第4話 誰も、私の話を聞こうとしなかった
謁見の間を出たあと、私はすぐには自室へ戻らなかった。
戻っても、誰もいないことは分かっている。
それでも、足は自然と王宮の回廊を進んでいた。
すれ違う人々の視線が、微妙に変わっているのが分かる。
さっきまで向けられていたのは、
「扱いづらいが有能な令嬢」への距離感だった。
今は違う。
憐れみ。
あるいは、納得。
――やっぱり、という目。
「……聞いた?」
「ええ、婚約破棄ですって」
「まあ……あの方ですものね」
囁き声は、小さくても、よく通る。
足を止めれば、会話は途切れる。
けれど、視線だけは逸らされない。
私は、何も言わずに歩き続けた。
説明する気はなかった。
弁解するつもりもない。
そもそも、誰も私の話を聞こうとしていない。
王宮の一角、文官たちの執務区画に入ると、
空気はさらに露骨になった。
これまで、私の机には書類が山積みになっていた。
判断に迷った案件。確認が必要な数字。
誰もが「とりあえず私に回す」仕事。
だが今は違う。
机の上は、異様なほど整っていた。
――いや。
正確には、
「何も置かれていない」。
隣の文官が、気まずそうに視線を逸らす。
「……リリアーナ様」
声をかけてきたのは、若い補佐官だった。
「先ほどの件ですが……」
私は立ち止まり、彼を見る。
「今後の業務について、確認を取らなければなりません」
確認。
それは、排除の前段階だ。
「あなたの担当だった案件は、こちらで引き取ります」
彼は、慎重に言葉を選んでいるつもりなのだろう。
けれど、内容は明確だった。
――もう、触るな。
「分かりました」
私は短く答えた。
彼は、ほっとしたような、拍子抜けしたような顔をする。
きっと、抵抗されると思っていたのだ。
「その……今まで、ありがとうございました」
礼としては、あまりにも遅い。
私は、軽く頭を下げてその場を離れた。
歩きながら、ふと考える。
私がいなくなって、
本当に、何も困らないのだろうか。
そんな疑問が浮かんで、すぐに消えた。
――困るかどうかは、私が考えることではない。
王宮の奥、書庫へ向かう途中で、
重臣の一人とすれ違った。
以前なら、必ず声をかけられていた人物だ。
「……」
しかし今回は、視線すら向けられない。
存在しないものとして扱われる感覚。
それが、こんなにも静かで、
こんなにも重たいものだとは思わなかった。
書庫に入ると、埃の匂いが鼻を突く。
ここは、私が好きだった場所だ。
誰にも邪魔されず、数字と記録に向き合える。
けれど今日は、本を手に取る気にもなれなかった。
私は、書架の間で立ち尽くす。
頭の中で、何度も同じ問いが巡る。
――私は、何を間違えたのだろう。
仕事のやり方か。
人との距離か。
それとも、生き方そのものか。
答えは、出ない。
なぜなら、
間違いだったかどうかを判断するのは、
もう私ではないから。
私は、深く息を吸った。
胸の奥に溜まっていたものが、
少しだけ、外へ流れ出る。
泣きたい、とは思わなかった。
怒りも、もう湧かない。
ただ、疲れていた。
これ以上、何かを証明し続けることに。
その時だった。
「……本当に、静かですね」
背後から、声がした。
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
年上だろうか。落ち着いた佇まい。
監査官の徽章。
王宮でも、限られた者しか持たないものだ。
「ここは、必要な者しか来ません」
彼女はそう言って、私を見る。
「あなたのような方が、追いやられる場所でもない」
その言葉に、胸がわずかにざわついた。
けれど、期待はしない。
「ご用件は?」
私がそう尋ねると、彼女は静かに微笑んだ。
「確認です」
また、確認。
「あなたが、これまで何をしてきたのか」
その視線は、同情ではない。
評価でもない。
ただ、事実を見ようとする目だった。
私は、一瞬だけ口を閉ざした。
――誰も、私の話を聞こうとしなかった。
そう、思っていた。
けれど。
この人は、
聞こうとしているのかもしれない。
ほんの一瞬、迷ってから、私は答えた。
「……長くなりますが」
「構いません」
彼女は、はっきりと言った。
その言葉が、
なぜか胸に深く残った。
まだ、この王宮に。
私の言葉が、
完全に無価値になったわけではない――
そう思ってしまった自分を、
私は、少しだけ責めた。




