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騙されやすい公爵令嬢は、今日もにこにこ笑っている  作者: くるみ
第一章 騙されやすい公爵令嬢

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8/14

騙されやすい公爵令嬢は、今日は嘘をつく

秋の気配が濃くなり、日が落ちると風が冷たく感じられるようになった。


最近、ミーナは少し元気がない。

エステル・レーンがそれに気づいたのは、王宮からエルフォード公爵家へ通うようになって、しばらく経ったころだった。


もともとミーナは、感情が顔に出やすい。

嬉しければすぐに笑うし、失敗すればわかりやすく落ち込む。対してエステルはあまり表情を変えず、書類を扱うのも、予定を組むのも、商会から届いた報告を整理するのも早かった。


「いいですね、エステルは」


ある日の午後、リリアの外出着を整えていると、ミーナがぽつりと言った。


「何がでしょう」


「今日、お嬢様とお出かけなさるのでしょう?」


「付き添いです」


「でも、あの果物菓子のお店に行かれるんですよね」


「はい」


「お嬢様、エステルが果物を好きだということまで覚えていらっしゃいましたし」


ミーナは少しだけ唇を尖らせた。

そこまで言って、自分でも子供っぽかったと思ったらしい。


「……別に、いいんですけど」


エステルは少し考えた。


「何か買ってまいりましょうか」


「そういうことではありません」


「いりませんか?」


「……いります」


「では、何か選んできます」


ミーナは少しだけ笑った。


     ◇


王都に新しくできた果物菓子の店には、ルシアン・ハーグレイヴが先に来ていた。


「お待ちしていました」


リリアを見るなり、にこやかに立ち上がる。


「今日は一段とお綺麗ですね」


「まあ。ありがとうございます」


「本当のことを申し上げただけですよ」


「そんなことを言われたら、照れてしまいますわ」


リリアは少し目を伏せた。

けれど、次の瞬間には菓子の並ぶ棚へ目を向けている。


「あちらの白いケーキは何かしら」


真っ白なクリームで包まれた、小ぶりの丸いケーキだった。

上には、艶のある黒葡萄が数粒、宝石のように飾られている。薄く蜜をまとった皮が、窓から入る光を受けてきらきらと輝いていた。


「今の季節の葡萄を使った新作だそうですよ」


「まあ。綺麗」


リリアの目が輝いた。


「では、あれをいただきたいですわ」


やがて運ばれてきたケーキへ、リリアがナイフを入れる。

白い生地が柔らかく割れ、中から黒葡萄を煮詰めた濃い紫色のソースが、とろりと流れ出した。


「まあ。中にも葡萄のソースが入っているのね」


リリアは楽しそうに眺めてから、一口食べた。


「美味しいですわ」


「気に入っていただけてよかった」


少し離れたところでは、エステルが静かに付き添っている。

リリアはもう一口食べてから、ふと思い出したように言った。


「そういえば、もうすぐ私の大好きなアストリッドお姉様がいらっしゃるの」


「お姉様?」


「北の国の王女様ですわ。血はつながっておりませんけれど、小さいころから何度もお会いしていて、お姉様のように慕っておりますの」


「ああ。氷の姫と呼ばれている方ですね」


リリアは少し困ったように笑った。


「皆様、すぐにそうお呼びになるのね」


「違うのですか?」


「お気持ちを表すのが、少し得意ではないだけですわ。とても誠実で、お優しい方なのよ」


「それは、お会いしてみたいですね」


「ぜひ」


リリアは嬉しそうに頷いた。


「アストリッドお姉様に気に入られる殿方なら、きっとその方もとても素敵な方なのでしょうね」


ルシアンの手が止まった。


「……そう思います?」


「ええ」


「リリア様も?」


「もちろんですわ」


リリアはにこにこ笑っている。

ルシアンはしばらくその顔を見てから、笑った。


「では、ぜひ気に入っていただきたいですね」


     ◇


その夜、エステルが持ち帰ったのも、同じ葡萄のケーキだった。


「わあ……」


ミーナの顔が明るくなった。


「本当に買ってきてくださったんですか?」


「約束しましたから」


「ありがとうございます」


一口食べる。


「美味しい……」


「リリア様も気に入っていらっしゃいました」


「お嬢様も?」


「はい」


それだけで、ミーナはさらに嬉しそうに笑った。


開けていた窓から、冷たい夜風が入り込む。


「寒くありませんか?」


「これくらいがちょうどいいです。私、暑いほうが苦手なので」


そう言うわりに、ミーナは真夏でも侍女服をきちんと着ていた。ほかの侍女たちが暑さに負けて袖口を緩めても、ミーナだけはいつも着崩さなかった。

エステルは少し不思議に思ったが、何も聞かなかった。


ケーキが半分ほどなくなったころ、ふと尋ねる。


「ミーナは、どうしてリリア様の侍女になられたのですか?」


「え?」


「ずいぶん長くお仕えしているのでしょう?」


「はい。お嬢様が王立学院へ入られる少し前からです」


「もともとエルフォード家に?」


「いいえ。侍女の選考を受けました」


「選考?」


ミーナは少し懐かしそうに笑った。


「私、ぎりぎりだったんです」


     ◇


侍女の選考には、大勢の娘が集まっていた。


当時から、リリア・エルフォードは王太子アルベルトの婚約者だった。

いずれ王太子妃となる令嬢のそばに仕えるのだから、応募者には有力貴族の家で教育を受けた娘や、すでに侍女として経験を積んだ者も多かった。


衣装の管理、礼儀作法、客人への応対、手紙の書き方、茶の淹れ方、簡単な会計。

ミーナは、どれも悪くなかった。

ただ、周囲にはもっとできる娘がいくらでもいた。


茶を運ぶ手が震えた。

衣装の留め具を整える試験では時間ぎりぎりになった。

模擬の客人を前にすれば、最初の挨拶で声が裏返った。

それでも、最後の数人まで残った。


最終試験は、リリア本人との面談だった。


「お名前は?」


「ミ、ミーナと申します」


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」


「はい」


「お茶はお好き?」


「はい」


「お菓子は?」


「……好きです」


「まあ。私も」


リリアは、にこにこ笑っていた。


「どうして私の侍女になりたいの?」


ミーナは息を止めた。


答えは用意してあった。

それなのに。


「……わかりません」


部屋の隅に立っていた侍女長が眉を動かした。

リリアだけが、きょとんとした。


「わからないの?」


「まだ、お嬢様のことをよく存じませんので」


「そうですわね」


「ですから……今は、立派なことは申し上げられません。でも、お仕えしてみたいとは思っています」


言ってしまった。

ミーナは膝の上で手を握った。


「では、私が嫌な主人だったら?」


「……できるだけきちんとお仕えします」


「できるだけ?」


「喜んでお仕えしますと申し上げたら、嘘になるかもしれませんので……」


侍女長がとうとう額へ手を当てた。


リリアはしばらくミーナを見た。

それから、ぱっと笑った。


「では、ミーナにいたしますわ」


「……え?」


「あなたがいいです」


その日、ミーナはリリアの侍女になった。


     ◇


それから数日後、北の国からの使節団が王都へ入った。

夜には歓迎の宴が開かれ、王宮の大広間には多くの貴族が集まった。


北の王女アストリッドは、噂どおり目を引く人だった。

淡い銀の髪は、燭台の灯りを受けるたびに冷たい光を返す。白い肌に、深い青の瞳。その色だけを見れば冬の湖のように美しいのに、視線は静かすぎて、何を考えているのかほとんど読み取れない。

背筋をまっすぐ伸ばして立つ姿には隙がなく、近寄りがたいほど整った顔立ちをしていた。


「北からの長旅では、お疲れになったでしょう」


年嵩の婦人が気遣うように言った。


「この程度で疲れるようでは、使節には加わりません」


婦人の笑顔が、少しだけ固まる。


「……さようでございますか」


礼をして離れていった。

アストリッドは、その背中をしばらく見ていた。


「……心配してくださったのよね」


そばに控えていた侍女が頷いた。


「ええ、おそらく」


「なら、ありがとうと言えばよかったわ」


アストリッドは小さく息を吐いた。

けれど、そのとき。


「アストリッドお姉様!」


リリアの声がした。


アストリッドが振り返る。

その拍子に、手首の銀細工がしゃらりと澄んだ音を立てた。細い銀板の腕輪には、雪の花のような細かな模様が彫られている。


それまでほとんど動かなかった目元が、ほんの少しだけやわらいだ。


「リリア」


「お久しぶりですわ。ずっとお会いしたかったの」


「ええ」


「お姉様は?」


少し間があった。


「……私もよ」


リリアは嬉しそうに笑った。

そこへ近づいてくるルシアンに気づき、振り返る。


「お姉様。こちらはハーグレイヴ公爵家のルシアン様ですわ」


ルシアンが礼をした。


「初めまして、殿下」


「ハーグレイヴ公爵のご次男でしょう」


「ご存じでしたか。光栄です」


「それくらいは知っているわ」


「美しい方の記憶に残っていて嬉しい限りです」


アストリッドが彼を見る。


「そういうところ苦手だわ」


「手厳しいですね」


「正直に申し上げただけよ」


「では、覚えておきます」


まるで気を悪くした様子がない。

アストリッドは少し意外そうに彼を見た。


その横で、リリアは楽しそうに笑っていた。


     ◇


宴が終盤に差しかかったころ、ミーナはリリアの外套を受け取るため、外国使節用の客間棟へ続く使用人用の回廊を歩いていた。


「随分と楽しそうだな」


背後から声がした。

足が止まる。

振り返ると、アストリッド付きの侍従として北から来ていた男が立っていた。


「……兄様」


「その呼び方はやめろ」


「申し訳ありません」


兄は昔と変わらない目でミーナを見た。

表向きは王女付きの侍従として使節に加わっているが、今回の滞在では、宮廷内の情報収集を取りまとめる役目も任されていた。


「何年ここにいる?」


兄は鼻で笑った。


「それだけいて、あの程度の報告しか送れないとはな」


ミーナの肩が固くなる。


「王太子が替わったことなど、こちらでもわかる」


「はい」


「我々が欲しかったのは、その前だ。宮廷で何が起きているのか。セオドア殿下がリリア嬢をどう見ているのか。エルフォード家がどのように彼女を守っているのか」


ミーナは黙った。


「お前が何年もそばにいて送ってきたのは何だ」


兄の声に、薄い嘲りが混じる。


「『お嬢様は今日もお元気です』」


ミーナは俯いた。


「そんなことを知るために、お前を置いたと思っているのか」


「申し訳ありません」


「陛下も報告を求めておられる」


指先が冷えた。


「父上も昔から言っていただろう」


次の言葉はわかっていた。


「お前は使えない」


胸の奥が縮む。


兄は懐から、小さな瓶を取り出した。

光を通さない黒紫色の硝子でできた、親指ほどの小瓶だった。口元には銀色の封が巻かれ、そこには北の国で禁じられた薬にだけ使われる印が刻まれている。


ミーナの息が止まった。


「これは……」


「知っているだろう」


「禁薬……」


兄は小瓶をミーナの手に押しつけた。


「姫殿下が、この国の王太子妃になれば、北にとって大きな利になる」


「何を……」


「今の婚約者がいなくなれば、話は変わる」


ミーナは兄を見た。


「これは、陛下のご命令なのですか」


兄はわずかに目を細めた。


「陛下は、我々に結果を求めておられる」


「でも……」


「姫殿下をこの国の王太子妃にできれば、これまでの遅れなど誰も問題にはしない。北にとっても、そのほうがいい」


兄が、ふと片手を持ち上げた。


ミーナの肩がびくりと跳ねた。

反射的に腕が上がり、頭を庇いかける。


兄の口元が、わずかに歪んだ。


「……相変わらずだな」


兄は自分の髪を撫でつけ、手を下ろした。


「お前にとっても最後の機会だ。今度こそ、期待を裏切るな」


     ◇


ミーナの生まれた家は、北の国で古くから王家に仕える貴族だった。


表向きは、ごく普通の家である。

だが、その役目のすべてが公にされているわけではない。

外国の宮廷へ人を送り、有力貴族の家へ入り、その国の情報を持ち帰る。

何代にもわたり、それを担ってきた一族だった。

現在の当主は、ミーナの父である。


兄たちは優秀だった。

相手の望む言葉を選び、必要なら笑い、必要なら泣く。嘘をついても顔色一つ変えない。


ミーナだけが違った。

怖ければ震える。

嬉しければ笑う。

人を騙そうとすれば、すぐに目が泳いだ。


『お前は使えない』


幼いころから、何度聞いたかわからない。


そんなミーナに役目が与えられたのは、リリアが学院へ入る前だった。

王太子の婚約者が、新しい侍女を選ぶ。

この国の男爵家の遠縁という身分を用意され、その選考へ入り込むよう命じられた。


あの日、面接で震えていたのは、緊張していたからだけではなかった。


これから、この少女のそばで暮らす。

笑いかけてくれる相手を欺いて、北へ情報を送る。

そう考えると、教えられた言葉がどうしても口から出なかった。


それなのに。


『あなたがいいです』


リリアはミーナを選んだ。


     ◇


そのころ、ルシアンはアストリッドのもとへ何度も顔を出していた。

最初に持っていったのは、大きな花束だった。


「多すぎるわ。部屋に置いたら邪魔になる」


「では、一輪だけ置いていきます」


本当に一輪以外、すべて持ち帰った。

扉が閉まったあとも、アストリッドはしばらくそこを見ていた。


翌日、ルシアンは白い花を一輪だけ持ってきた。

アストリッドが花とルシアンを見比べる。


「……今日も持っていらっしゃったのね」


「昨日、多いとおっしゃったので、毎回一輪ずつならよいかと思いまして」


「だからって、毎回持ってこなくてもいいでしょう」


「僕が持って来たかったので」


「変な人ね」


「また来てはいけませんか?」


「……そういう意味ではないわ」


一輪の花は受け取った。


別の日、王宮の廊下で、アストリッドが若い令嬢へ言った。


「その色は、あなたには似合わないと思うわ」


令嬢の顔が曇る。

短く礼をして、足早に立ち去った。

アストリッドは、その背中をしばらく見ていた。


後でルシアンと二人になってから尋ねる。


「……さっきの方、悲しませたかしら」


「少し」


「やっぱり」


「気にされているんですか?」


「ただ、もっと淡い色のほうが似合うと思ったの。それに刺繍はとても綺麗だったのよ。だけど、それを言う前に行ってしまったから」


「それを先に言えばよかったんですよ」


「でも、もう誤解されたわ」


「次に会ったときに言えばいいんですよ」


「……そうね。覚えていたら」


「覚えていますよ、あなたは」


アストリッドが彼を見る。


「どうしてそう思うの」


「さっきから、ずっと気にされているでしょう?」


アストリッドは黙った。

翌日、その令嬢を見つけて、本当に刺繍を褒めたらしい。


     ◇


数日後、ルシアンが持ってきた焼き菓子を一口食べて、アストリッドは言った。


「甘すぎるわ」


「では、次はもう少し甘くないものを」


「次も持ってくるの?」


「嫌ですか?」


少し間があった。


「……嫌とは言っていないわ」


翌日、ルシアンは本当に甘さを控えた菓子を持ってきた。


アストリッドは一口食べた。

しばらく黙ってから、もう一口。


「これは好き」


その瞬間、いつも張りつめていた目元がふっとほどけた。

深い青の瞳にやわらかな光が宿り、口元にほんのわずかな笑みが浮かぶ。


ああ、もっとこの表情を見たい。

そう思った瞬間、ルシアンは返す言葉を忘れた。


「何?」


「……いえ」


「急に黙ると気味が悪いわ」


「これは、少し困ったかもしれません」


「何が?」


「こちらの話です」


「そう」


アストリッドはすぐにもとの表情に戻った。

ルシアンだけが、しばらくその横顔から目を離せなかった。


     ◇


アストリッドがリリアを訪ねたのは、北の使節の滞在が半ばを過ぎたころだった。


「リリア」


「はい?」


「あの人って、変なのよ」


リリアの顔が明るくなる。


「ルシアン様?」


「どうしてわかったの」


「最近、よくお話しなさっているでしょう?」


アストリッドは少し黙った。


「私が帰ってと言えば帰るの」


「ええ」


「でも、次の日にはまた来るのよ」


「そうですわね」


「嫌いだと言ったものは二度と持ってこないし、ずっと前に話したことまで覚えている」


「とてもよくお話を聞いてくださる方ですもの」


「でも、誰にでもあんなふうなのでしょう?」


「ルシアン様は、人と親しくなるのがお上手ですもの」


アストリッドはますます困った顔をした。


「なのに、最近、来ない日は少し静かすぎるような気がするの」


リリアは、にこにこしている。


「何よ」


「何も申しておりませんわ」


     ◇


別の日。


「あなたは、公爵家を継ぐの?」


アストリッドが尋ねた。


「いいえ。兄がいますから」


「では、何をするつもりなの」


「まだ決めていません」


「決めていない?」


「ええ」


「あなたくらいの年齢で?」


「耳が痛いですね」


「笑うところではないわ」


ルシアンは少し肩をすくめた。


「僕は昔から二番目ですから」


「何それ」


「父は王の弟です。僕は、その父の次男です。前の王太子には、予備の予備だと言われたこともあります」


冗談のように言った。


「だから、せめて人に好かれるのくらいは得意でいたいんですよ」


アストリッドの顔が急に冷たくなった。


「くだらない」


「ひどいなあ」


「あなたが誰に好かれているかも、誰かの予備かどうかも、私には関係ないわ」


ルシアンが黙った。


「あなたはあなたでしょう」


アストリッドは、何でもないことのように続けた。


「王になれなくても、公爵になれなくても、あなたが何をするかはあなたが決めればいい」


ルシアンは動きを止めて、アストリッドをじっと見つめた。


「……殿下」


「何?」


「時々、とても困ることを言いますね」


「失礼ね」


「褒めています」


「そうは聞こえないわ」


ルシアンは笑った。

けれど、その笑みはいつもより少しだけ静かだった。


     ◇


やがて、アストリッドの帰国の日が近づいた。

王宮の庭では、色づき始めた木の葉が風に揺れていた。


「私が帰れば、もう毎日のようにここへ来なくて済むわね」


アストリッドが言った。


「それは困ります」


彼女が横を見る。


「何が困るのかしら」


「あなたに会えなくなる」


そう言って、ルシアンは少し目線を落とした。


アストリッドはしばらく黙っていた。

そうして、小さく呟く。


「……寂しいわね。少しだけ」


ルシアンが、はっと顔を上げた。


「だったら、僕が北へ行きます」


「……簡単に言わないで」


「簡単には言っていません」


「あなたの家も、仕事も、友人も、この国にあるでしょう」


「ええ。それでも、もう少しあなたのことを知りたい」


アストリッドは、しばらく何も言わなかった。


「父は厳しいわよ」


「それは、何度か伺っています」


「……来たいなら、勝手に来ればいいわ」


「では、そうします」


アストリッドが足を止めた。


「本当に来るの?」


「今さら止めます?」


「止めてはいないわ」


澄ましたアストリッドの顔を見て、ルシアンは笑った。


     ◇


その夜、ルシアンは父の書斎を訪ねた。


「北へ行きたい?」


ハーグレイヴ公爵は、少し驚いたように息子を見た。


「はい」


「アストリッド殿下を追って?」


「追って、というと少し格好が悪いですね」


「違うのか?」


「……違いません」


父が小さく笑った。


「しばらく向こうに滞在して、北の言葉や習慣も学びたいと思っています」


「そうか」


ハーグレイヴ公爵はしばらく黙っていた。


「兄がこの家を継ぐから、自分はどこへ行っても構わない、と考えているわけではないだろうね」


ルシアンが顔を上げた。


「父上?」


「私も、兄の後ろを歩いてきた人間だからな」


父は王の弟だった。

父もまた、兄が王位を継ぎ、その傍らで生きることを当然として育ってきた。


「二番目だから、どこにいても同じだと思うようになる気持ちはわかる」


「違います」


ルシアンは、はっきりと言った。


「僕は、必要とされるから行くんじゃありません」


父を見る。


「僕が、あの人のそばにいたいんです」


父はしばらく息子の顔を見た。

それから、ゆっくりと頷いた。


「……なら、行きなさい」


「よろしいのですか?」


「ああ。ただし、覚えておきなさい」


父の声は穏やかだった。


「兄がこの家を継ぐからといって、お前の帰る場所がなくなるわけではない」


ルシアンは一瞬だけ黙った。


「はい」


今度の返事には、いつもの軽さがなかった。


     ◇


その夜、アストリッドも父へ手紙を書いた。


この国で、ハーグレイヴ公爵家の次男、ルシアンという少し変わった人に出会ったこと。

自分がうまく言葉を選べず、誰かを困らせてしまっても、何を言いたかったのかを聞いてくれること。

あとになって後悔していると、こう言えば伝わったのではないかと、一緒に言葉を探してくれること。

その人が、自分をもう少し知りたいと言っていること。

そして、北まで来るつもりらしいこと。


     ◇


ミーナはリリアの用事を片付けるため、王宮の廊下を歩いていた。


向こうから兄が来る。

ミーナを見ることもなく、少しずつ近づいてくる。


心臓が大きく鳴った。

周りの音が遠ざかり、自分の鼓動だけが耳の奥へ響く。

足がすくんで、その場に立ち止まる。


兄は真っすぐ前を見たまま、すぐそばまで来た。

そのまま通り過ぎるのかと思ったとき。


「この役立たず」


耳元で囁かれた。

その声が耳に触れた瞬間、古い記憶が蘇った。


暗い部屋だった。

灯りは遠く、人影に隠れている。

ミーナは冷たい石床に立っていた。


人影が近づいてくる。

後ろへ下がる。

背中が壁へぶつかる。

逃げられない。


『どうしてお前だけできない』


腕を掴まれた。

身体が反転する。


背中いっぱいを、焼けつくような痛みが走る。

息を吸う。

また落ちてくる。


『この役立たず』


涙が落ちる。


『泣くな』


痛みに声が漏れる。


『顔に出すな』


歯を食いしばる。


『心をなくせ』


考えることをやめる。


『役に立て』


役に立て。

役に立て。

役に立て。


背中いっぱいに、とうに終わったはずの痛みがまざまざと蘇る。


「ミーナ」


すぐ耳元から、兄の声がした。


「今度こそ、できるな?」


「はい」


返事は、考えるより先に出ていた。

顔から、すべての表情が抜け落ちていた。

兄が離れていっても、焦点の合わない目はしばらく廊下の先を見つめたままだった。


     ◇


翌朝、ミーナはいつもと同じ時刻に起きた。

顔を洗い、髪を結い、侍女服を着る。

リリアの朝食を整え、湯の温度を確かめ、茶葉を量った。

何も失敗しなかった。


昼も同じだった。

必要な衣装を出し、書類を運び、呼ばれれば返事をする。

笑うべきところでは、口元だけを動かした。


夕方も。


夜も。


     ◇


夜が深くなったころ、リリアの夜のお茶を準備するために、ミーナは厨房に一人で立っていた。

銀の盆にティーポットとカップを置き、北の乾燥したハーブを量る。

湯を注ぐ。


兄に渡された黒紫色の小瓶を取り出した。

銀の印が灯りを弾いた。

蓋を開ける。

中身を茶へ入れ、蓋を閉める。

瓶をしまい、盆を持ち上げた。


廊下を歩く足音だけが、一定の間隔で床に響く。

リリアの部屋の前で止まった。


「お嬢様」


「どうぞ」


扉を開ける。

リリアはまだ寝台には入らず、窓辺の長椅子で本を読んでいた。


「今夜は北のハーブティーでございます」


「まあ」


顔を上げる。


「珍しいわね」


「よく眠れる香りだそうです」


「そうなの」


ミーナはカップへ茶を注いだ。

白い湯気が細く上がる。

リリアは本へ栞を挟み、ゆっくりと机の上へ置いた。


「そういえば」


「はい」


「ミーナが初めてうちへ来た日のこと、覚えているかしら?」


指が止まった。


「……はい」


「面接のとき、ものすごく震えていましたわね」


「忘れてくださいませ」


「どうして?」


「恥ずかしいです」


「でも、私、あのときミーナを選んでよかったと思っているのよ」


ミーナは黙った。


「初めて私に淹れてくれたお茶は、少し濃かったわよね」


「申し訳ありません」


「美味しかったわ」


「嘘です」


「まあ」


リリアが笑う。


「それから、私が熱を出したとき」


喉の奥が詰まった。


「ずっとそばにいてくれたでしょう?」


「侍女ですから」


「夜中に何度も目を覚ましたら、そのたびに起きてくれたわ」


「それが仕事です」


「舞踏会で靴擦れをしたときも、誰より先に気づいてくれた」


「……」


「私が夜中に蜂蜜菓子を食べたいと言ったとき、本当に探しに行こうとしてくれたこともあったわね」


「お嬢様が、どうしても食べたいとおっしゃるから」


「結局、お父様に止められましたけれど」


リリアは楽しそうに笑った。


「考えてみたら、私、ずいぶんミーナにわがままを聞いてもらっているのね」


カップから、細い湯気が上がっている。


「ありがとう、ミーナ」


一滴、手の甲に何かが落ちた。

もう一滴。


そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


「ミーナ?」


慌てて顔を伏せる。


「……懐かしいお話を、ありがとうございました」


「どうしたの?」


「何でもありません」


声が震えた。


「お茶が冷めてしまいました。淹れ直してまいります」


「私はこれで大丈夫よ」


「いいえ」


ミーナは首を振った。

涙で、リリアの顔が滲む。


「優しいお嬢様には、いつでも一番おいしいお茶をお持ちしたいのです」


「ミーナ」


「少々お待ちくださいませ」


盆を持って部屋を出た。

厨房へ戻る。

茶をすべて捨てた。

涙が止まらなかった。


ポットを洗う。

カップを洗う。

嗚咽が漏れた。

それでも、もう一度湯を沸かす。


茶葉を量る。

今度は、何も入れなかった。


ミーナは涙の跡を強く拭った。

深く息を吸う。


新しい茶を盆に載せ、もう一度リリアのもとへ向かった。


     ◇


翌日、ミーナは兄へ伝言を届けた。

日が暮れるころ、王都の外れにある酒場で待っている。

返事はなかった。


このままでは、兄が別の人間を使うかもしれない。

あるいは、自分で動くかもしれない。

その前に、止めなければならない。


     ◇


その日の午後、北から国王の返書が届いた。

アストリッドは自室で封を切った。


『その男が本気で北へ来るというのなら、連れて帰りなさい。私が会う』


厳格な父の顔が浮かんだ。

めったに笑わない人だった。


けれど幼いころ、転んでも泣かなかった自分の頭を撫でてくれたときは、深い目がほんの少しやわらかくなったことを覚えている。

最後には、短くこう書かれていた。


『帰りを待っている』


アストリッドは手紙を大切に折り畳んだ。


     ◇


同じ使者は、侍従として使節に加わっていたミーナの兄にも、国王からの書状を届けていた。


『使節としての役目を終え次第、帰国せよ。宮廷内の情報収集については、帰国後に報告を求める』


兄は読み終え、鼻で小さく笑った。


甘い。

姫殿下がこの国の王太子妃となり、やがて王妃となれば、北には大きな利益がある。

なぜ、そのように命令を下さない。


王族の婚姻に、本人の気持ちなど持ち込む必要がどこにある。

国の繁栄を最優先させることこそが、王族の役目である。

国王がその道を選ばないのなら、自分が舞台を整えればいい。


役立たずも、あれだけ壊せば十分に仕事をするだろう。


     ◇


日が暮れる前から、ミーナは酒場で兄を待っていた。


店の客が一人減り、二人減る。

扉が開くたびに顔を上げた。

けれど、入ってくるのは知らない人ばかりだった。

やがて夜も深くなった。


兄は、最後まで来なかった。


ミーナは一人、店を出た。

夜の王都には薄い霧が降り始めていた。

店の灯りが遠ざかるにつれて、人の声も少なくなる。石畳を踏む自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。


お嬢様を裏切った。

それなのに、その後始末さえできない。


気づけば、古い城壁を抜けていた。

王都の北側には、小高い丘がある。

夜風に草が波打ち、その向こうに王都の灯りがぼんやりと滲んでいた。

嫌なことがあると、ミーナは時々ここへ来た。


失敗して泣きそうになった日も、自分より誰かのほうが役に立つと思った日も、ここから街を眺めていると、いつもなら少しだけ息ができた。

けれど今夜は、どれだけ風に吹かれても胸の奥が軽くならない。


――役立たず。


頭の奥で声がした。


――役立たず。


父の声なのか、兄の声なのか、もうわからない。


――役立たず。


何をしても失敗する。

大好きな人を守ることさえできない。


兄に渡された黒紫色の小瓶を取り出した。

中には、まだ残りが入っている。


一度でも、お嬢様を殺そうとした。

実際に、茶へ入れた。

最後に捨てたからといって、なかったことにはならない。


指を瓶へかけた。


「ミーナ?」


その声に、ミーナは弾かれたように振り返った。


石段の上に、リリアが立っていた。

少し離れた坂の下には、公爵家の馬車の灯りが見える。


「……お嬢様」


「こんなところにいたのね」


「どうして……」


「ミーナが一人になりたいとき、時々こちらへ来るでしょう?」


何年もそばにいた。

知っていたのだ。


ミーナは反射的に小瓶を握り込み、スカートの陰へ隠した。

リリアの視線が、ほんの一瞬だけその手元へ落ちたような気がした。


リリアはふわりと笑った。


「そういえば、ミーナから休暇願いをいただいていたのでしたわ」


「……え?」


「私ったら、皆様にお伝えするのをすっかり忘れてしまったみたい」


困ったように、小さく首を傾げる。


「だから、今日、皆様がミーナを探していらしたのね。私、うっかりしていましたわ」


ミーナは何も言えなかった。


休暇願いなど出していない。

そんなことは、リリアだって知っている。

あまりにも、わかりやすい嘘だった。


胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


お嬢様は、人を騙すような嘘なんてつけない方なのに。

それでも今、自分のために嘘をついてくれている。


リリアの専属侍女が、何も告げずに姿を消した。

ただの無断の外出では済まない。

王太子妃となる人間の身の回りを預かり、日々の予定も、公爵家の内側も知る立場なのだ。


だから、お嬢様は。

自分から休暇願いを受け取っていたことにしてくれている。

こんな、ばればれの嘘までついて。


「……そうでした」


「早く帰って、皆様にお伝えしないといけないわね」


リリアは、ほっとしたようににこにこと笑った。


「お休みをくださって、ありがとうございました」


「どういたしまして」


「……お嬢様」


「何ですの?」


「ごめんなさい」


声が震えた。


「ごめんなさい……」


リリアは何も尋ねなかった。

ただ、泣きだしたミーナを抱きしめる。


「人には、たまには何もしたくない日くらいありますもの」


背中を、ゆっくり撫でる。


「急にお休みしたくなることだってありますわ」


「お嬢様ぁ……!」


ミーナは声を上げて泣いた。


     ◇


翌朝、北の使節が帰国する前に、リリアとアストリッドは王宮の小さな応接室で最後のお茶を飲むことになっていた。

父からも了承を得たルシアンは、しばらく北へ滞在することになった。


ミーナも、リリアに付き添って王宮へ来ている。


応接室へ向かう回廊の先に、兄がいた。

アストリッド付きのほかの侍従たちも近くにいる。

互いに声はかけない。


距離が縮まる。

すれ違う、その一瞬。

ミーナの指先が動いた。


黒紫色の小瓶を、兄の侍従服の上着へ滑り込ませる。


そのまま歩く。

兄も歩き続けた。


一歩。

二歩。

三歩。

ほんのわずかに足が止まった。


気づいた。

当然だった。


兄は、こういうことは誰より優秀だった。

けれど、すぐ前には王宮の侍従が立っている。


「こちらへどうぞ」


兄は上着へ手を入れないまま、応接室へ入った。

その直前、ほんのわずかに横顔だけを向ける。


地面に落ちたごみでも見るような、冷たい目だった。

言葉などなくてもわかる。


――この役立たず。


ミーナは、今度は俯かなかった。


     ◇


茶会のあいだ、アストリッドの後ろには、北から同行した3人の侍従が控えていた。

その中には、ミーナの兄もいる。


「もう帰ってしまわれるのね」


リリアが寂しそうに言う。


「また来るわ」


「本当に?」


「ええ」


リリアは、にこにこしている。

アストリッドがその顔を見て、少しだけ眉を寄せた。


「ルシアンも一緒に北へ来るから、そんな顔をしているのでしょう」


リリアの笑みが深くなる。


「何も申しておりませんわ」


「まだ何も決まっていないわよ」


「ええ」


「……その顔をやめて」


「まあ」


アストリッドは少し視線を逸らした。


「でも……私は昔から、あなたになら思ったことをそのまま話せるから」


アストリッドは言葉を一瞬止めた。


「リリアには、とても感謝しているのよ」


リリアの顔が、嬉しそうにほころぶ。


「私も、お姉様とお話しするのが大好きですわ」


「だから、その顔をされると何も言えなくなるのよ」


「まあ」


アストリッドも、ほんの少し笑った。


その日、リリアの胸元には、小さなブローチがついていた。

少し前、セオドアから贈られた、ハート形の焼き菓子をかたどったものだった。


「あら?」


リリアが胸元へ手をやった。


「どうなさいました?」


エステルが尋ねる。


「ブローチがありませんの」


王宮の者たちがすぐに応接室を探した。

廊下も、控室も調べる。

けれど、見つからない。


「きっと私が、どこかに落としただけですわ」


リリアは申し訳なさそうに言った。


「そんなに大騒ぎしなくても……」


しかし、王太子から婚約者へ贈られた品である。

外国使節が滞在している最中に失われたのだから、そのままにはできない。

その場にいた王宮側と公爵家側の者たちについても、念のため身の回りを確認することになった。

それを聞いたアストリッドが言う。


「私の者たちも調べなさい」


「お姉様」


「私たちだけ除外するほうがおかしいでしょう」


「でも、皆様を疑っているわけではありませんの」


「わかっているわ」


アストリッドは淡々と答えた。


「あの場にいた北の人間は、私を含めて4人だけでしょう」


「ええ」


「なら、4人分すべて調べればいいわ。私の荷物から始めなさい」


リリアは申し訳なさそうに目を伏せた。


「ありがとうございます、お姉様」


確認はそれぞれ別室で行われることになり、茶会はそこでお開きになった。


     ◇


その日の午後、エルフォード公爵家へ戻ったミーナは、リリアに呼ばれた。


「ミーナにお願いしたいことがありますの」


「何でございましょう」


リリアが机の上の地図を示した。

指先が触れたのは、ずっと南の海辺だった。


「最近、ラヴェリナのこちらの港へ向かう新しい航路が整ったでしょう?」


「はい」


「南のお菓子について、調べてきていただきたいの」


ミーナは目を瞬いた。


「私が、でございますか?」


「ええ」


リリアは不思議そうに首を傾げる。


「私の好みを一番よく知っているのは、ミーナでしょう?」


甘さはどのくらいが好きなのか。

どんな果物を好むのか。

どのくらいの香辛料なら、美味しく食べられるのか。


「向こうに滞在して、季節ごとの果物やお菓子を見てきていただきたいの。こちらへ運べそうなものも探してくださったら嬉しいわ」


「……かしこまりました」


南は暑い。ミーナは暑いところが苦手だった。

それでも、迷いはなかった。


「本当にお願いしてもいい?」


「もちろんでございます」


リリアは嬉しそうに笑った。


「よかった。ミーナにしかお願いできないと思っておりましたの」


胸がいっぱいになった。


「お任せください」


ミーナは深く頭を下げた。


「必ず、お嬢様がお気に召すものを見つけてまいります」


「楽しみにしていますわ」


自分がしたことは消えない。

だからこそ、この仕事だけは必ず成し遂げようと思った。


『ミーナにしかお願いできない』


そう言ってもらった仕事を、きちんと果たす。

それが、自分にできる償いなのだと思った。


     ◇


リリアは父の書斎を訪ねた。


「お父様、おやすみなさいませ」


「ああ、ちょうどいいところに来てくれた」


「どうしましたの?」


「なくなっていたブローチが見つかったそうだよ」


「本当?」


「王宮の廊下に落ちていたらしい」


「まあ。よかったですわ」


「ただ、その捜索で別のものが見つかった」


「別のもの?」


「北の随員の一人が、禁薬を持っていたそうだ」


リリアが目を丸くした。


「まあ」


「ほんの数滴で死に至る薬だそうだ。本人はかなり重い罪に問われるだろうね」


「そんな怖いものが、この国に入っていたなんて」


リリアは胸元へ手を当てた。


「私、怖くて今夜は眠れないかもしれませんわ」

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