牙を剥く
人間は傷つける動物だ。よく人は言っているそれはどういうことなんだろう。
学校で言われた言葉を電車の中で振り返る。高校一年生の夏。俺の将来をすでに考えている不思議な生き物である教師の言葉は俺の脳髄を深く斬りつけた。『お前、医者になってみないか?』なんて、ろくに考えてもなさそうな顔で言いやがる。
医者。その仕事について考えたことなんてなかった。いや、将来のことについて考えたことなんて一切ない。
ただ難となく生きて、ただ難となく過ぎて行く時間。それに満足感はなければ絶望もない。夢なんて抱いたことはないし、夢が叶う世の中でもない。
そのくせみんな単純だ。絵が上手く描ければ画家を勧め、スポーツができればプロになれば、勉強ができれば弁護士か医者になれと言う。
まったくもって馬鹿馬鹿しい。よくもそんな空虚なことが言えるものだ。彼らが成功した人間で、彼らが正解した人間だと誰が決めた。「力があるならば人の為に使う」なんてノブレスオブリージュに従えとでも言うのか。それともそれらの職が金を稼げるからなのか。
そんなものはまったくもって意味がない。
電車に揺られるこの時間の方がよほど意味がある。
誰が勝手にそれを幸せだと定義した。その勝手な幸せを俺に押し付けるな。
ならば明確な目標があるかと言われればそうでもない。だが誰かに与えられて「ああ、それが幸せか」なんて納得なんてしたくない。
そこにいるサラリーマンを見てみろ。背広は量販店のものだ。きっと裕福ではないのだろう。だが手に持つプレゼントを見て笑う姿は、幸せそうだ。それは奥さんへか、あるいは子供かわからない。不倫をしているならばもっと立派な身なりをして臨むだろう。
そういうことだ。幸せなんて、誰かに与えられるものではない。仕事の上にあるわけでもない。自分が築いた先にあるんだ。
医者になるってどういうことだ? 俺は誰かの命の責任なんて取れない。人を救うためなんて大義名分を掲げても、その肢体にメスを突き立てることなんてできやしない。もしその命を救えなければ、俺は笑うことなんて二度とできやしない。
弁護士になるってどういうことだ? 医者より責任は軽い? そんなことはない。言葉の一つがその人間に苦しみを与える可能性がある。一生引きずるものを与えてしまうかもしれない。正しさを見失うことだってざらにあるはずだ。
人間は傷つける生き物だ。
日々の中に牙を隠し持つ。まったく知らない間にそれを振るっている。時に意識して振るうことさえある。救うと言って振るうこともある。それに大義名分を得て金を得るには相応の覚悟が必要なはずなのに、他人は優秀な人間を見るとそれらを「夢」なんて立派な言葉で飾って押し付けようとする。
「夢」は自分でしか見れない。誰かの「夢」に付き添うのだって個人の「夢」だ。
にも関わらず、その「牙」を隠した「夢」を、人に与えようとする。なんて傲慢なことか。俺は普通で言い。この「牙」を隠し持ったまま生きていたい。少なくとも、その「牙」を「勇者の剣」のように扱って生きることは俺にはできない。
電車が止まる。駅に着いた。慌てて立ち上がって降りる。
すぐ目の前にある改札から出れば広がる景色。行き交う人々の表情は様々だ。
果たして、どれほどの人間が幸せを手にしているだろうか。少なくとも、教師が「医者」を勧めた人間の数よりはずっと多いはずだ。それだけは疑ってなかった。
ふと見れば、コンビニの前に犬が繋がれていた。飼い犬だろう。柔らかそうな毛並みが綺麗だ。
飼い犬だって、その口には「牙」がある。その気になれば人を殺せるのだ。
何だ、飼い犬だって俺と大差はない。飼いならされながらも傷つけるためのそれを隠している。そのくせ周りにはバレバレで、だけれども隠して害意はないように見せかける。
馬鹿だけど、可愛いもんだ。そう思って近づくと、その犬は吠えた。俺に向かってか、駅に向かってかは知らないが。