17》優しい無関係
「偶然ですね。おにいちゃん」
暗がりの中では、フローラの顔を鮮明に瞳に映すことはできない。だが、どこか楽しんでいるような声色なのは聴いていて分かる。子どもらしい無邪気さと割り切れば耳障りはいい。だが、誰にとってもトラウマの中心地であるここで。更には裏切り者であるカナルと二人きり、いや三人きりだというのに、どうしてそんな軽妙としていられるのか。
「偶然じゃない。フローラならここにくると思ったんだ。アローンは今どうしている? 今、話せるのか?」
「ふーん。私じゃなくて、弟に用があるんですね。……ちょっと妬けちゃいますね」
フローラは拗ねたように、顎を上げてそっぽをむく。だが、その仕草はどこか嘘っぽくてわざとらしい。
「……悪いけど、フローラ。ふざけている場合じゃないんだ。早くアローンと話をさせてくれ。今すぐにでもここに大挙として《灰かぶりの銃弾》が押し寄せてくるかもしれない。そしたらここに残っているかもしれない手がかりも根こそぎ奪われてしまう」
「それで? 手がかかりはありましたか?」
急いでいると言っているのに、どこかゆったりとしたいつもの口調でフローラは答える。こちらが焦れば焦るほどに、楽しんでいるような笑みを深める。どうやら確信犯のようだ。ここで激昂してもいい方向に事態は転がらない。だから、声のペースを少し落とす。深呼吸を一度小さくして、
「……いや、なにも」
「そうですよね。全てが闇に葬られていた。『グルマタの惨禍』なんてまるでなかったかのように。街を歩いていてもそうです。誰もあの事件について自発的に口を開こうとしない。でも――それのどこが悪いんですか?」
ふっ、とフローラは微苦笑する。肩の力を抜いて、どこか悟ったような顔になる。
「辛いことから逃げることは、ほんとうに悪ですか? 悲しい過去を忘れてしまいたいと思うのは罪ですか? ……私はそうは思わないですね」
「どういうことだ?」
だ、か、ら、と語調を強めると、
「忘れなきゃいけないことだってあるんですよ。見なくてもいい事実だってある。だから、もうやめませんか。詮索するのは。事実を知ろうとするのは。そんなことしたって、いったい何の意味があるっていうんですか? もう、三年も前のことなんですよ。いつまで過去をひきずったままでいるんですか?」
『グルマタの惨禍』。あの大惨事を過去のことと斬って捨てるならば、あのことも全てなかったことにしてくれるのだろうか。訊くのが怖い。もしも許せないなんて言われたら。真正面から拒絶されてしまったら、これからどんな風にフローラの顔を見て話せばいいのだろうか。それでも意を決して質問する。
「……フローラは、俺がやったことを何とも思ってないのか?」
「おにいちゃんが、私たちを裏切ったことですか? そんなのいつものことじゃないですか。勝手に先走って、それで痛い目にあって。でも――」
「だからなんなんですか?」
「そんなこと、どうでもいいですよ。誰にだって失敗はあります。だから、私は忘れることにします。だって、おにいちゃんが何をしたって、私には無関係ですからね」
「………………」
無関係だから。価値がない関係だからこそ、こうしてフローラはカナルのことを許してくれるのだ。フローラはとても優しい。こうやってどこまでも優しくなれるってことは、そいつのことを全く興味がないから。だから、カナルに激怒する要素もないのだ。
痛い失敗をしても否定せずに、とろけるような笑顔でそれを認めてくれる。なかったことにしてくれる。それは一緒にいて心地よい。年下なのに、どこまでも甘えていたい。なにも許してくれるっていう安心感が、彼女にはある。
「…………フローラのことを、寛大でいい奴だって思う奴は多いと思う。俺も本当にフローラがいてくれて本当に嬉しい。どんな手痛い失敗をしても、それを全部許してくれる。欠点も見て見ぬふりをしてくれる。だけど――きっとそれはいけないことなんだよ」
逃げることは悪か。忘れることは罪か。
その答えは未だ出すことができない命題だ。けれど――
「優しすぎる奴は優しくないって、俺ついさっき教えられたんだ」
優しすぎることは、良くないことぐらい今のカナルにだってわかる。差別されてきたあいつが、他人を差別しなきゃいけないって言った。それは涙がでるほどに振り絞った言葉だったはずだ。辛かったはずだ。それでも、他人は差別しなきゃいけない。他人にそそぐ優しさは均等であってはならない。優しさにはふり幅が必要なんだ。
「他人の汚い部分を見逃すことができるのは、優しいから。……そうして優しい奴は、汚れることなく、清廉なまま生きる。……でも、それは本当に優しいのか。自分が綺麗なままでいたいだけなんじゃないのか。汚くなる覚悟がないだけなんじゃないのか」
他人と摩擦することは痛くて面倒だけど。それでも怒らなきゃいけない時は怒らないといけない。そうですね、あははは。どうでもいいです。と、いつもフローラは笑って誤魔化すけれど、それはそれで悲しいのだ。怒って欲しいのだ。感情を剥き出しにしないってことは、信頼されていないってことで。まるで二重人格の人間のように、表面上だけ綺麗に顔を取り繕っても不気味なだけだ。
「だから……ごめん。謝ってすむことじゃないけど、でも……俺は汚い過去をなかったことにはできない。過去をひきずるのはよくないことだけど、過去を忘れた振りをするのは俺にはどうしてもできない。俺にもあんまりうまいこと言えないけど……。明日に向かって進むためには忘れることじゃなくて、ケリをつけることが必要なんじゃないのかなあ」
かっこをつけることなど、いまさらできない。《フルハートファミリー》のボスとして、何か気の利いたことを言えればいいのに。
だけど、カナルは彼女たちを裏切ってしまった。だから時折口ごもりながら、自信なさげに話してしまった。でも、それでも、フローラの心には響いたかのようだった。口元に手を当てて、笑いを隠すようにして、そして――
「おにいちゃんのそういところ……。ほんとに――」
「殺したいぐらい嫌いです」
ドゴォンンン!! と、フローラが手をかざした瞬間――カナルが立っていた場所が陥没する。不可視の攻撃。咄嗟に腕を交差するが、その腕がまるで魚のように切り刻まれる。
「私が許してあげるって言ってるのに、どうしてそうやって既に終わったことを蒸し返そうとするんですか。これは、全部おにいちゃんのためなんなんだよ!? 私だって本心ではおにいちゃんのことなんて許してるわけないじゃないですか!!」
地下道を木霊するフローラの声があまりにも大きくて、脳が痺れたみたいに回転しない。つきつけられた彼女の本音の声は、カナルの心を打ち砕く。ひくっ、と彼女はしゃっくりをするみたいに声を上げると、
「……それでも、私は! 私はおにいちゃんのために、我慢してあげてたのに!! なんでいつもそうなんですか? どうして、そんな風に他人の好意を平気で踏みつけるような真似ができるんですか!! おにいちゃんは、ほんとうに他人の気持ちが分からない人だよね!」
「……俺のためになるかどうかは俺が決める。だから、アローンと話をさせてくれ!!」
「ほ、ん、と、に、うざいですね! そうですか。私はあくまで眼中にないんですか。そうですか。でも、アローンは、あなたと話したくないみたいですよ!!」
ギン! ギン! と、まるで無数の刃物が石畳を這っているかのように、切り傷が増えていく。フローラの周囲に何か見えないものが渦巻いていく。まるで、結界のようなものが、巻き上がった土煙すら切り刻む。
「私とアローンは双子だけど、一瞬早く私の方が速く生まれたんです。だから私はおねえちゃんなんですよ。おねえちゃんとして、自分の弟の意見を尊重してあげたい。私だって同じ気持ちだから。あなたとアローンは絶対引き合わせたくない。だから――」
「今から私が全てを忘れてしまいたいっておにいちゃんが懇願するまで、切り刻んであげます」




