01》裏切り者のデットエンド
この世は既に地獄。
そう評せざるを得ないほどに、凄惨な光景が視界に広がっている。薄汚れている石畳に倒れている人間たちは、ピクリとも動かない。自分たち以外の《デバイサー》は全滅しているようだ。
仄暗い地下道はうねうねと、まるで巨躯の蛇のように入り組んでいる。流れていたはずの悪臭漂う下水は、戦闘の余波で蒸散していた。全方位に穿たれた穴ぼこは、まるで大砲の弾痕のようで。剥き出しになった地面は、灼熱の炎で燃え上がっていた。
それらの被害、全ての惨禍を引き起こした地獄の使者は、たったの一人。
追走する《デバイサー》の誰一人として、それを人間と認識することはできなかった。悪夢の体現のような強さを持つ化け物があまりに悍ましかったのだ。
彼女はまるで、死そのものだ。
道端に咲いている花を無造作に踏んで四散させるように、命を狩っていく。感情などまるでないそいつを、撃滅させなければならない。しかし、そんなこと生き残った少人数でできるはずがない。そう思っているのは自分だけじゃないはずだ。だが、覚悟を決めなければ。相手を殺さなければ、こちらが殺されてしまう。それが頭で理解できていても、手を出すのに躊躇していた。行き止まりまで追いつめたというのに。ジリジリと複数人で囲みながら、標的へ距離を詰めることしかできなかった。
普段は縄張り争いでいがみ合うことの多い《デバイサー》たちが、今度ばかりは手を取り合って。多くの犠牲を払いながら、地の利を生かした人海戦術を駆使した。……したのだが、それでも――死――という人間の根源に巣食う恐怖に打ち克つことができない。手を出した瞬間に、殺されてしまうかもしれないのだ。
「うあああああ!」
精神が圧迫される時間に耐えられなくなった一人が、不用意に敵へと襲い掛かった。勇気を振り絞っての攻撃ではない。むしろ、その逆。気圧されているから、繰り出す拳にも隙が多い。
「やめろ!」
腱が千切れそうになるまで、必死になって腕を伸ばす。距離的にもタイミング的にも、決して間に合うことはない。このままでは、自分の仲間があっけなく命を散らしてしまう。だが、それでも見捨てることはできない。錯乱状態になったそいつに制止の声が届くはずもなく、
命狩る死神は吹き飛んだ。
「……………………え?」
武器や能力も使わず、錯乱状態に陥りながら死神を殴打した《デバイサー》は茫然としていた。それから仲間である《デバイサー》も目の前の光景が信じられないかのように棒立ちだった。当たるはずがなかった。この国の《デバイサー》が束になっても、たった一人の死神に勝つことができなかった。勝負することすらできず、追いつめることに苦心した。それでも、一人、また一人と倒れていった。
今までの彼女だったならばあんな何の工夫もない拳は、軽く躱していたはずだ。なのに、ああああああ、と呻きながら、地をのた打ち回っている。毛髪を掻き乱しながら、苦しんでいた。尋常じゃない様子で。明らかに、さっきの攻撃を喰らっただけの痛がり方ではない。
「なんだ……こいつ? もしかして、力を使い果たしたのか? だったら――」
そこからは、一方的な嬲り。立場が逆転した。なにせ、抵抗をしないのだ。今の今までずっと、圧倒的な力で数多の《デバイサー》を蹴散らしてきたのに。それなのに、まるで普通の女の子みたいに、そいつは――
泣いていた。
瞳に薄い膜を張りきることもできず。目尻から零れ出しているそれを目撃してしまった。
殴られ、時には蹴られた。あらゆる罵倒をその身に浴びながら、そいつの眼に憎しみの色は全く宿っていなかった。ただ底なしの闇のような、まったく感情のないもので渦巻いていた。
ボソボソ、と何かを呟いていた。その声はあまりにも小さく。独り言に収まりきるその言葉を拾いきるには困難で。彼女に対して何らかの疑念を覚えている者でないと、読唇できなかっただろう。
ハヤク、コロシテクダサイ。
それは、あまりにも。あまりにも、悲しい願いだった。最期に残す遺言が、そんな懇願でいいのか。そんな感情を最後の一滴まで振り絞って出した望みが、そんな最悪なものであっていいのか。
……もしかしたら、何かとんでもない間違いを自分たちは犯してしまったのではないのか。本当はこの死神は、悪ではない。彼女はこの惨状を起こしたくて、起こしたわけじゃない。何か事情があるのだ。ここでみっともなく弁解しても、理解されないようななにかがあるのだ。そうでなければ、あんな綺麗な涙を流すことなどできない。だから、
振り下ろされた豪打を受け止める。
「……なっ! お前――正気か?」
仲間を――《ファミリー》を裏切ることになっても、彼女を護りたい。散々追い回して、こんな酷い傷を負わせた責は自分にもある。今更、どんな顔をして謝罪すればいいのか。相対すべき者を見誤った罪を償うことなどきっとできない。傷つけた相手をこんな土壇場で助けたいと思うことが、どれだけ都合のいいことなのかも自覚できている。彼女とまともに眼も合わせることもできない。
「ああ、俺は正気じゃないな」
それでも、こうして前に立っているのは。盾になるようにして、割って入ろうとしている奴は、確かに正気を失っているのだろう。その証拠に、倒れ伏しているか弱い少女は、信じられないものを見るような顔をしている。
「もう……手遅れみたいだな。こいつは――もう操られているんだ! とっくの昔に、そこの死神に洗脳されちまってんだよ! 他の奴らみたいにな。だから――殺せ!」
ズブリ、と細長い刀身が、深々と突き刺さるかのように心が痛い。さっきまで結託していたのに。共通の敵を見つけて心を一つにしていた。それだけじゃなく。今まで、幾度となく助け合っていた関係だったのに。ものの数秒で、砂の城のように崩壊してしまった。
そしてそんな大事なものをぶち壊しにしてしまった裏切り者は、他ならぬ自分なのだ。そんな破壊者が、報復のための袋叩きに合うのは自明の理。――なのに、いつまで経っても、断罪の剣は振り下ろされることはない。そこにいた者たちは、身を竦ませながら、手を震わせ、唇を青白くさせている者ばかりだった。……ただし、たった一人を除いて。
「……はっ。どいつもこいつも……。こうなることぐらい予想できただろうに。今頃になって怖気づいてんじゃねぇーよ!! その女を殺すのを邪魔するってんなら、そいつも消すべき敵! そんな簡単なことが、どうしてわからねぇーんだよ!」
虚しく木霊する彷徨に、答えられる人間はいない。俯いて、誰もが迷っている。何が正しくて、何が間違っているのか分かっていない。でも――
「誰もやらないっていうなら……。俺が楽にしてやるよ。お前ら……絶対に手を出すなよ」
ただ一人だけは容赦ない。そいつは身動きのとれない死神はひとまず脇に置き、一番の障害となる人間から殺す算段だ。
「やめ――」
「大丈夫。何があっても助けてみせるから」
へたり込んで絶望している女の子を安心させるように、ぎこちない微笑を作る。一緒に戦ってきた《ファミリー》を相手取りたくはない。だが、手の内を知っているならば、未知の能力を持つ者よりも戦い方は定まりやすい。数では圧倒的に不利。しかし、一騎打ちである今ならば、まだこちらに分はある。神経を目前の敵に集中し――
不意に後頭部を掴まれると、そのまま石畳に叩き付けられた。
がはっ、と唾の飛沫を撒き散らす。後ろから。それは、かつての仲間が回り込んで騙し討ちをしたのではない。襲撃者は最初からずっとそこにいた。翅がもがれた羽虫のように這いつくばっていたはずの、女の子による一撃。
断腸の想いで、その手を汚しながらも彼女のことを護ろうとした。それなのに、もっとも油断している時を狙った確信犯の行い。そして見事に致命的なダメージを与えることに成功した彼女は、何事もなかったかのように立ち上がった。
「アハハハハハハハハハハハハッ!!」
胃の底から凍傷するような哄笑を響かせながら、抵抗など一つもできない男に向かって、追撃をしかける。後頭部に手をやったまま、固い石にめりこませるように押し付ける。ドゴォン!! と、石畳は蜘蛛の巣のような亀裂を描く。あまりの痛さに悲鳴をあげることもできない。
「…………くそっ」
その場にいる《ファミリー》どころか、この国全ての《デバイサー》さえも敵対する覚悟で一人のか弱い少女を救おうとした。それなのに。よりにもよって、その救済しようとした人間本人に裏切られたのだ。
殺してでも《ファミリー》の裏切り者を止めようとした《デバイサー》も、悪魔の所業に、石になったように動けなくなっていた。次の獲物に襲い掛かるために、女は闇の中、不気味な足音を反響させる。まるで死のカウントダウンのような音に、誰もが気圧されていた。
倒された男は気を失いそうになりながらも、その様子を眺めていた。半眼のまま頭から流れる血を鬱陶しく感じながら、深く後悔した。不用意に女に近づいてしまった。そのせいで女のことを、
「――助けてあげられなかったなあ」
……そんな、裏切られたばかりの者とは思えない思考を最後に、プツン、と男の意識は消えた。
そして、その日を境に。この国の《デバイサー》は一人残らず、生きながらにして死んでしまった。