2019年4月25日三題噺
「ふぅースッキリしたぁ~!」
すさまじい腹痛に襲われてトイレにかけこめば、見なくてもわかるぐらいに大きなものが出て行った。
晴れやかな気持ちで尻を拭いて立ち上がり、さあ流そうかと振り返れば、そこには――
「こんにちは。今、あなたに生んでいただいた魚です」
魚が便器の中にいた。
それは銀色に輝くウロコを持つ美しい魚で、トイレの封水で優雅に長い体をたゆたわせる様には思わず目を奪われる。
そいつは尻を拭いて捨てられたトイレットペーパーを邪魔そうにしっぽでどかしながら、生きた魚のような目でこちらを見上げて言う。
「油で揚げられた時にはもうダメかと思いましたが、あなたが今にも焼け死にそうな私を体の中に避難させてくださったおかげで、こうして今、生きています」
きっと『揚げ魚の踊り食い~』とか宴会芸を披露したのがダメだったのだろう。
いつもそうだ。合コンで女の子に気に入られようと変な芸ばかり披露している。
その結果――魚を尻から生む羽目になったのだ。
「恩返しをしたいんです」
魚は言う。
瞳はつぶらだった。嘘を言っている気配もない。心のしんからこちらに感謝しているような、清い想いを感じさせる顔つきをしていた。
「どうか、なんなりとおっしゃってください。私にできることでしたら、なんでもいたします。このまま竜宮城にお連れしてもかまいません。なにせ私――リュウグウノツカイですので」
それが食用魚かは知らなかったし、なんか恐くて調べる気にもならない。
でもこの中華料理店には二度とこないだろう――魚としゃべっていくうちに、俺はそう決定したのだった。
しかし願いを叶えてくれるというのは魅力的な提案だ。
俺は魚に願った。
「どうか、全部『なかったこと』にしてほしい」
「はい?」
「便所で生んだ魚に『願いを叶えてあげよう』と言われているこの状況、すべてなかったことにしたい」
たらふく飲んでたらふく食べた――
だから幻を見ているのだと、そう信じたかった。
自分の尻からこんな立派なものが生まれたなどと、認めたくはなかったんだ。
「わかりました」魚は重苦しい声で言う。「あなたが望むのでしたら、なんなりと。私はあなたの願いを叶えましょう」
「すまない……」
「ですが、よろしいのですか? 竜宮城という楽園へ招待することも、本当に可能なのですよ。今、人間には竜宮城のことが伝わってはいませんか? あそこは本当に楽園です」
「まあ伝わっているけれど、タイやヒラメに舞われても……」
「しかしあなたは踊り食いが好きなのでしょう? こんなに長い私を丸呑みしたぐらいなのですから……」
「『タイやヒラメが舞い踊る』ってそういうアレなの?」
「そうですね。比較的」
「そうか……なかったことに」
「ああ、あと、乙姫様、綺麗ですよ」
「う、うーん。綺麗って魚基準だろう?」
「乙姫様は――肺呼吸です」
「つまり魚類ではない?」
「哺乳類です」
「なんと」
俺は哺乳類と恋愛をしたかった。
恋に飢えていたんだ。今も合コンの最中で、ここは中華居酒屋のトイレで、だからこんな長々と魚としゃべっている場合では全然なかった。
しかし彼女がほしくて合コンに来ているんだから、乙姫様を彼女にできれば、そもそも合コンに戻る理由もなくなる。
今の俺はかわいければオラウータンでもチンパンジーでもいいような気分なので、乙姫様が哺乳類だという情報だけでだいぶ心が竜宮城にかたむいている。
「しかし一つ気になるんだけど」
「なんでしょう?」
「今から竜宮城に行く場合、俺はどうやって竜宮城に向かうの?」
「私がご案内します」
「どこから?」
「それはもちろん、ここから」
俺はトイレの水洗ボタンを押した。
きらめく銀色のウロコを持つ――そもそもリュウグウノツカイとやらは本当に銀色か? ――魚が、その長い体をくねらせ、便器の奥へと吸いこまれていく。
ごぼり、とトイレはすべてを飲み込んだ。
俺は排水溝のところであの魚が詰まってないか不安に思いながら、トイレを出る。
席に戻れば女の子は誰もいなくて、でも、同性の仲間たちは二人とも残ってくれていた。
そいつらは気落ちした様子もなく、俺に向かって「よお」と手をあげ、たずねてくる。
「便所長かったけど、なんかあったか?」
俺はほほえんで答えた。
「いいや、なにもなかったよ」
リュウグウノツカイは『こんにちは』とあいさつしましたが、作中時間的には『こんばんは』が正しいです。