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第40話 削れない名前

 王太子の執務室は、珍しく静まり返っていた。


 机の上に置かれた報告書。


 西部軍管区補給再確認。


 補足資料、最終頁。


 分析担当:

 リリアーナ・フォン・アルヴェイン(後方管理室)


「削れ」


 低い声。


 側近が、慎重に答える。


「既に文書局登録済みです」


「差し替えろ」


「登録後の改変は、軍務卿の再署名が必要となります」


「理由をつけろ」


「正当な理由がございません」


 沈黙。


 王太子の指が、机を叩く。


「補足資料だ」


「補足も公文書です」


 王宮の文書管理制度は厳格だ。


 改変履歴は残る。


 署名は記録される。


 削れば、痕跡が残る。


「たかが裏方の名だ」


 吐き捨てるように言う。


 だが、その言葉は空虚だった。


 消したい理由があるという証明になる。


「軍務卿は承認済みです」


 側近は続ける。


「財務卿も閲覧済み」


 王太子の眉間が、深く刻まれる。


 つまり。


 重臣たちは、既に知っている。


 裏方の名が刻まれたことを。


「……なぜ、あの女なのだ」


 問いは、誰に向けたものでもない。


「西部軍管区は、中央管理室の管轄だ」


「再確認は後方管理室が」


「命じたのは私だ」


 それが、最初の誤算だった。


 試した。


 だが、結果は逆だった。


「削れないのか」


「削れません」


 即答。


 王太子は、椅子にもたれかかる。


 天井を見上げる。


 これまで、彼の言葉は通ってきた。


 決定は覆らなかった。


 だが、今回は違う。


 制度がある。


 署名がある。


 記録がある。


 そして――事実がある。


 夕刻。


 軍務卿補佐室。


「削除要請が来ると思ったが」


 軍務卿が、低く言う。


「来ました」


 レオンは、淡々と答える。


「どう返す」


「事実は事実と」


 軍務卿は、小さく笑う。


「若いな」


「若さではありません」


 レオンは、視線を上げる。


「王宮は、記録で動きます」


 感情ではなく。


 功績でもなく。


 記録。


「裏方の名が残るのは、気に入らんだろう」


「だからこそ残すべきです」


 軍務卿は、しばらく考えた後、頷いた。


「……削らせるな」


「承知しました」


 一方、後方管理室。


「中央管理室で、少しざわついているようです」


 ルークが、小声で報告する。


「ざわつく理由がありますか」


「ありますよ」


 バルドが、静かに言う。


「裏方の名が公文書に載るのは、珍しい」


 私は、帳簿から顔を上げる。


「消されるかもしれません」


「消されません」


 思わず口に出る。


 二人が、私を見る。


「……根拠は?」


「ありません」


 だが、確信があった。


 あの男が、消させない。


 夜。


 レオンが訪れる。


「削除要請が来た」


「そうですか」


「拒否した」


 短い報告。


「ありがとうございます」


「礼は不要だ」


 彼は、補足資料の写しを机に置く。


「あなたの名は、削れない」


 静かな断言。


「制度が守る」


「制度?」


「一度刻まれた記録は、簡単には消えない」


 王太子の力をもってしても。


「……そうですか」


 私は、紙面を見つめる。


 たった一行。


 だが、その一行は。


 もう誰にも奪えない。


「気分は」


 レオンが問う。


「変わりません」


「本当にか」


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「少しだけ」


「何だ」


「安心しました」


 自分の声が、思ったよりも素直だった。


 レオンの目が、わずかに柔らぐ。


「それでいい」


 可愛げがないと言われた悪役令嬢。


 その名は、削れなかった。


 王太子の権力は、万能ではない。


 初めて感じた制限。


 それが、焦りに変わるのは――


 そう遠くない。

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