12
ラングリオン王国に向かう船は、経由港であるディラッシュ王国の港街、ニヨルドを目指していた。
グラシアル女王国の港を出発した次の日。ベリエの朔日の夕方。
ちょうど、船がグラシアルの領海から抜けると同時に、天候が一変し、酷い嵐になり、船員からは、客室から出ないようにと指示まで出た。
「エル…」
「どうした?」
顔が、真っ青だ。
「吐きそう…」
「リリー?」
吐きそう?
「悪いもの食べたわけじゃないと、思うんだけど」
「いつから具合悪いんだ?」
「さっき」
「…船酔い、だろうな。横になってた方がいい」
「うん…」
酔い止めの薬なんて持ってないな。
吐き止めならあるけど、持ってるのは、結構きつい薬だ。
もう少し、弱い薬を作って、様子を見てみるか。
『エル、手伝おうかぁ?』
「大丈夫。すぐ飲むから、すりつぶして水に混ぜればいい」
『酔い止めなんて、作れるのぉ?』
「これは吐き止めだよ。酔い止めなんて作ったことないな。…知ってるのか?」
『忘れちゃったぁ』
「作ったことあるのかよ」
『あたしが知らないのなんてぇ、現代錬金術ぐらいよぅ?』
「そうだったな」
そもそも真空の精霊は、自然にほとんど存在しない。
ユールは錬金術の実験中に突然現れた精霊だ。
いきなり出てきて、息苦しいからさっさと契約しろとせがんできて、問答無用で契約させられた。
けど。
ユールは錬金術についてやたらと詳しくて、王都の魔術師養成所で学んだ以上の知識を持っていた。
しかも、精霊というのは、現代文字が読めないのに、ユールはかなり難しい言葉でも理解できる。
精霊も学習すれば読めるようになるが、精霊にとっては、人間の文化は入れ替わりが激しくて、いちいち学ぶに値しないらしいんだけど。
とにかく、変わった精霊だ。
…できた。
横になっているリリーの傍に行って、薬を溶かした水を渡す。
「リリー、飲んで」
起き上がって、リリーが水を飲み、顔をしかめる。
「変な味」
「吐き気を抑える薬」
リリーは一気に薬を飲み干す。
「真っ青だな」
「…大丈夫」
大丈夫じゃないだろ。
「症状を言ってくれないと薬の作りようがない」
「作る?」
「とりあえず、吐き気がするっていうから」
それ以外の効果がないように作ったけれど。
船酔いなんてしたことがないから、わからない。
「薬は要らない」
「食欲は?」
「ない」
「腹痛は?」
「ない」
「頭痛は?」
「…ないかな」
「くらくらする?」
「少し」
「苦しい?」
「うーん…」
「だるい?」
「…だるい?」
もう少し、情報があれば良いんだけど…。
精力剤が効く倦怠感でもなさそうだし。
眩暈はありそうだけど、そんなに酷くなさそうだし。
「難しいな。…原因は揺れなんだろうけど」
だからと言って、いきなり中枢神経に働きかける薬を飲ませるのも危ない気がするんだよな…。
だめだ。作れない。
もう少し様子を観察しないと、わからない。
どうすれば。
船酔いで命を落とすなんて聞いたことはないけれど…。
「ごめん。何もできなくて」
「どうして謝るの?」
「俺のせいだから」
「違うよ」
「陸路で行くべきだった」
「船に乗りたいって言ったのは、私だ」
「ポルトペスタでは怖がってた」
「楽しかったよ」
「でも」
「エルらしくない」
「俺らしくない?」
「落ち込んでるの、初めて見る」
「落ち込んでる?」
「…違うの?」
落ち込んでる?俺が?
なんで?
「私は大丈夫だよ」
どこが?
「真っ青だ」
「エルの方が真っ青」
「え?」
俺が?
「自分の心配もして」
「俺は船酔いなんてしてないよ」
「じゃあ、どうして?」
そんなに、青い顔、してるのか?
「エル。信じて」
「…?」
「私は平気」
「どこが?」
リリーが体を起こして、戸口まで行く。
「きっと、部屋が薄暗いから、顔が蒼く見えるだけだよ。…少し、体を動かしてくる」
「リリー」
「だから、病人のエルは休んでて」
俺が、病人だって?
リリーが部屋から出ていく。
『外出禁止令、教えなくて良かったのぉ?』
「あぁ…」
そうだ。リリーはずっと客室に居たから、知らないんだ。
っていうか。青い顔なんて…。
『青い顔、してるよぅ』
「船酔いなんてしてないのに」
『エル。なんでもかんでもぉ、自分のせいにしないでねぇ?』
「何が?」
『リリーの船酔いなんてぇ、序の口よぅ』
「序の口?」
『吐いて吐いて吐いてぇ、脱水症状が出たらぁ、心配してぇ?』
「そんなことになったら船から降ろすよ」
『海の、ど真ん中でぇ?』
ユールが笑いだす。
『無謀だな』
『エルはばかだなー』
「うるさいな」
『ねぇ、エル。認めちゃえば良いのにねぇ』
『ユール』
『自分で、そっとしておけって言ったくせにー』
「認める?何を?」
『ふふふ。ひ・み・つ』
何の話しだ。
「あれ?あのお喋りはどうした?」
『ナターシャのことか?』
『絶賛、船酔い中よぉ』
「えっ?」
精霊も、船酔いするのか?
『ほっといてちょうだい』
「大丈夫か?」
『エルの中に居れば大丈夫よ。あぁ。船ってロマンチックな乗り物だと思ってたのに!』
その勘違いは、どこから生まれたんだよ?
『船酔いの一番の特効薬はねぇ、気分転換、よぉ?』
「気分転換?」
『そう。歌でも歌ってぇ、楽しくしようよぉ』
「歌?」
『バニラ』
『断る』
『歌ってよぉ。ナターシャだって辛そうよぉ?』
「バニラ、歌なんて歌うのか?」
『ユール。お前が歌えばいい』
『あたしの音は、響かないものぉ』
『断る』
『決定ぃ。…ふふふ。そろそろ、お姫様を迎えに行ってあげたらぁ?』
「え?」
『船酔いの人がぁ、歩けるって思ってたぁ?』
まさか。
客室の扉を開くと、リリーが壁に背をつけて座っている。
「あ」
「馬鹿」
「あの、」
リリーを抱えて、ベッドに運ぶ。
『ほら、バニラ』
『自分勝手。ユールとエルはそっくりだ』
「はぁ?」
『ふふふ』
バニラが歌を歌う。
精霊の歌。声というよりは、ピアノの音に近い響き。
とても落ち着くメロディ。
あぁ。聞いたことがある。バニラの声だったのか。あれ…。
懐かしくて。
でも、もう、聞けない。
バニラと一緒に歌っていた声は。もう二度と。