2-9 聖女様は戦いたい
「あら、タリス様。ご機嫌麗しゅう」
王宮の正面玄関へと降りる階段で、丸まるとした中年男性とすれ違う。リアナーレが優雅に声を掛けると、男は胸ポケットから皺くちゃのハンケチーフを取り出し、脂汗を押さえた。
「リアナ様、先日はどうも」
「無事収穫祭を迎えられそうですね」
「聖女様の的確な占いのお陰です」
戦女神時代には、品がないだとか、女の癖に政に口を出すなだとか、顔を合わせるたびに嫌味を言われたものだが、ついに立場が逆転した。
リアナーレの側で財務大臣の傲慢な振る舞いを見てきたエルドは、聖女様に頭が上がらない彼の様子を見て声を弾ませる。
「聖女様、あのタヌキじじいをやり込めたんですか?」
「まあね」
「気分爽快っす」
エルドは鼻歌混じりにリアナーレの後ろをついてくる。王宮の建物を出ようとしてようやく、彼は行き先に疑問を持ったようだ。
「そういえば、今日は薔薇園じゃないんすね。どこ行かれるんでしたっけ?」
「闘技場だけど。今日、月一回の模擬戦の日でしょ」
「何を当たり前のように言ってるんすか! さては総帥の許可も取ってないと見た」
「取ってない。どうせあの人も闘技場にいるだろうし。一々許可を取らないといけないことがおかしいと思う」
月末に軍の中で開催される模擬戦は、王宮の官僚や爵位持ちであれば自由に観戦できることになっている。聖女様が訪れたところで何の問題もない。出場すると言っている訳でないのだ。セヴィリオとの交渉は、現地で行えば良いだろう。訪れてしまえばこちらのものだと思っている。
「止めてくださいよ! 俺の監督不行き届き扱いになるかも。聖女様がこっそり筋トレしてることがバレた時だって、俺が怒られたんすから!」
「筋トレしても全然筋肉がつかなくて……あれは怒られ損ね」
体質のせいだろうか。どんなに肉を食べ、部屋でトレーニングをしても、聖女様の体は太ることもなければ、筋肉質になることもなかった。
少なくともリアナーレは満足な効果を感じられなかったのだが、セヴィリオは体に触れただけで、聖女様の涙ぐましい努力を見透かした。正直、僅かな変化にも気づく彼に、恐怖を感じている。
「モントレイ伯爵、こんにちは」
「聖女様!? 何故こちらに!?」
護衛と二人きりで突如現れた聖女に、生真面目な指揮官フォード=モントレイは口をあんぐりと開けた。
闘技場といっても立派な建物があるわけではなく、野外の一部に日よけを設置しただけの空間だ。熱心なファンや恋人を除いて、基本的にはドレス姿の女性が訪れる場所ではない。本日の観客は、リアナーレとエルドを除いてゼロである。
「旦那様の雄姿を見に来たんすよね、そうですよね」
「それは良いアイディア。そういうことにしておきましょ」
単に暇つぶしに来ただけだが、リアナーレはエルドの案を採用した。
実のところ、総帥であるセヴィリオ自らが試合に出ることは殆どない。下手に負けたら示しがつかないからだとリアナーレは思っている。よって、今日も彼は高みの見物だろうが、聖女様はそのことを知る由もないので、言い訳にはなるだろう。
「総帥でしたら、王と面会の予定があるそうで、遅れていらっしゃると思います」
「そう。それでは好きにさせてもらいますね」
ぱん、と手を合わせたリアナーレを見て、フォードは顔を緩める。
「……自由奔放な方でいらっしゃる」
「ホントに、困ったもんすよ。あ、聖女様に惚れないでくださいね」
「私はお前のように心移りの激しい人間ではない」
堅物フォードは眉間に皺を寄せ、エルドに対して不快を露わにした。まさか聖女の中身が、想いを寄せていた人間だとは思わずに。
どこに惚れられる要素があったのか、未だにリアナーレは分からなかった。今もかつても、気持ちに応えることはできないので、彼の恋愛観には触れないようにする。
今日は彼も模擬戦に出場するようだ。いつもの軍服ではなく、胸と腰回りに簡素な防具をつけていた。
「うーん、フォード様とマルセル様かぁ。これはフォード様の勝ちだろうな」
最終組、二人の指揮官が模造の剣を手に対峙する様子を見て、エルドは呟いた。模擬戦では、血みどろの闘いを繰り広げる必要はない。どちらかが致命傷を与えうる太刀筋を見せれば勝敗が決まる。
「いや、私はそうは思わない」
リアナーレは興奮に体を震わせ、乾いた唇を舌で舐める。
本当は自分があの場に立ちたかった。張り詰めた空気の中、相手の表情や動作を観察しながら、どんな手を使ってねじ伏せようかと考える、あの時間が好きだった。
「あの二人、圧倒的な実力差がありますよ」
「だからこそ。真面目なフォードはあからさまな油断はしないだろうけど、それでも心のどこかに余裕がある。対して、マルセルはいつもと剣も構えも違う」
体力がピークから落ち始めている今、若い頃のように力技では勝てない。生き残りたいのなら、御しやすい重さの剣に持ち替え、技術を重視し、意表を突く戦法を取りなさい。
聖女様のふりをしたリアナーレが、マルセルに与えた助言だ。
アドバイスを守り、数週間真面目に鍛錬を積んでいたのなら、マルセルにも勝機はある。元はお情けでなく、実力で指揮官に上り詰めた人物なのだから。
「流石ですね、リアナーレ隊長」
マルセルがフォードの首に剣先を突き付けたところで、観戦していた兵士たちから歓声が湧き起こった。
リアナーレの期待通り、マルセルは剣を軽くしたことにより、根っからの力強さにスピードが乗っていた。相手の剣を上手く捌き、動揺したフォードの隙を突いた。完勝だ。
「別に。このくらい、よく観察すれば分かること。エルドもまだまだね。……あ」
「俺はいつまで経ってもダメですね。だから隊長を見殺しにした」
彼はいつになく、真剣で、少し涙混じりの声で言う。リアナーレは自身の失言に気づき、左手で前髪をかき上げた。




