11》三つ目の答え
ツキミは土煙に包まれていて、様子をうかがい知ることはできない。だが、相当の傷を与えられたはずだ。頑丈な体躯を誇る彼女だとしても、柱の一撃をまともに喰らえば止まってくれる。そのはずなのに、どこか違和感を覚える。何かがおかしい、と。
……そうだ。《無心機》である彼女は、《無心機》であるというだけで強い。体中にいくつもの武器を搭載していて、彼女一人だけ普通の人間何人分の兵力、武力があるのだろうか。しかし、それ故に失念していた。強すぎるために、ツキミ自身の固有能力を未だに使っていないということを。と――
山のような瓦礫が転がってきた。
いや、転がってきたのではなく、地を滑ってきた。まるで氷の上をなぞるようにして、瓦礫が土煙の中から飛び出してきた。
「うっ――がっ!!」
咄嗟に腕を前にするが、高速で動いてくる瓦礫に為す術もなく飛ばされる。ゲホォ、ガホォ! と、両腕を地につけながら、まるでシルキーのように咳き込む。腕力でどうにかできることじゃない。能力で石畳の瓦礫を跳ね返そうともしたのだが、それも何故かできなかった。
もしも力づくで投擲するならば、あんなスムーズに瓦礫が動くことはない。山なりに、もっと無駄な動きをするものだ。軌道が読めるから、カナルだって避けることもできた。しかし、これはただの対人戦ではない。能力の違う者同士の対人戦だ。
「さっきの攻撃には冷や汗がでたけど、もう私には通じない」
ツキミの総身に降りかかっていたはずの香辛料が、冷や汗と共に浮き上がる。いや、それは汗ではない。水は膨れ上がって、まるで生き物のよう意識を持って蠢く。
ただの水ではなく、それはオイルだった。
ツキミの躰から分泌されるオイルは、あらゆるものを滑らせることができる。それが、ツキミの能力。常人には持ち上げられない瓦礫であろうが、簡単に滑らせることができる。重量や質量に関係なく、自らの武器として使える。柱が頭上から降ってきたとしても、それを滑らせることによって無傷でいることができる。……そして、自分の肉体であろうが、滑らせることもできる。
ツキミが一瞬で肉薄する。
カナルは真横に剣を振る。それで有効な攻撃が与えられるとは思っていない。ただ牽制のための一撃だったが、ツキミは腕で受け止める。鉄骨のような強度を誇る腕を斬り落とせるわけもなく。そのまま斬れずに剣を引き戻そうとするが、動かない。よく見れば、剣は腕にすら届いていない。ツキミの腕がいつの間にかオイルですっぽりと覆われている。そのオイルの上で剣が止まっている。刃がとおらない。
「私のオイルは、潤滑油として使えるだけじゃない。摩擦力を自在に調整することができる。だから、オイルに接したものを、全く滑らなくすることもできる」
ドンッ!! と、尖ったつま先を丹田に叩き込まれ、ツキミの腕に接着されている剣を手放してしまう。そうしなければ、戦うこともできなかった。どれだけ力を込めても、剣は滑らなかった。ならば、と。ダンッ!! と、ツキミの腹に右腕を叩き込む。だが、それは音だけで、今度はつるん、とツキミの躰を滑る。ツキミの躰の表面全てがオイルに包まれている。これでは攻撃の仕様がない。それなのに、ツキミの蹴りが突き刺さる。あちらが一方的に攻撃できるのは、摩擦力を自在に操れるからだ。
これでは、蟹の《バク》との戦闘時と同じだ。
物理的な攻撃しかできないカナルは、いかなる技もツキミの前では無力。しかし、今回は以前との戦闘とはまるで次元が違う。蟹の《バク》との戦いでは、不意を突けば勝てた。だが、今回は絶対にどんな攻撃もツキミには通用しない。直撃する前に、滑ってしまうのだから。
「うぉっ!!」
ズルッ、と足元が滑る。ツキミの躰から漏れ出たオイルが、いつの間にかカナルの立っている場所まで流れていた。そのまま倒れれば、四肢がオイルの水たまりにずっぽりと浸かる。それだけは避けなければならないと、服を操作して空中を蹴る。
オイルのない場所に着地すると、やはりズルリと右足が滑る。いたっ! と思わず口に出す。何度立とうとしても、こけてしまう。右足がいうことを聴かない。オイルが纏わりついている。右足だけでなく、ツキミから攻撃を受けた腹部等にオイルがくっついている。振り払うように触ってしまえば、そこにオイルが付着する。黙殺するしかない。
「まずい。このまま両足がオイルに包まれたら、今度は俺が操作されてしまうのか」
ならば、カナルの能力でオイルを操作するしかない。カナルの能力は無機質ならば、どんなものでも操作することができる。……はずなのに、身体にこびり付いたオイルは動かない。
「私のオイルはあらゆるものを滑らせることができるって言ったはずだ。カナルの能力でオイルを動かそうとしても、そのエネルギーそのものを滑らせてしまえば、オイルはカナルにくっついたまま。それでも無理に能力をしようするなら――」
オイルが爆発したかのように、付着していた手の皮膚が破裂した。
「ぐっ!」
オイルを動かそうと能力を使った。が、オイルの内部で衝撃は受け流され、腕に跳ね返った。しかもオイルはこびりついたままだ。一度くっつけば、それを引き剥がす方法は何一つない。それが、ツキミの能力。蜘蛛の巣にかかった獲物のように、じわじわと追いつめられていくしかない。恐怖に怯えて、手足をばたつかせることしかできない。
「このままでも私は必勝する。けど、私は血の通っていないこの手で自発的に終わらせたい」
ドガッ! とツキミに殴られる。防御しようとしたのだが、オイルに足をすくわれた。地を滑って、背中から貨物に激突する。
「私には綺麗な水なんて……。涙なんて流せない。あの死神ですら涙を流せたというのに……。《無心機》である私が流せるのは、この汚れたオイルぐらいなものぐらい。だが、私はこの冷たい手を薄汚れてでも、守りたいものを守ってみせる。あなたを傷つける覚悟があるといいながらも、まだ卑怯な提案を提示する用意が私にはある」
掠れた視界の中で観たのは、ツキミが地を手で触れているところ。オイルを浸透させるようにして流し込む。オイルとオイルは滑って、一瞬にして周りの地面全てをオイル塗れにしてしまった。カナルの倒れていた場所も例外ではない。手足にオイルがこびり付いて、立とうとしても滑って立てない。戦闘を続行できる状態じゃない。
「今ならまだ私たちはやり直せる。だから降参して。そして、もうあの《惨禍の死神》とはかかわらないとここで誓って。仲間にならないで。私たちを裏切らないで。たった一言だけでいい。『俺はもうこの一件のことは忘れる』……そう言ってくれれば、私はそれを信じる。嘘でもいいから、そう言って欲しい」
ツキミが圧倒的に有利な立ち位置にいるというのに、まだ慈悲に満ちた提案をしてくる。それに乗らない手はない。みんなのことを裏切ったのは《惨禍の死神》に洗脳されたからとか、もっともな言い訳を重ねたら、今の状態よりも一層みじめになれるだろう。
今からでも全てをなかったことに。三年前のことを忘れてしまえば、また元に戻れる。ギクシャクしている今の《ファミリー》は居心地が悪い。でも、ツキミがカナルの味方をしてくれるだけで、劇的にとはいわずとも、ゆったりとした時間を経て、違和感は解消されるだろう。そうすれば、心に渦巻く二つの巨大な罪悪感も風化する。《ファミリー》を裏切ったことと、それから彼女を助けられなかったことを。
「……そうだよなあ。忘れればいい。一度忘れていたことだ。もう一度あの記憶をなかったことにさせすればいい。白昼夢だと思い込んでしまえば、そこまで気にしなくてもいい。あの《惨禍の死神》がまた窮地に追い込まれたとしても、無視してしまえばいい」
たった一人、困っている人間を見過ごす。それだけで万事収まるところに収まる。肯定するか、否定するか。そんな二択問題すらなっていない。答えは一択だけだ。ただツキミの提案を肯定すればいい。
カナルは、ただ思うまま自分の心に正直に。きっと自分だけの言葉で、二択だった提案に、三つ目の答えで答える。
「この一件を綺麗さっぱり終わらせたら。……その時は、一緒にうどんを食べに行こう」




