8.家政婦さんについて
朔弥さんは、花江さんという家政婦さんについて、小さな声で説明を始めた。
「もともと、花江さんは森崎さんたちの紹介で来た家政婦さんなんだ。父が亡くなるまでは他の人もいたけれど、今は僕と花江さんの二人で家に暮らしている。凜さんの食事や家のことも花江さんにお願いすることになると思う」
朔弥さんのご自宅は広いと聞いていたし、お仕事も忙しいだろうから、どなたか家政婦さんは雇っているとは思っていたけれど。住み込みでそんな長い間暮らしている方がいるとまでは思っていなかった。――家政婦さんなんて、お世話になったことがない。身内でもない人に、身の回りのお世話を頼むなんてなんだか悪い気がしてしまう。
うまくやっていけるかしら。
「僕と凜さんの結婚が『形だけ』っていうのは、花江さんには知られたくないんだ。だから、こういう話は外でしたい」
私は頷いた。
――しかも、こんなややこしい事情もあるのね。
「バレたからといって、それですぐにどうこうなるわけじゃないけれど。できるだけ家でも仲がよい新婚夫婦と報告してもらえるようにしたいんだ」
「朔弥さんも大変ですね。ご自宅でも気持ちが安らげないじゃないですか?」
そんな見張られたような生活は大変そうだ。
お仕事だって大変でしょうに、家でも気が抜けないなんて、疲れがたまってしまいそう。
朔弥さんは微笑んだ。
「慣れてしまえば、こんなものかなあという感じだ。いろいろと報告はしていると思うけれど、それ以外は、普通の家政婦さんだよ。お世話になっている」
「――私も、できるかぎりの家事はやりますね」
「うちの家は広いから、無理しなくていいよ」
――何もできないと思われているかしら。
確かに、お母さんに何でもやってもらっている実家暮らしの病人だけれど、結婚相手に何も期待されなのは少し寂しいわ。
私は朔弥さんにガッツポーズをして見せた。
「これでも、料理なんかも、できないわけではないんですよ。得意料理は、オムライスです」
そう言うと、朔弥さんは少し驚いた顔のあと、笑った。
「僕、オムライスは大好物なんだ。いつも、お昼に食堂で食べてる」
「本当ですか? じゃあ、練習しておきますね」
私は空を見上げた。
青い空に映える葉桜は、春の始まりを告げているよう。
結婚相手と新居の家電を選んで、公園に座って、微笑んで、夢の中にいるようだ。
こんな瞬間が自分の人生に訪れるとは思っていなかった。
朔弥さんの抱えた複雑な事情だとか、そういうことは、気にしても仕方のないことだから忘れてしまおう。そういうことを考えていたら、私の心臓は重くなるばかりだから。
私は朔弥さんの手に、自分の手を重ねると微笑んだ。
「お家の中でもずっと『LL計画』ですね」
朔弥さんは視線を泳がせて、頷いた。
「――そういうことに、なる――うん。なるね」
重ねた手はごつごつとして骨ばっているけれど、かわいらしい人だ。
最初に見た写真の無機質な印象はもうどこかへ飛んで行ってしまっていた。
「少し、落ち着いたかな。どこか、空いているお店で、お昼を食べて、帰ろうか」
立ち上がった朔弥さんの手を、私は離さなかった。
「……凜さん、あの……?」
「どこで、誰が見てるかわかりませんから。仲良く見えるようにしましょう」
そう言って笑うと、朔弥さんは「そうだね」と鼻をかいてから、思いの外強く、手を握り返して来てくれた。
***
朔弥さんに家まで車で送ってもらった。
家の前に駐車すると、玄関からお母さんが出てきて、朔弥さんに頭を下げた。
朔弥さんは「お土産です」と、街で買った羊羹を差し出した。
――この前、家に来たときに持ってきたものと同じものだ。
家族4人で夕食を囲む。
「最近は、リモコン式のテレビもあるのね。熱心に売られそうになったわ」
「家にテレビがないのに、わざわざ買ってくれたのか」
今日の話をすると、お父さんが驚いたような顔になった。
「そうかあ。ありがたい話だな」
「……そうね」
私は沈黙してから、もくもくとご飯を口にかきこむ克也に話を振った。
「克也の試合はどうだったの?」
今日は野球部の試合があったので、私が出かけている間、お母さんとお父さんは試合を見に行っていたはずだ。二人とも、試合を見に行くのは初めてだったはず。
「俺、ホームランだしたんだぜっ」
得意げに言う克也の横で、お母さんが言った。
「頑張ってたわね。――それで、凛。引っ越しは、いつにするの? 向こうは、家政婦さんがいるとは聞いているけれど、お母さんも通える距離だから……」
克也は少ししょんぼりした顔で、ご飯をお替わりした。
私は首を振った。
「来週末の予定だけれど、できるかぎり頑張ってみるから、大丈夫よ」
何か言いたげなお母さんに、私は微笑んだ。
「お母さん、これからしばらく、お昼ご飯は私が作るわね。オムライスを練習しなくっちゃ。朔弥さんがお好きなんですって」
そう言うと、お母さんは「そうなのね」と半分泣きそうな顔で頷いた。
その顔を見て、私は、早く朔弥さんの家に行きたいと思った。
私の一挙一動に、感情を乱すお母さんを見るのは疲れてしまう。
小さい頃から、私のためになんでもしてくれる人たちにこんなことを思ってしまうのは――良くないことだろうけれど。
ごちそうさまと、席を立った克也の背中が遠く見えた。
もう少し、野球の試合の話を聞きたかったわ。
お母さんはお茶を飲むと、お父さんもソファに移動して、食卓に私と二人だけになったのを確認してから、声を落とした。
「凛――真智子ちゃんを覚えている?」
「ええ。――帝都病院の小児病棟で一緒だった――。昨年、亡くなられたのよね。」
真智子ちゃんは、私より少し上の、石心症の患者さんだった。
私より先に退院して行って、依頼、年賀状のやりとりだけはしていたけれど、昨年、亡くなったとの知らせだけ、お母さんから亡くなった大分あとに聞いた。
私がショックを受けないように、しばらくお母さんは黙っていたのだ。
「真智子ちゃんはね、――議員さんか何かされてる方の“2号さん”だったのよ」
「……そうなの」
“2号さん”――愛人、ということだ。
「石心病の患者を好む、好事家の方がいるとはね、聞いていたのだけれど。――真智子ちゃんもかわいらしい子だったから。お葬式は豪華だったわよ」
世間的に、石心病は、『美人病』などと言われたりしている。
男児も女児もかかるが、女性の方が予後がよく、思春期を乗り越え、成人するのはほとんどが女性だ。成人してしまえば、ほとんど服薬せずとも進行はゆっくり。肌色が白く見え、か弱いイメージ、そして、25歳程度で花が散るように死ぬことからそんな名前で呼ばれるのかもしれない。
――お金と引き換えに、後腐れない近いうちに死ぬ若い女性を愛人に。そういう人がいるとは風の噂に聞いたことはあったけれど。顔も名前も知っている人が、そういう世界にいたとは、思わなかった。
「最初、お父さんが凜に見合い話をって持ってきた時は、朔弥さんもそういう方なんじゃないかって、心配したけれど。松家先生も太鼓判を押していたし、とっても素敵な方よね」
黙り込んだ私に、お母さんは微笑んだ。
「来週は毎日オムライスでいいわ」




