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第8話 もう、誰にも期待されなくていい

 王宮後方管理室での生活は、驚くほど規則正しかった。


 朝は早く、昼は簡素。

 誰も派手な話をしないし、誰かを評価することもない。


 その代わり、

 仕事が終われば、きちんと終わる。


 それが、こんなにも心を落ち着かせるとは思わなかった。


 私は、今日も机に向かい、帳簿をめくっていた。


 日々の業務は地味だ。

 数字を揃え、記録を確認し、

 問題があれば、淡々と修正案をまとめる。


 それだけ。


 けれど――


「……あれ?」


 ふと、手が止まった。


 支出の記録。

 昨日までとは違う帳簿だ。


 数字自体は、合っている。

 だが、流れがおかしい。


 私は、隣の棚から過去の記録を引き出した。

 二年前、三年前、五年前。


 似たような処理。

 似たような誤差。


 偶然ではない。


「……なるほど」


 私は、深く息を吸った。


 この歪みは、一日二日で生まれたものではない。

 ずっと前から、

 誰にも気づかれずに積み重なってきた。


 いや。


 気づかれなかったのではない。

 **見ようとされなかった**のだ。


 私は、簡単な報告書を作成した。


 原因。

 影響範囲。

 そして、放置した場合の未来。


 最後に、修正案を添える。


 必要最低限。

 感情は、入れない。


「……リリアーナ殿」


 バルドが、報告書を手にしていた。


「これを……どこまで出すつもりですか」


 その問いには、

 戸惑いと、わずかな緊張が混じっている。


「管理室内で止めます」


 私は、即答した。


「今は、まだ」


 今、出せば。


 それはまた、

 誰かの責任を問う材料になる。


 私は、もうその役を引き受けない。


「……分かりました」


 バルドは、何も聞かなかった。


 それでいい。


 ここでは、

 “誰が悪いか”よりも、

 “どう直すか”が重要だ。


 日が傾き、

 今日の業務が終わる。


 私は、机を片づけ、立ち上がった。


 廊下を歩きながら、

 ふと、昔のことを思い出す。


 あの頃は、

 誰かの期待に応えることが、

 自分の価値だと思っていた。


 評価されなければ、不安で。

 必要とされなければ、怖かった。


 でも、今は違う。


 ここには、

 私を持ち上げる人も、

 貶める人もいない。


 あるのは、仕事と、静けさだけ。


 それで、十分だった。


「……もう、誰にも期待されなくていい」


 小さく呟く。


 誰かに認められなくても、

 私は、私としてここにいる。


 それだけで、

 心は、驚くほど穏やかだった。


 ――けれど。


 その日の夜。


 王宮の別棟で、

 一つの会話が交わされていたことを、

 私はまだ知らない。


「……最近、数字が合わない」


「誰が見ている?」


「後方管理室だ」


 短いやり取り。


 だが、それは、

 静かに水面を揺らす、

 最初の波紋だった。


 私が、表舞台を去ったことで。


 王宮は、

 ようやく“何かが足りない”ことに

 気づき始めていた。


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