178.番外3:メイメイデイ
メイメイデイの街外れには、海棲獣人や魚人が正式に街に入ってくるための海関門が存在する。その関門のそばで、幼いシャチの少女とその母親が老婆に別れを告げていた。
「それじゃおばあちゃん、またねー」
「ティッカ。デリリアと一緒に、寄り道せずに帰るんだよ。最近、海も荒れてきてるようだからね」
「うん、わかってます!」
「ティッカもちゃんと分かってるわよ、お母さん。それじゃ」
幼子のティッカ、母親のデリリアを見送って、幼子にとっては祖母に当たるその老婆は「……やれやれ」とシャチ獣人独特の発声でため息をついた。地上に住んでいる者、特に人間にはぴい、という笛に近い音にしか聞こえないということだが。
「やれやれ」
今度は、他の種族にも聞こえるように発音する。娘と孫についてではなく、メイメイデイの外れにまで足を進めてくる客人が少なくなったことに、だ。
少し前、ティッカが懐いた幼い獣人の少女やウサギ獣人の兄妹を連れた僧侶の一団を見送ってから、『封の舞台』には人が来ていない。道に迷った者すらも来ておらず、他人から見れば老婆の趣味はただの無駄足となっている。
「ここにいたのか」
耳が遠くなったわけでもないが、年をとっている上にもともと海の中で暮らしていたこともあり歩くのは得意ではない。それ故の散歩という趣味なのだが、若い衛兵たちに取り囲まれる場から逃げ出すには無理があった。
「何事じゃあね? マーダ教との戦の折でもないのに、わしら海棲獣人に剣先を向けるのが仕事じゃなかろ」
中でも若い、というよりは老婆にも分かるレベルで幼い顔をしている衛兵の一人が、彼女に剣の先を突きつけている。そんなことせずとも逃げないのに、と呆れながら老婆は用件を問うた。
「ここ一ヶ月ほどの間に、『封の舞台』を訪れた者を見ているだろう。その話を、聞かせてもらおうか」
「おやま、何でまた」
「マーダ教信者が紛れ込んでいた可能性があるからだ」
よくおっしゃることで、と老婆は声に出さずに呟いた。ぴゅい、というその音は人間が多く構成されている衛兵たちには、ただの鳴き声にしか聞こえないだろう。
そんなもの、街外れの散歩を趣味にしているただの年寄りよりもずっと、衛兵の方が見つけられるはずなのに。
「ちゃんと『封の舞台』を目当てでやってきたのは、僧侶様とそのお連れ様ばかりだよ」
ただ、嘘をつく理由も老婆にはない。故に彼女は、事実だけを口にしてみせる。その中にマーダ教の信者が紛れ込んでいても、自分には分からないのだから。
それでも、少しくらいは悪態をついても良いだろう。年寄りの冷や水、とはよく言ったものだ。何しろもともと、水の中で生活していたわけだし。
「何だいあんたら、僧侶様が邪神徒連れて修行の旅路についているとでも? そりゃ、サブラナ・マール様を馬鹿にしておいでじゃないかえ?」
「黙れ婆ぁ!」
「きゃあ!」
きゃあ、という悲鳴は老婆が上げたものではなく、その一団から離れた場所で上がったものだ。発言者が女性であることに間違いはなく、そしてこの場にいるほぼ全員が彼女の素性を知っていたのだが。
「何をしておられるのです! お年を召された方にそのような暴力、見捨ててはおけませんわ!」
「何だと!」
「ま、待て! その人はっ」
老婆に剣を突きつけていた若者だけはそうではなく、抜き身の剣をぶら下げたまま彼女につかつか歩み寄っていく。隊長らしき人物が一瞬だけ止めたけれど、本気で止めるつもりはなかったらしい。
「暴力には、暴力ですわ!」
「ひゃっ!?」
ぽいと投げられる、という表現がこれほど似合う状況もないだろう。若い衛兵はその女性に襟を掴まれ、文字通り投げられたのだ。それも、仲間や老婆の頭上を越え、関門も越えて海の中へ。
「し、失礼いたしました!」
「お仲間を拾っておいでなさいな! ……あら、置いてきぼりね」
他の衛兵たちは、投げ捨てられた仲間をあっさり見捨てた。そもそもきちんとした衛兵だったのかも疑わしい一団は、さっさと逃げ去ってしまう。
「大変ですわね」
「全くじゃ。こんな年寄りが、何を知っているんだか」
老婆に言葉をかけながら歩み寄ってきたのは、この街でも有名な宿を一人で切り盛りしている支配人だった。熊獣人だという話であり、その体力や腕力が人間の比でないことはメイメイデイでは基礎知識である。
「衛兵の質も落ちましたわね」
「めぼしい娘どもは皆マール教に取られるからの。やる気も出んじゃろ」
「あらあら。では、そのマール教にこっそり告げ口しておきましょうね。それと、衛兵本部にも」
言葉を交わしながら老婆はちらり、と彼女の目を見る。普通の者には分からないだろうが、僅かに淀んだその目には流し込まれた他者の精気、その力が見て取れた。
「婆は家に帰るでな、お前さんも気をつけるこった」
「ありがとうございます。大丈夫ですわ」
その気配を周囲に漂わせることもなく、彼女は軽く頭を下げると去っていった。己の住居であり職場である、あの宿に帰るのだろう。
「しかし、誰じゃろね」
あの熊女に精気を流し込んだのは。
そこまでを、老婆が口にすることはない。誰であろうと老婆自身に関係はないからだ。
ただ。
長きにわたりアルニムア・マーダ神に祈りを捧げてきた者として、どこか懐かしい精気を流し込まれた支配人が羨ましい、と少しだけ思っただけで。




