傘とバイオリン
朝、僕はバイオリンの音色で目を覚ます。いつも隣家から聞こえるのだ。それも7時きっかりに始まる。昔からそうなのだ。隣家には少女が住んでいる。彼女がバイオリンを引いているのだろう。親の言い付けなのかお稽古なのか、いつも持ち歩いている。外で見たこともある。だが話したことはない。顔も合わせたこともない。それくらいの関係なのである。
ある日、僕は徹夜で課題をしていた。終わったのは空が白んできた頃であった。そのまま寝ても遅刻するので、特にすることもなく、ぼうっと空を眺めていた。ふと隣家の窓に目をやると、彼女がいた。時計を見ると、まもなく7時になる。もうそんな時間になったかと思った。そういえば彼女がバイオリンを引くところを今まで見たことがなかった。眠気が覚め終わる頃には隣家の窓に彼女はいないからである。僕はそのまま窓越しに彼女の演奏を聞いた。いつものように綺麗で繊細な音色である。曲名は知らないし、僕は素人だが、とても上手だと思う。その時彼女の顔が一瞬こちらを向いた。美しく艶やかな長い髪がはらりと舞い、顔が見えた。顔は整っていて目は細く、とても美人だった。しかしながらどこか物悲しげな表情をしている。瞳の中は暗かった。演奏が終わった後、彼女がこちらを見たてきた。そしてすぐに僕と目が合った。なにかを感じたのか、彼女はそそくさとバイオリンを片付け、ブラインダーを閉めてしまった。僕は悲しかった。こんなに悲しい朝はない。いつもあのような表情でバイオリンを引いているのか、そう考えただけで胸が詰まった。
その日、僕は課題を提出し、なんとか終わらせる事ができた。早く帰ってゆっくりしようと思ったが、帰る頃には急に酷く雨が降降りだした。僕は普段からカバンに入れてある折り畳み傘を取り出し、急いで家に向かった。どれくらい進んだだろうか。ふと前を見ると少し先に彼女がいた。木の下のベンチで雨宿りしている。しかし急な雨のせいか、彼女の白い服は濡れてグッショリしていた。顔は相変わらず物悲しげでうつむいていた。うつむいて膝に乗ったバイオリン入れを、ただ眺めていた。僕は虚しくなった。なにか彼女に出来ないか、そう思った。そして意を決して、彼女に話し掛けた。「この傘どうぞ」彼女は困惑しているようだった。そして彼女が何か言いかけようとする前に、こう言った。「良いんです。いつも楽しく聞かせてもらってますから。その御礼です。」彼女は、顔をはっとさせ、少し照れくさそうにした。僕もなんだか照れくさくなってしまった。「それじゃ、また、バイオリン、頑張ってください。」そう言って僕はそこを離れた。
翌日から、バイオリンの演奏時間が少し伸びた、彼女は笑ってバイオリンを演奏するようになった。今度道でまた会ったら、その時は、前よりもっと、長く話をすることを心に決めた。
おわり