朱の花は戦場に散る
燃え上がる、鮮烈な朱。
リアナーレ=アストレイは、荒涼の大地に旗を突き立てる。タイミングを見計らったかのように吹いた風は、彼女の短い朱色の髪と、シャレイアン王国の紋が刻まれた軍旗を、炎のようにはためかせた。
終わったのだ。そう安堵した瞬間、リアナーレの胸部を鋭い異物が貫く。声はない。代わりに口から溢れたのは、深紅の液体だった。音もない。痛みも感じない。
膝から崩れ落ちた戦女神は、意識の残された僅かな時間で、一人の男を思い描く。軍人としての仮面の下で、愛し続けた唯一の人。
険しい表情の想い人が脳裏に浮かぶ。最期まで、彼の笑顔を見ることは叶わなかった。幼い時、確かに向けられていたはずの彼の優しい顔は、色褪せ、記憶からも失われていた。
リアナーレ=アストレイは戦場に散った。体が壊れ、生が消える。そのはずだった。
「……、……さま、……ア……様、リアナ様ぁっ!」
「うるさい」
耳をつんざく甲高い泣き声に、リアナーレは思わず不機嫌な返事をする。あと一時間は寝させてほしい、そんな気怠さが体にあった。
「はえ?」
「え?」
驚いたのは泣き声の主だけではない。言葉を口にした本人も同様に驚いていた。急速に頭が冴えていく。がばりと起き上がったリアナーレは、ベッドに伏せて泣く人物に問いかける。
「私、死んだよね」
「はい。今しがた、ご臨終なさいました」
若いメイドは不思議そうに答えた。彼女が瞬きを繰り返すと、目に溜まった水滴が頬へと零れ落ちていく。どこかで見たことのある顔だと思うが、リアナーレは彼女が誰なのか思い出せない。
「私、何で生きてるの? ここは?」
「王宮の、リアナ様のお部屋ですけど……」
「リアナ?」
「はい。星詠みの聖女、リアナ=キュアイス様です」
リアナーレはベッドから跳ね起き、シーツに足をとられて転びそうになりながら、化粧台へと走る。壁に埋め込まれた大きな鏡には、黒髪の、華奢で可愛らしい女性が映った。あどけなさの残る容姿からして、少女と形容した方が良いかもしれない。
「うわぁ」
リアナーレは口をあんぐりと開け、鏡に映る別人を見つめる。
星詠みの聖女、リアナ=キュアイスのことはリアナーレも認識している。何なら、戦地へ赴く前にも顔を合わせた。聖女様はリアナーレと名前こそ似ているが、見た目と中身は似ても似つかない。
「リアナ様、どうされてしまったのでしょう」
「奇跡だ……聖女様の、奇跡だ……。君、生き返るところを見ただろう? これはまごうことなき奇跡だよ!!」
「ドクターまでおかしくなってしまわれた……」
感極まって声を張り上げる医者には目もくれず、リアナーレは顔に困惑を浮かべるメイドに尋ねた。
「ねぇ貴女、名前は?」
「忘れてしまわれたのですか?」
「ああ、ええっと、そうみたい。一度死んだショックで色々と思い出せなくて」
「ルーラ。貴女つきのメイド、ルーラ=ホワイトです」
そうだ。顎のあたりで切りそろえられた茶色の髪に、鼻の上にうっすら浮かぶそばかす。本物のリアナに招かれた際に、一度顔を合わせている。
「ルーラ、セヴィリオはどこ?」
「セヴィリオ様でしたら、執務室にこもりきりのようです」
「はぁ。そんなことってある?」
セヴィリオ=シャレイアンはリアナーレにとって幼馴染であり、上司にあたる。一方、星詠みの聖女にとって、彼は夫だ。嫁の最期を看取りにも来ないなんて。どうしようもなく薄情な男。
「リアナ様!?」
リアナーレは衝動のまま走り出していた。間違いなく、リアナーレが目覚めたこの場所は、シャレイアン王宮だ。良く知るタイル張りの廊下を爆走し、冷酷極まりない軍事総帥様の執務室へと至る。
「聖女様!? 何事ですか!?」
暇そうに欠伸をしていた衛兵は、ネグリジェ姿のまま駆けてくる聖女様に気づき、声を裏返した。
王宮への出入りだけでも厳しく制限されているというのに、彼の執務室へ入室できる人物となると更に少ない。なにせ、セヴィリオ=シャレイアンは名前が示す通り、ここシャレイアン王国の王族でもあるのだから。
「何でも良いから開けなさい!」
彫刻の施された荘厳な扉の前で、リアナーレは衛兵に掴みかかった。若い彼は、薄っすら肌が透けて見える装いの聖女様から、気まずそうに目を逸らす。
「ご勘弁ください。誰も通さぬようにと仰せつかっております」
「リアナは嫁でしょう? 嫁すら通せないと言うの?」
「そうですが、総帥は今……」
騒ぎが中まで聞こえたのだろう。中から扉が僅かに押し開かれる。男の姿は見えず、隙間から感情のない声が降ってきた。
「何事だ」
「あら。セヴィリオ様、ご機嫌麗しゅう。嫁を看取りにも来ないだなんて、何様なのでしょう。ああ、名ばかりの第二王子様でしたっけ?」
リアナーレは腰に手を当て、扉の向こうに立つ男を挑発する。
「リアナ様、いくら貴女でも今の発言は不敬罪にあたります」
衛兵はセヴィリオの機嫌を損ねないよう慌てて忠告するが、聖女相手に無体を強いることもできず、額に汗を浮かべて狼狽える。そうこうしているうちに、勢いよく開かれた扉が衛兵の後頭部に激突した。
ゴンッ、と鈍い音が廊下に響く。
「セヴィー……貴方って本当に最低」
リアナーレは前髪をかき上げ、もう片方の手を主からの一撃にうずくまる、哀れな衛兵へと差し伸べる。事故を引き起こしたセヴィリオは悪びれることなく、ただ真っすぐリアナーレ、いや、リアナを見つめていた。
「リアナ……生きてたの? 体は大丈夫?」
声に光が灯った気がした。いつもの仏頂面からは想像のつかない情けない顔で、冷酷王子は聖女を腕に抱く。彼のアイスブルーの瞳には、安堵の色と、うっすら水の膜が浮いている。
「うん。生きてるみたい」
リアナーレは体を硬直させた。好きな男に抱き締められたことへの高揚と共に、胸を抉るような絶望に襲われた。
――彼が、望んでいるのは私ではない。
セヴィリオは、死を目の当たりにするのが堪えられないほど、星詠みの聖女様のことを愛していた。その事実に、リアナーレは胸を締め付けられる。
嫁を看取りに来ない彼の薄情さに怒ったのは建前だ、理由づけだ。本当はただ、リアナーレ自身がセヴィリオの顔を見たかっただけなのだ。
「良かった、リアナ、良かった……」
生きていてくれて良かった。セヴィリオは震える声で何度も呟く。彼の背にそっと手を回し、リアナーレは無理に笑う。
「もう大丈夫だから。泣かないで、セヴィー」
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