だった。『紫』って書いて、ゆかりね」
しょんぼりと言う岡崎の声が、なんだか哀しかったが、他に話題もなかったので、おれはその話題を引っ張った。
「なんで別れたんだ」
「オレの将来性の問題で。まあ、オレのほうは未練たらたらなんだけどね」
しょんぼりしている岡崎の様子に、だからおまえはあの夜、おれにあんなディープなキスをかましてくれたわけですね、と納得した。
岡崎は長い長いため息を吐き、
「ゆかりくんが女だったらなあ」
と呟いた。
「あ?」
不穏な言葉を聞いた気がする。空耳かと思い、おれは間抜けな声で聞き返す。ゆかりくん、というのは、もしかして本間さんのことか?
「本間さんが女だったら、オレ絶対、本間さんとつき合うのに」
やっぱり本間さんのことだ。そして、不穏な言葉も空耳ではなかったようだ。呼び方が『本間さん』になるまえは、岡崎は本間さんのことを『ゆかりくん』と呼んでいたのだろう。なんともうらやましいことだ。しかし、いまはそこが問題なのではなく、
「おいおいおいおい。待て待て待て」
おれは、岡崎の発した不穏な言葉の意味を問い質す。
「なんだ、それ。本間さんが女だったらって、どういう意味だ」
「本間さんの声が、もう本当理想なんだよね」
岡崎は、うっとりと言う。その気持ちはわからないでもない。
「ただ、性別が好みじゃなくて」
好みとかそういうレベルの問題か。性別ってのは。
「高校ん時、仲いいやつ何人かでカラオケ行ってさ。そん時、初めて本間さんの歌を聴いたんだよ。衝撃だったんだ。惚れ込んで惚れ込んで、もうそっから毎日、口説き倒したんだもん」
「口説き倒す?」
また不穏な単語が出てきたぞ。
「うん。オレといっしょにうたおうって。本間さんの声なら、絶対世界に届くって」
なんだ、そっちか。おれは胸を撫で下ろす。
「でも、そっか」
岡崎の声のトーンが、すとんと落ちた。
「ストロベリーグリードが売れなかったのは、オレが邪魔だったのかな。単純に」
名前もダサいし、と呟く岡崎に、
「そんなことはないだろう」
気安めに聞こえるかもしれないと思いながらも、おれはそう言わずにはいられなかった。
「おまえと本間さん、ちゃんとバランス取れてるよ。見た目もそうだけど、声も相性いいと思う」
おれは、先日、本間さんからもらったストロベリーグリードのCDを脳内で再生しながら言う。毎日聴いているので、もう全曲覚えてしまった。
「おれ、あれ好きだな。『洗濯機の事情』。歌詞がいい」
岡崎は、パチパチとまばたきを繰り返し、
「詞は全部オレが書いてるんだ」
と呟いた。おれはうなずき、言った。
「あの曲、ほのぼのした歌詞に本間さんの声とおまえのコーラスが、ぴったり重なってて、すげーいいと思う」
「ありがとう」
岡崎は、にっこりと笑う。
「あと、あれだ」
おれは、なんだか憑きものが落ちたみたいに凪いだ心境で、
「おれは、おまえと違って、本間さんが男でも、本間さんとつき合いたいと思ってる」
そんなカミングアウトをしてしまう。というか、牽制か。開き直ったとも言うかもしれない。
「そ」
岡崎が息を飲んだのがわかった。
「それは、本間さん次第だよねー」
反応に困ったような表情で、岡崎はうなずく。
本当にそうだな、と思いながら、岡崎が全部飲み込んでくれたことに感謝する。いろいろ思うところはあるだろうに。いいやつだ。
ライブハウスに到着し、チケットを持って整理券の番号順に呼ばれるのを待つ。
「入る時にドリンク代が五百円要るよ。用意しといてね」
岡崎に言われ、おれは財布から五百円玉を出し、手に握りしめた。
「坂辺の仕草って、なんか子どもっぽいよね」
岡崎が言う。
「どこが?」
「そうやって、小銭を握りしめたりするところ。大人は小銭を握りしめたりしないもんだよ」
おれは、握った手を開き、てのひらの五百円玉を見る。
「だって、握りしめとかなきゃなくすだろ」
「そういうとこだよ。バスの料金とか、電車の切符とかも握りしめてんでしょ」
図星だったので、おれは黙る。坂辺を見ると、くくく、と笑われた。
「そういう意味では、坂辺は小学校のころから変わってないのかもしれないね」
ほめてんだよ、と言われたが、ほめられているようには思えず、おれは再び五百円玉をぎゅっと握りしめる。
ライブは、楽しかった。本間さん以外のひとたちの歌もよかったけれど、やっぱり本間さんの歌がいちばんだと思う。今回、本間さんは四曲しかうたわなかった。歌詞がなんだかすごく変で驚いたけれど、それでも本間さんの声はいい。もっとライブとかやってくれたらいいのに。もっとたくさん、本間さんの歌を聴きたい。
会社帰りに同僚の芝田とふたりで居酒屋に立ち寄った。本間さんがバイトをしている居酒屋だ。おれがそこがいい、と言い張ったのだ。芝田は察したようで、笑って快諾してくれた。
「ご注文は、お決まりですか」
注文を取りに来たのが本間さんだったので、おれは有頂天になる。
「きみの歌を一曲」
真顔で言ったおれを、本間さんは横目でチラリと見て、
「ご注文、お決まりですか」
芝田のほうに向き直り、にっこりと笑って言った。
「冗談だったのに、冗談だったのに。無視しないでよ、本間さん」
「バカなのかい、正樹は。バーカバーカバーカ」
あまずっぱい声で、うたうように言って本間さんは笑う。白桃のような横顔にどきどきする。
芝田が生中ふたつと、あとはつまみを適当に注文して、本間さんがそれを繰り返す。
「以上でよろしいですか?」
おれたちはうなずき、本間さんは戻って行った。
「仲よさそうじゃん」
芝田が言う。そう言われてまんざらでもないおれは、うへへ、と笑う。
注文したものが揃い、お疲れさま、と乾杯をする。
「緊張して、原口さんとうまくしゃべれない」
芝田はそう切り出した。おれは少し驚く。
「え。だって、いつも普通にしゃべってるじゃないか」
「しゃべるのはしゃべれる。でも、いつもすげー緊張してるから、自分がなにしゃべってんのかわからない」
芝田は、心底困っているようだった。
「それは、酒飲んでても?」
おれの問いに、芝田は少しだけ首を傾ける。
「僕は酒は好きだけど強くはないからな。酒飲んでたほうがなにしゃべってんのかわかんないかもしれない」
ううむ、と、おれはうなった。確かに、アルコールはひとをわけわからなくさせる。しかし、そのおかげで、
「おれは、酒が入ると結構普通にしゃべれるからなあ」
こういう利点もあったりする。
「ああ、そうか。なるほど」
芝田はうなずいた。
「おまえ、酒入ってるほうが饒舌だもんな」
僕もそういうふうにスイッチがあればいいんだけど、と芝田は羨ましそうにおれを見る。おれを羨ましがってもなんの特にもならないのに。
しょんぼりしている芝田を元気づけようと、
「芝田。だいじょーぶ、大丈夫」
おれが原口さんに言われたそのままの台詞を口にすると、芝田は吹き出し、声を上げて笑った。原口さんの言葉は、偉大だ。芝田にとっては、おれにとっての本間さんの歌くらいの威力があるのかもしれない。
「本間さんは、緊張してる時とか、どうやってリラックスする?」
空いた皿やジョッキを下げに来た本間さんに、芝田の参考になれば、と聞いてみた。
本間さんは怪訝そうな顔をしたけれど、芝田の真剣な目に気圧されたように、言った。
「大声を出す。腹から」
「大声?」
「のども開かなきゃいけないし、舌をぐーって伸ばしてストレッチするとか」
本間さんは考え考え口にする。
「ああ」
本間さんは、ライブ前のリラックス方法を言っているのだ。
「芝田、大声だ」
本間さんが行ってしまってから、芝田にむかって小さくガッツポーズをすると、
「どこで?」
と聞かれ、言葉に詰まる。そういえば、日常生活において、大声を出していい場所なんて限られている。本間さんの日常と、俺たちの日常は、ほんのちょっぴりズレているのだ。
「でも、舌のストレッチくらいならできそうじゃん」
おれは、芝田に向かって、べー、と舌を出してみる。
「のどが開く……ってのがどういうことなのかよくわかんないけど、のどが開いたらうまくしゃべれるかも」
舌を出したまましゃべっていたら、よだれが垂れた。芝田が笑う。
「坂辺は、なんか子どもぽいな」
そんなことを言われ、そういえば、岡崎にも言われた、と思いながら、おれは舌をしまう。
「いい意味でだよ」
そう言われても、やはり、ほめられている気はしない。
「でも、元気出た。ありがとう、坂辺」
芝田が笑うので、なんの役にも立たなかったおれも、つられて笑う。
酔っていた。相も変わらず、酒に飲まれていた。
「本間さん」
向かいに座る本間さんを呼ぶと、
「うん?」
本間さんは半笑いで返事をする。右手には、ビールのジョッキをがっちりと持っている。
「好きです」
アルコールのせいで、すんなりと言葉が出る。隣の岡崎が、ぶは、とビールを吹いた。
「え。いま言っちゃうの、それ」
安い居酒屋のテーブル席で、三人で飲むことが習慣になりつつある。おれはだいたい会社帰りだけど、ふたりの私生活は未だに謎だ。仕事とかバイトとか、いろいろあるのだろうということはおぼろげながらわかってきた。
静かなところよりも、こんなふうにざわざわと賑やかなところのほうが、こちらの話を聞かれなくても済むような気がして、おれは居酒屋という場所が結構好きだ。好きな場所で好きなひとに好きと言って、なにがどういけないのか。そういう思考回路を、なんの違和感もなく受け入れてしまえるほどに、おれは酔っ払っていた。
「悠人、きたない」
本間さんが投げたおしぼりが、岡崎の顔面にヒットする。
「やめてよー」
岡崎が情けない声を出した。おれはそれを無視して、本間さんに向かって次々と言葉を投げる。本間さんは幸せそうな顔で、ビールジョッキを傾けている。
「心境的には、つき合ってほしいと思ってるんだけど、でも、やっぱ、おれは男だし、本間さんも男だし、そういうことはお願いしにくい。友だちでいてくれるだけで、いいよ」
一気に言い終わると、本間さんの一重のまぶたが目が飛び出るほどに見開かれた。こんな表情は初めて見る。新鮮な気持ちで、本間さんの白桃のような顔を眺めていると、
「おお!?」
本間さんが、突然言った。言った、というよりも、鳴いた、というほうがより近い感じの反応だ。そして、発した声と共に、本間さんの口の端から先ほど含んだばかりのビールがたらたらと垂れた。
「本間さん、きたない」
岡崎が本間さんに向かって、仕返しとばかりにおしぼりを投げる。それを顔面で受けとめて、本間さんはもう一度、「おお!?」と鳴いた。
「なに言ってんだ、正樹。そういう冗談はやめろ。いたずらに俺を動揺させるんじゃないよ」
本間さんは、おたおたしたような声でそう言った。
「冗談じゃないよ。本気」
きっぱりと言い放つと、
「やめろやめろやめろ。もっとわるい。頼むから冗談だって言ってくれよ」
やはり、おたおたと返答がある。
「どっちなのさ」
岡崎が苦笑い気味に呟く。
「おれ、本気で本間さんのことが好き」
もう一度言う。
「待て。やめろ。あ、おい、ほら。悠人もいるんだぞ。聞かれちゃってるぞ」
「あ、いや。オレ知ってるから気にしなくていいよ」
岡崎はそう言って、右手を振りながら左手でテーブルにこぼれたビールをティッシュで拭いている。
「なんだそれ。知らなかったの俺だけかよ」
本間さんは、なおもおたおたしている。
「おかげで俺いま超動揺しちゃってるぞ。もっと徐々に知らせてくれるとか、そういうことできなかったわけ? それか、ずっと言わないでおくとかそういう……」
そこで、本間さんの言葉は途切れた。しばらくしてから、
「ええー……」
途方にくれたような表情で呟いて、本間さんは、眉にきゅっと力を入れた。そして、
「こまる」
そう、きっぱりと言った。
「だから、友だちでいいんだってば」
予想していた答えだったので、覚悟はできている。おれは冷静に答える。
「友だちでいいって言うなら、わざわざそういうことを俺に伝えるなよ」
本間さんは、また途方にくれたような顔をした。
「わかってんのか。それによって、俺がおまえのことをいやでも意識するだろうが。そしたら、友だちなんて言ってらんねえぞ。俺、おまえのこと避けちゃうかもしんないぞ」
「おれのこと、意識してくれるの? 本間さん」
「誤解すんなよ! 正樹が思ってるような感じじゃない」
本間さんは、しっかりと手に持っていたビールジョッキを、どん、とテーブルに置く。置いて、また持ち直す。
「今後いっしょに飲んでても、こいつ俺のこと好きなのか、ってふとした瞬間に思い出しちゃうだろ。そしたらいろいろ支障があるじゃないか。しこりが残るだろ。楽しく飲めないだろうが」
言って、本間さんはジョッキをぐいぐいと干した。それから本間さんが発した言葉は、予想もしていないものだった。
「ああいいよ。じゃあいいよ。もういっそのことつき合おう。正樹、俺はおまえとつき合うぞ」
おれと岡崎は、ぎょっとしたように本間さんを見る。
「なに言ってんの、本間さん」
岡崎が言う。
「そうだよ。なに言ってんの」
おれも言う。
「友だちでいいって言ってんのに」
「うるさい! もうつき合っちゃったほうが楽だ! 余計なこと気にかけなくて済むし」
本間さんは投げやりな感じにそう言い放つ。
「おれの好意が余計なことだって言ってるように聞こえるんだけど」
「まるで余計なことじゃないみたいな口ぶりだな」
本間さんはおれを真っ直ぐにねめつける。
「余計なことだろうが! 普通に生活してたらまず悩まなくてもいい悩みを、おまえは俺に背負わせただろうが!」
「さすがに、それはひどいよ、本間さん」
岡崎が困ったような声で言う。
「本間さん、優しくない」
あまりの言いように、おれの声も沈んでしまう。
「だっておまえ、俺のことが好きなんだろ? そんなやつに優しくなんてできるか、ばか」
「おれが同性愛者だから優しくできないの」
過去、女の子を好きになりつき合ったこともあるおれは、たぶん厳密に言うとバイセクシュアルなのだろうけど、そう尋ねてみる。
「ちがうよー。そういうんじゃないよー。気を持たせるような素振りができないってことだよー。俺の行動が制限されちゃうじゃんかよー。あーもー、めんどくさーい」
だらだらと語尾を伸ばして、本間さんはテーブルに突っ伏してしまった。
こういう本間さんを、おれは初めて見る。投げやりだ。とにかく投げやりだ。おれが言うべきことじゃないのかもしれないが、もっと自分を大切にしろ、と言いたい。そんな、めんどうくさいからつき合うとか、どこから出る発想なんだ。
「めんどくさーい。もう考えるのめんどくさーい。めんどくさいから、もう俺たちつき合っちゃおうよー」
本間さんの言動はダメな感じにブレない。
「本間さん、言ってることめちゃくちゃだよ」
困った。まさか、こんなことになるとは思っていなかった。そんなふうにつき合ってもらったって、おれは全然うれしくない。そう思っていたら、
「そういえば、本間さん、前の彼女も断ってギクシャクするのが面倒くさいからってつき合ってたよね。爛れてるなあ」
岡崎がのんびりと言い、その言葉におれは酔いが一気に醒めてしまった。だって、それが本当なら、本間さんはおれじゃなくて、他の誰かに告白されても面倒くさがってつき合っちゃうってことじゃないか。そんなことになるくらいなら、理由がどうであれ、おれとつき合ってくれたほうがいい。断然いい。
「本間さん。本当に、おれとつき合ってくれるの?」
一応の意思確認をしてみる。
「ほんと、ほんと」
本間さんの声は、やっぱりものすごく投げやりだ。
「ベロチューでもカキッコでもオーラルセックスでもなんでもやってやろうじゃないの。でも突っ込むのはナシな、どっち役やるにしても結構痛そうだしな」
「あのね、本間さん。つき合うって、そういうことだけじゃないと思うんだ」
本間さんの明け透けな物言いに若干引きながら、おれはそういうことが目的じゃないんだと、やんわり伝える。しかし、
「じゃあ、やんなくていいの? そしたら俺、まじでやんないよ。指一本ふれさせないし、俺も正樹にさわんないよ。『もしかして、あなた鬼ですか』『ああ、あなたも鬼ですか』『お互いさわれませんねー』『困りましたねー』って、お互い鬼みたいな鬼ごっこを続けることになるぞ」
真顔で、しかもちゃんと声色を使い分けて、そんなことを言われ、
「それは困る!」
思わず言ってしまった。これでは、そういうことをしたい、と言っているようなものだ。いや、まあ、したいのはしたいんだけど。
「ふん」
本間さんは投げやりに鼻から息を吐き出す。そして、ガタンと椅子を鳴らし、いきなり立ち上がったかと思うと、おれのネクタイを掴んだ。そのネクタイを強い力でぐっと引っ張られ、思わず腰を浮かした瞬間、ぶちゅっとやられた。口に口を、ただぶつけただけみたいなキスだ。しかも、強引に舌を突っ込んでくる。気持ちよくもなんともない、ただただ乱暴なキスだった。こんなのなら、岡崎にされたキスのほうが数倍気持ちよかった、などと、おれは突拍子もないことを考える。
「だいじょーぶ、だな。全っ然できるわ」
本間さんは半笑いで言って、ぺろりと自分の唇を舐めた。ぽかんとしながらも、その妙に色っぽい仕草に簡単に勃起してしまう自分が情けない。
「ひどいよ、本間さん……」
そんな。やっつけ仕事みたいなキス。力なく呟いてから、はた、と気づく。ここは居酒屋ではなかったか。個室ならまだしも、テーブル席ではなかったか。
「気にしないでくださーい。罰ゲーム、罰ゲームでーす」
誰に対する言い訳なのか、こちらに視線を集めている周囲に、苦笑いの岡崎が小声で詫びるように言う。岡崎、罰ゲームというのも、あんまりじゃないか。
ストロベリーグリードが、活動を再開したという報告を聞いたのは、それから半年ほど経った頃だった。やはり居酒屋のテーブル席でのことだ。
おれと本間さんの関係はあれ以来、特になにがあったというわけではなく、現状を維持している。ふたりきりのときにだけ時々、「ゆかりくん」と下の名前で呼ぶと、本間さんは嫌そうな顔をしながらも、返事をしてくれるようになった。それだけが進展といえば進展なのかもしれない。少しずつだけれど、距離は近づいている。
「受け取れ、正樹」
本間さんは真顔で言った。テーブルには、ライブのチケットらしきものが一枚。
「本間さん、またライブするの?」
なにがなんでも行くつもりで、わくわくと財布を出しながら問うと、
「例のダサいユニットが復活したんだ」
岡崎が、うれしさ半分、自嘲半分といった様子で答える。
「それは、おめでとう!」
心から言いながら、チケットを手に取り眺める。『ストロベリーグリード復活祭』と書かれていた。キリスト教のイースターみたいだ、と思っていると、
「ちなみに、そのライブのタイトルも悠人が考えたんだからな。俺じゃないぞ」
本間さんがむすりとして言った。
「なにそれ、暗にダサいって言ってんの?」
そんなふたりのやりとりに笑いながら、
「本間さん、あまりうれしそうじゃないね」
疑問を言葉にしてみる。
「なんで?」
「事務所に言われて仕方なくだ」
本間さんは言った。
「俺は、もう少しひとりでやってみたかったのに」
「でも、言われちゃったんだよね」
と岡崎が引き継ぐ。
「本間ひとりじゃ気味が悪い。岡崎ひとりじゃパンチが弱い」
おれは、ふたりを交互に見た。
「パンチが弱いってのはわかるけど、気味が悪いってどういうこと?」
「坂辺。オレいま地味にショック受けてるよ」
パンチの弱い岡崎が眉を八の字にして情けない表情で笑っている。
「あ、ごめん」
「まあ、オレは活動再開できてうれしいからいいんだけど」
と岡崎はジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。
「いままで、作詞は悠人に全部まかせてて、作曲もほとんど悠人がしてくれてたから、俺もなんか作りたいなと思って。だから、もう少しひとりでやってみたかったんだ」
本間さんが、ぼそぼそと言う。
「でもって、作った曲をいくつか事務所に出してみたんだけど、持って行く度に言われるんだよ。気味が悪いって」
本間さんの表情は暗い。
「なんかね。甘いんだ。甘ったるいんだ。胸キュン少女漫画を超越した甘さなんだ。甘すぎて気味が悪いんだ」
岡崎も沈んだ表情で言う。
「そこまで言うことないだろう」
本間さんが憮然として言い返した。
「前にライブでうたってた曲、あれ本間さんが作ったの?」
もしかして、と思い聞くと、本間さんはうなずく。そして、
「どう思った?」
そう尋ねてくるものだから、うそを吐くのもどうかな、と思い正直に答えた。
「変な歌詞だと思った」
いい感じに変な歌詞というのがある。そういう歌詞は、結構長い間愛されるものだ。しかし、本間さんが書いたというその曲の歌詞は、そういうものとは全然違った。はっきり言ってしまうと、「イタイ」という言葉がぴったりくるような歌詞だ。あんな歌詞でもなぜか聴くに堪える曲になってしまうのは、本間さんの歌声のおかげだ。それがなかったら、と思うとなんだかおそろしい。さすがに、こんなことを本人を目の前にして言えるわけがないから、おれはそのまま口をつぐんだ。
「やっぱ、作詞と作曲はオレが担当します」
岡崎が言った。
「本間さんは歌に専念してください」
「それがいいと思います」
いちファンとして、おれも言う。
「ほら。岡崎と本間さん、ふたりでちゃんとバランス取れてるんだから」
そう言い添えると、岡崎はうれしそうに笑い、本間さんはむすっとして下を向いてしまった。でも、耳が赤いので、照れているんだなとわかる。
ストロベリーグリードは、ふたりでひとつなんだろうな、と思う。そして、おれはそれを羨ましく思う。
「あ。お金はいいからね。チケットはプレゼントするよ」
岡崎が言う。本間さんを見ると、こくりとうなずいた。
「ありがとう」
「でも、ドリンク代は別途要るから。五百円」
「わかった」
ストロベリーグリード復活祭当日、おれは、足取りも軽くライブハウスへ向かうだろう。五百円玉を、手にしっかりと握りしめて。
いまから、もう楽しみで仕方ない。
了
ありがとうございました。