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12》うどんの記憶

 ツキミは、うどんが好きだった。

 喉を通る時に、麺がまるで踊っているような感覚を味わうことができるうどんのことをずっと好きだった。愛しているといってもいい。毎日食べている。一日三食うどんであっても一向に構わない。それほどまでに好きだったのは、初めて口にした食べ物がうどんだったことも関係している。

 いや、製造されて初めて口にしたものがうどんだったのか、正確には分からない。目が覚めた時に。初めてこの世界を認識した時に、ツキミは路頭で倒れていた。自分が何者で、ここがどこなのかも分からなかった。

 ただ、ご主人様に見限られたことだけは認識できた。

 《無心機》というものは、一生決められた家に住み込む。そしてそこにいる家族に一生仕えるものだ。壊れるまで。それこそ、何世代にも渡って一つの家族の従者として働き続ける。それが《無心機》としての存在意義。誰かのために命を消費する。心は必要なく、機械的に奉仕する。しかし、ツキミはその思い出を喪失していた。

 『メモリーダスト現象』というものを体験した時。他の《デバイサー》と違って、ツキミはあまり当惑しなかった。ああ、またか、とそんな平素な感想しかでなかった。ツキミは、既に記憶というものをどこかに置き忘れていた。未だに、ふと、何かを思い出しそうな時がある。だが、何も思い出せない。記憶の片鱗ぐらいは掴めるが、核を握りしめることはできない。掌中から零れて、滑り落ちるだけ。

 初めて記憶という記憶が生まれた時に見たのは、驚きに満ちた男の顔だった。そいつは露店で売っていたうどんをかきこんでいた。ツキミが倒れているというのに、発見した男は手に持っていたうどんを啜っていた。

 人間と《無心機》というものは、容姿的な見た目の差はまるでない。だから、ツキミはか弱い女性に見えていたはずだ。一般女性が道端で倒れていれば、何かの事件に捲き込まれたものだと取り乱して大騒ぎしてもいい。助けを呼ぶために奔走してもいい。もしくは浮浪者を発見したと思い、目を潜めてもいい。

 しかし、彼は眼前で女性が倒れていることなど日常茶飯事とばかりに、落ち着きを払っていた。そして、湯気の出ている器を大事そうに。滑って全てが台無しにならないように、ガッチリと掴んでいる。

「……ん? ああ、もしかしてこれ食べたいのか?」

 そいつは、何を思ったのか、ツキミがうどんを食べたいがために眺めていたのだと思ったらしい。じゃあ、あげるよ、うどん、とかそんなことを平気で言ってくるのだ。促すようにして器を口元近くまで運んでくる。箸を持って、ふー、ふー、と熱い麺で舌が火傷しないように気遣ってくれた。ずたぼろになっていたツキミが腕を動かすのも億劫なのだと思い込んで、そこまでやってくれた。

 ああ、こいつは馬鹿なのだ。

 見ず知らずの。しかも、極めて怪しい者に対して差別しない。それどころか、身分を問いただすこともしない。押し付けがましく、うどんを食べさせようとしていた。しかも、食べかけのやつで。それだけで沸点を超えてしまう人間だっているだろう。それなのに、不躾な善意を何の疑問もなく振る舞える人間というのはあまりにも珍しい。

 覚醒したばかりで混濁した意識の中。記憶がなくとも、常識はあったツキミは呆然としてしまった。そしてあろうことか――ツキミはうどんを啜ってしまった。考えるのも、手を払いのけるのも面倒だったからかもしれない。

 温かかった。

 眩暈がするほどまでにうまかった。スープが、それから麺が、食道をスルスルと滑っていく。《無心機》は食べるものはなんでもいい。何かを口にするだけで、大概のものは動力エネルギーとして変換することができる。だから、味なんて関係ない。生きるだけならば、楽しく生きる必要なんてない。だけど、その時食べたうどんを口にした瞬間から、ツキミはきっとうどんなしでは生きてはいけない体にされてしまった。

 責任を取るべきそいつは、またうどんを差し出してきた。

 それを見て、無表情だったツキミが満面の笑みを眼前の男に晒してしまったのは一生の不覚だった。彼には、警戒心などまるでなかった。二口目も必ず食べると思い込んでいるようだった。その勘違いを正すべきだったのに、気が付けば、こくり、と顎を引いていた。それを見やって、そいつはまたうどんを口元まで運んだ。

 いつの間にやら膝に頭を乗せていて、生まれたばかりの幼児のように食べさせられていた。恥辱の限りだというのに、もはや拒絶することは思考にない。ただ口を動かしていた。――生きるために。

 記憶を喪失することに慣れきった《無心機》。

 過去に執着することなく、今を生きる機械人形。

 それなのに、生まれたばかりのこの記憶は忘れてなどなかった。まるで、これが大切な記憶のように、ずっと憶えていた。


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