第1話 当然のように、今日も私がやっていた
婚約破棄から始まります。
ですがこれは、
怒鳴り返す物語でも、
即ざまぁする物語でもありません。
静かに働くことを選んだ悪役令嬢が、
気づけば王宮の流れを変えていた。
そんなお話です。
溺愛はゆっくり進みます。
ざまぁは焦らせます。
どうぞ、最後までお付き合いください。
朝の王宮は、いつも静かだ。
正確には、人は多い。文官たちが廊下を行き交い、足早に書類を抱えている。けれどその喧騒は、どこか焦りを含んだ落ち着きのなさで、決して活気とは呼べないものだった。
私は自室代わりに使っている執務机に座り、今日も淡々と書類に目を通していた。
税収報告書。軍需物資の在庫表。地方領主からの要望書。
すべて、王太子殿下の執務に回される前段階の資料だ。
数字の齟齬を赤で訂正し、矛盾する内容には付箋を貼る。
必要であれば、過去の記録を引き出して整合性を取る。
この作業を始めて、もう何年になるだろう。
「……今年は、やけに誤差が多いわね」
小さく呟いても、返事はない。
そもそも、この部屋に私以外の人間はいない。
誰かに確認を取ろうにも、ここ数日、私に声をかけてくる者はいなかった。
忙しいのだろう、と最初は思っていた。
けれど――
廊下を挟んだ向こう側、王太子殿下の執務室からは、頻繁に人の出入りがある。笑い声すら聞こえることもあるのに、なぜか私のところだけが、ぽっかりと空白のように取り残されていた。
まあ、いいか。
私は視線を書類に戻す。
どうせ、仕事が終われば呼ばれる。
それが、今までずっとそうだった。
私はリリアーナ・エルフォード。
王太子殿下の婚約者であり――世間では、“悪役令嬢”と囁かれている存在だ。
そう呼ばれる理由は、自分でも分かっている。
愛想がない。
社交が苦手。
感情を表に出さない。
貴族令嬢としては致命的だろう。
特に、未来の王妃としては。
けれど私は、その代わりに「出来ること」をやってきた。
殿下が政務に集中できるように。
判断を誤らないように。
王宮が、滞りなく回るように。
それが、婚約者としての役割だと信じていたから。
「リリアーナ様」
ようやく声をかけられたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
若い文官が、どこか気まずそうに立っている。
「王太子殿下がお呼びです。至急、謁見の間へ」
謁見、という言葉に、胸の奥が僅かにざわついた。
いつもは執務室だ。
それも、事前に内容を知らされる。
「分かりました」
私は静かに立ち上がり、書類を整えた。
机の上には、まだ未処理の束が残っている。
――後で、戻ってくる。
そう思っていた。
この時は、まだ。
謁見の間には、思っていた以上に人が集まっていた。
貴族たち、重臣たち、そして王太子殿下。
殿下の隣には、見慣れない少女が立っている。
淡い色のドレス。伏し目がちで、いかにも庇護欲を誘う佇まい。
その存在を見た瞬間、胸のざわめきが、はっきりと形を持った。
――ああ、なるほど。
殿下は私を見ると、わずかに眉を寄せた。
「リリアーナ。来てくれたか」
「お呼びでしょうか」
私は一礼する。
いつも通り、感情を抑えて。
殿下は一瞬だけ視線を逸らし、それから告げた。
「最近、王宮の政務に混乱が生じている」
その言葉に、周囲の視線が一斉に集まる。
なぜか、私へと。
混乱。
それなら、原因はいくつも思い当たる。
人員配置の変更。
確認工程の省略。
そして――私の裁量が、徐々に削られていたこと。
けれど殿下は、淡々と続けた。
「その責任について、話し合う必要がある」
責任。
私は、初めてはっきりとした違和感を覚えた。
――それは、本当に私の役割だっただろうか。
問いは喉まで出かけて、飲み込んだ。
ここは、まだ。
話を聞く場だ。
そう、自分に言い聞かせながら。
この時の私は、まだ知らなかった。
この呼び出しが、
“いつもの仕事の話”ではないことを。
そして、
私の日常が、ここで終わることを。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
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