第9話 王宮後方管理室という、誰も来ない場所
王宮後方管理室は、本当に誰も来ない場所だった。
物理的に人がいないわけではない。
最低限の人員はいるし、仕事も山ほどある。
けれど、訪問者がいない。
表の部署で問題が起きたとき、人はまず責任者の部屋へ向かう。
次に、声の大きい者のところへ行く。
最後に――最も目立つ部署へ。
ここは、そのどれでもなかった。
「……静かですね」
朝一番、出勤してきたルーク・フェリオが、そう呟いた。
彼は、数日前に配属されたばかりの新任文官だ。
まだ制服が身体に馴染んでおらず、視線もどこか落ち着かない。
「最初は、そう感じるでしょうね」
私は帳簿から目を上げずに答えた。
「慣れれば、逆に落ち着きます」
「慣れる、ですか……」
ルークは苦笑する。
「正直、ここに配属されたと聞いたときは……」
言い淀み、言葉を選んでいるのが分かる。
「左遷、だと思いました」
率直だ。
私は、少しだけ口角を上げた。
「そう思う人がほとんどです」
「……違うんですか?」
「違いません」
即答すると、彼は目を瞬いた。
「ただし」
私は、帳簿を閉じて彼を見る。
「ここは、王宮が止まらないための場所です」
ルークは、きょとんとした顔をしている。
「表の部署が、判断を誤っても。
現場が、混乱しても。
最後に辻褄を合わせるのが、ここ」
彼は、少し考えてから言った。
「……縁の下、ですね」
「そうですね」
それ以上、言葉はいらなかった。
午前中は、それぞれが黙々と仕事を進める。
紙をめくる音。
ペンの走る音。
時折、数字を確認する低い声。
誰も急かさないし、
誰も評価しない。
それが、この場所の流儀だった。
「リリアーナさん」
昼前、ルークが声をかけてきた。
「この書類、少し確認してもらえますか」
「いいですよ」
私は、自然に彼の机へ向かう。
差し出されたのは、補給費の月次報告書。
一見すると、問題はない。
だが、私はすぐに気づいた。
「ここ、単価が違います」
「え?」
「前月と比べて、微妙に上がっている。
契約更新の記録は?」
ルークは慌てて書類を探す。
「……ありません」
「では、入力ミスですね。
修正しておきましょう」
「助かります!」
その言葉に、私は一瞬、手を止めた。
助かります。
ただそれだけの言葉が、
胸にすとんと落ちる。
誰かの役に立つことを、
評価や期待と切り離して受け取るのは、
初めてだったかもしれない。
「リリアーナ殿」
責任者のバルドが、書類を抱えてやってくる。
「今朝、表から一件、問い合わせがありました」
「珍しいですね」
「ええ。ですが、すぐ引き下がりました」
それを聞いて、私は少しだけ安心する。
ここに注目が集まるのは、まだ早い。
「問題ありませんか?」
「はい。こちらで処理できます」
それだけで、会話は終わる。
午後も、淡々と時間が過ぎていった。
私は、いくつかの帳簿を照合しながら、
ふと、以前の自分を思い出す。
あの頃は、
一つの判断が、王宮全体に影響した。
重圧。
期待。
そして、終わらない仕事。
今は違う。
ここでは、
一つの仕事は、一つの仕事として完結する。
だから、呼吸が楽だ。
「……不思議ですね」
帰り際、ルークがぽつりと言った。
「ここ、誰も来ないのに……
仕事は、ちゃんと前に進んでいる」
私は、扉に手をかけながら答えた。
「だから、誰も来ないんです」
ルークは、少し考えてから、笑った。
「なるほど」
王宮後方管理室という、誰も来ない場所。
けれど私は、ここで初めて思った。
――ここなら。
私は、無理をしなくていい。
誰かの期待を背負わなくていい。
ただ、
必要なことを、必要な分だけ。
それで十分だと、
そう思える場所だった。
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