ミッドナイト・エンド
響くのは、私の勢い良い足音。
カツカツカツという、小気味良い音だけではない。
「はあはあはあっ……」
私の吐く息も、上がってきている。
人気はない。
ただ、月明かりのみが、ここを照らしている。
木製の廊下。それが永遠にも思えるくらい、長く感じられる。
左には、大きな窓。
そして、右には数々の教室。
ついでにいうと、この建物、壁も屋根も全て木製だったりする。
そう、今は深夜。
ひび割れた時計が指し示す時刻は、7時だったが、もう止まって何十年も経っていた。
そんな中、誰もいない場所で私は走っていた。逃げていたのだ。
「そろそろギブアップしたら?」
幼い少年の声が私のすぐ後ろに聞こえた。
ふわりと、セーラー服の襟がスカートと共に翻る。
「なっ……なんでっ」
彼は宙に浮いている。
そして、威圧的な笑みを浮かべて、私を見下ろしている。
「それを僕に言わせるの?」
少し大人びた声が、私の苛立ちを募らせていく。
「わ、私はまだ……諦めない、からっ!!」
そうだ、ここで立ち止まったら、彼に捕まってしまう。
そうなる前に、私は逃げなくてはならない。
彼の来ない場所。
彼が入れない場所。
それは……どこ?
いくつもの教室や倉庫、トイレに至るまで、様々な場所を思い浮かべたが、そのどれもが彼から逃れられそうにないように感じる。
それでもあきらめることなく、廊下を走り、階段を上がって上がって。
そして、私は逆に追いつめられてしまった。
ドアを開いたとたん、強い風が私に吹き付けられた。
屋上。
いつの間にか、ここまで来てしまった。
空には赤く染まる満月と星とが、私を無慈悲に迎えているようだ。
ドアのカギをかけて、私は屋上の端まで走って、やっと息をついた。
「はあ、はあ……」
ここまで来れば、きっと、もう大丈夫。
カギもかけた。
外に来た。
だから、もう………。
「はい、見つけた」
ふふふと言う笑い声と共に、彼が現れた。
「迷いなく上に行くから、そっちに何か面白いのがあるのかなって、思ってたんだけど……屋上? つまんないの」
「あんた、何しに来たのよ! こんなことして、何が面白いのよ!」
こっちは突然追い回されて、逃げて逃げて、かなり疲れてる。
それだけじゃない、彼の威圧的な『なにか』。
それがとてつもなく、『恐ろしい』。
「私はここで静かにしてたのよ! もういいでしょ? 帰ってよ、もう!」
思わず私は叫んだ。
小さな可能性でも、僅かでも可能性があるのなら、それに縋りたい。
「静かにしてた? まあ、霊感ない人にはそんな風に感じるかもね。でもさ」
すうっと彼はその瞳を細めて、口の端を釣り上げた。
「知ってる? キミ、もう死んでるって」
「知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない、嘘言わないで嘘でしょなんでそんなウソをつくのっ!?」
何が何だかわからない。
わからない相手は、早く……早く殺さないと。
「やっと本性を出てきたみたいだね? うん、力はまあまあかな」
「煩い、黙れ!」
手を薙いでかまいたちを生み出す。
その刃は彼目掛けて音もなく、突き進んでいく。
そう、これで彼を切り裂いて、体を貰うのだ。
「効かないよ」
彼の目の前で、私の放ったかまいたちがあっという間に消滅した。いや、かき消された?
すとっと、軽やかな音を響かせ、彼は地に降りる。
「僕は君が欲しいんだ」
「なっ……何よそれ!」
「もらっても良い?」
「知らない、あんたの方こそ、その体ちょうだい!!」
その瞬間、私の手から生み出した激しい黒い炎と、彼のどこから出したのか分からない、凄まじい閃光がぶつかり合った。
私は屋上の端に追いやられた。
服もボロボロ、血だらけで肉まで見えてる気がする。
無傷の彼が、ゆっくり私の方にやってきた。
「まさか、あれだけの力を発揮するなんて、思わなかったよ」
「……な、さい……よ……」
「何?」
彼はしゃがみこんで、私の顔を覗き込む。
「殺しなさいよ、あんたの手で、わ、わたしをっ!!」
彼は思わず笑った。けれど、先ほどよりも少し柔らかい温かみのある笑みだった。
「だから、死んでるってば」
「なら、一思いに、消しなさいよっ」
こっちはあんたの攻撃で、体が全然動けないんだからね!
そんな思いを込めて叫んだ。
「うん。でもその前に一つ、教えてあげようと思って」
「何よ」
「君、ここから出られなかったでしょ?」
「……それが何よ」
「君はここに縛られてたんだ。昔、ここで百物語をやった子達がいて、それが呪いになったみたい」
「百、物……語……」
その言葉にどこか、聞き覚えがあるような気がした。
「だから、君はここから出られなかったし、この世界を呪った。まあ、仕方ないよね。この場所がそういうのをここに留めて、出さないようにしてたみたいだね。あのお社が壊れてしまったから、特に。で、君はここに閉じ込められた、たった一人の」
「言わなくていい」
私の言葉に彼は口を噤んだ。
「それが、どうかしたの? あんた、何しにきたの?」
こっちは痛いんだ、早くしてくれと苛立ちながら尋ねると。
「うん、君をここから出してあげようと思って」
「無理よ。私も何度も試したし、神様でなきゃ、そんなこと無理に決まってる」
そうだ。神様でなくっちゃ、こんなところから出られるわけがない。
「あれ? 気付かなかった? ここに誰も入ってこないって。出られないし入れない場所、それがここだよ?」
「……え?」
彼の言う言葉が、どういうことかわからなかった。
「というわけで、ほら、起きて。もう平気でしょ?」
そのまま言う通りに、彼の手を取り、起き上がる。
立ち上がって気づいた。いつの間にか私の怪我は何一つ残っていなかった。
あれだけ酷い傷だったのに、あの怪我は夢だったのか?
それとも…………。
いや、それよりも、この湧き上がる感情はなんなのだろう。
満たされるような、暖かい暖かいものが、胸いっぱいに広がっていく。
そう、まるで母親に抱きしめられ、安心を得るような、そんな気持ち。
気が付けば、私は、幼い幼い子供になっていた。
「ふええええええええ」
彼は優しく私を抱きしめて、背中をとんとん叩いてやる。
零れる涙をそのままに、私は泣いていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ダメだって言われてたのに怖い話してごめんなさいごめんなさい」
謝罪の言葉が零れていく。
「もういいんだよ。もうおしまい。ほらみて、お父さんとお母さんが迎えに来てる」
抱きしめていた彼は、私を大地に戻してくれた。
気が付けば、そこは様々な花が咲き乱れる、美しい花畑で。
その遠くで、見知った懐かしい、ずっとずっと会いたいと思っていた二人がいた。
「お父さん、お母さんっ!!」
私はすぐさま、彼らの元へと走っていく。
優しく微笑む二人の胸の中へと。
「……ふう、終わり」
誰もいない屋上で一人、彼は佇んでいた。
気が付けば、彼の隣に一人の青年が立っていた。
「ねえ、僕をここに呼んだのって……」
『お蔭でお前の力を抑えることが出来ただろう? あの娘の残滓は他の霊よりは遥かに上だ』
「まあ、そうだけど……もういい。そういうことにしておく」
『そういうことにしておけ』
そう言い残し、青い髪の青年はすうっと姿を消した。
「さてっと、僕も帰ろ」
彼は、屋上から難なく降りると、一度も振り向かずに、その場を去った。
古ぼけた校舎が月明かりで影を下ろしている。
彼の姿が見えなくなると、校舎もまるで見送ったかのように音もなく崩れ去った。
その後に残されたのは、小さな小さな真新しい社。
後日、近所に住んでいた老夫婦が見つけるのだが、それはまた別の話。
静かな夜。そこには、美しい蛍が舞っていた。




