第7話 それでも仕事だけは、手を抜けない
翌朝、王宮後方管理室に入ると、すでに数人が席についていた。
早い。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
表の部署では、始業時間ぴったりに人が揃うことは少ない。
だがここでは、誰もが自然と机に向かっている。
評価されない場所だからこそ、
「遅れれば、そのまま仕事が滞る」ことを、皆が理解しているのだろう。
「おはようございます」
私が声をかけると、三人とも少し驚いたように顔を上げた。
「……おはようございます」
返事は控えめだが、昨日より硬さはない。
私は席に着き、昨日の続きの帳簿を開いた。
赤字でつけた印を、一つずつ確認していく。
単純な記載ミス。
計上時期のずれ。
そして――意図的としか思えない差異。
後方管理室に回ってくる書類は、
「表で処理しきれなかったもの」ばかりだ。
だからこそ、
ここに集まる小さな歪みは、
王宮全体の歪みでもある。
「……ここ、少し見ていただけますか」
若い補佐官の一人が、遠慮がちに声をかけてきた。
「この数字、合わなくて……」
私は立ち上がり、彼の机を覗き込む。
「計算自体は合っています。
ただ、この月の支出が、別の帳簿に二重計上されていますね」
「え……?」
「こちらです」
指で示すと、彼は目を見開いた。
「……気づきませんでした」
「気づきにくい形で書かれています。
仕方ありません」
私はそう言って、彼の帳簿に小さく印をつけた。
そのやり取りを、責任者のバルドが黙って見ている。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「リリアーナ殿」
「はい」
「昨日の件ですが……」
一瞬、室内の空気が引き締まる。
「あなたが見つけた差異、
過去にも指摘された形跡がありませんでした」
それは、つまり。
――誰も、真剣に見てこなかったということだ。
「この部署では、そこまで求められていなかったのでしょう」
私は、淡々と答えた。
誰かを責める気はない。
ここでは、それは意味を持たない。
「ですが……」
バルドは、言葉を探すように少し間を置いた。
「あなたが来てから、
この部屋の“空気”が変わった」
私は、首を傾げる。
「空気、ですか?」
「ええ」
彼は、苦笑に近い表情を浮かべた。
「仕事が、仕事として扱われている。
それだけのことですが」
それは、私にとっては当たり前だった。
けれど、
ここでは当たり前ではなかったのだろう。
「……ありがとうございます」
そう言うと、バルドは少し驚いた顔をした。
礼を言われるとは思っていなかったのかもしれない。
昼を過ぎる頃、
私は、あることに気づいた。
この部署では、
誰も私を“元婚約者”として見ていない。
評価も、警戒も、遠慮もある。
だがそれは、
「一緒に働く人間」としてのものだ。
それが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
仕事を終え、帳簿を閉じる。
今日だけで、
小さな不整合を七件。
大きな齟齬を一件。
決して派手ではない。
だが、
これを積み重ねなければ、
王宮は、静かに崩れていく。
私は、ペンを置いた。
期待されなくていい。
称賛されなくていい。
それでも。
仕事だけは、
手を抜かない。
それが、
今の私が選んだ、生き方だった。




