5-12 救いの手
「あー! もう! 学習してくださいってばー!!!」
エルドが叫びながら追いかけてくる。追いつかれる前に、リアナーレはセヴィリオの首に抱きついた。
「リアナ、離れて」
彼は抑揚なく言葉を吐く。濁りきった目に、光が差し込むこともなければ、リアナーレを映すこともない。
「離れない」
「いいから、離れて。邪魔。アイツを殺せない」
剣を強く握りすぎた彼の腕は、小刻みに震えている。怒りから生まれる、負の衝動を抑えているようだった。
まだ自我はある。まだ、間に合う。
「セヴィー、堕ちたら駄目。無闇に殺したところで、貴方が汚れるだけで何にもならない」
「リアナを傷つけた。モントレイも、ライアスも赦せない。赦さない。殺してやる、殺してやる……!」
今ならその力があると、セヴィリオは無表情のまま、笑い声を上げた。暴走を始めている。説得だけではどうにもならなさそうだ。リアナーレが払い除けられるのも、時間の問題だろう。
「彼らを殺すというのなら、私が狂った貴方を殺してでも止める」
ぞわり。リアナーレの全身にこれまで感じたことがないほどの悪寒が走り、毛穴が開いていくようだった。狂ったセヴィリオに気圧されてなるものかと、唇を噛んで耐える。
「何で、何でリアナはあいつらを庇うの? 何でいつも僕を選んでくれないの? ずっと傍にいる、お姫様にしてねって言ったのに」
セヴィリオは口だけを動かして、冷たい絶望の言葉を唱えた。同時に、目に見えるどす黒いオーラが、彼の体から宙へと放出されていく。長年抑圧されていた、黒い感情なのかもしれない。
入れ替わりを明かした時、もっと責めてくれれば良かったのに。彼は淀んだ感情を抑え、そのままのリアナーレで良いと言ってくれたのだろう。
「ごめんね、セヴィー」
目に浮かんだ水で視界が歪む。リアナーレが求めていた深い愛を、彼はずっと向けてくれていた。今度こそ、応えたい。
触れて、願う。強く、心の底から想いを乗せる。
「これ以上、苦しい道を歩ませるようなことはしない。ずっと傍にいる。私も一緒に隣を歩くから」
絡み合う二本の黒い紋様は、既にセヴィリオの顔を侵食していた。リアナーレは労るように、その頬に手を添える。背伸びをして、彼の乾いた唇に軽く口づけた。
「本当?」
「本当」
あの日、絶望した少年の面影を抱き締め、リアナーレはとびきり優しく笑う。
真っ黒な染みは彼の肌から薄っすら宙に浮き、粉になってサラサラと消えていった。思ったより呆気なく、解呪は成功したようだ。
「リアナ、リアナ、今度こそ僕と結婚してくれるよね?」
セヴィリオの泣きそうな、幼い顔を久しぶりに見て、リアナーレはほっとする。
「もうしてるでしょ。忘れたの?」
「そうだった、ね……」
彼の膝から力が抜ける。体重を預けていたリアナーレも一緒になって、地面に崩れ落ちた。重たい彼を聖女様の体で受け止めるのは難しく、押しつぶされるようにして草むらに転がる。
パチパチパチ。
背後から、熱が籠もっていない拍手が聞こえてくる。
「おー、良くわからないけど、一件落着って感じっすね」
「ちょっと、見てないで助けなさいよ」
ひっくり返ったリアナーレは、セヴィリオを退けるようエルドに言う。しばらくそのままでも良いのでは? と元部下は呑気な提案をした。
「……ぅう」
男の呻き声を聞き、もう一人救わなければならない人物がいたことを、リアナーレは思い出す。
「エルド、私を殺せ」
銀髪の男は力を振り絞るようにして立ち上がり、剣を手にしたままのエルドに乞う。
だらりとぶら下がった彼の右腕からは、地面へとおびただしい量の血が流れている。もとから優れなかった顔色は一層暗く、死者のようだ。
「早く、私を殺してくれ」
「フォード様、失恋したからってそれはないっすよー」
フォードは一歩、また一歩と重い足取りでエルドへと迫る。それに合わせてエルドも後ずさる。既に戦意を喪失しているらしく、フォードは草に埋もれた自身の剣を拾おうとしない。
リアナーレはいつまで経っても部下が自分に手を差し伸べないので、自力でセヴィリオの下から抜け出した。
「モントレイ伯爵、腕を見せて。エルドはセヴィーが目覚めて発狂しないよう、膝枕して見張ってて」
「その役、なんすか!? もしものことがあったら、俺即死っすけど」
彼は戦女神からの無茶振りに慣れている。喚きつつも、意識を失って転がるセヴィリオの元へと向かう。
さて。あとは死にたがっているこの男を、どうするかだ。
「私は何ということをしたのだ……」
リアナーレが近寄ると、フォードは項垂れた。俯き、自身の行いを否定するかのように首を横に振る。
「第一王子に何か弱みでも握られたの?」
「いや。先程まで頭がぼんやりしていて、気づいたらこうなっていた」
方法は分からないものの、大方ライアスに操られたか、唆されたのだろう。そうでなければ、理性の塊のようなこの男が、王族であるセヴィリオを斬りつけるとは思えない。
「傷が深い。縫わないと駄目ね」
戦女神は医者ではないが、応急手当ての知識ならそれなりにある。一目見て、集落に戻り、軍医に任せるべき深い傷であると判断する。
「聖女様、もう良いのです。慈悲深い貴女でも私は救えない」
「聖女様じゃないから大丈夫」
太腿に仕込んでいた短剣で、リアナーレはドレスの裾を破る。ドレスといっても、文句を言って用意してもらった、機能性に優れたシンプルなものだ。引き裂き、止血用の布として使うには丁度良い。
「リアナーレ嬢……?」
聖女様の中身が誰であるか、ようやく気づいたらしい。彼が目を見開くと、宝石のように美しい碧の球体が落ちてきそうだった。
ここまで来れば、フォードに隠し続ける必要はない。リアナーレは静かに頷く。
「ああ、貴女だったのか……。良かった……良かった……」
自責の念から、死を選ぼうとするフォードの顔に、少しだけ明るさが戻った。