22.動物園(2)
「――凛さん」
朔弥さんが困惑したように名前を呼ぶ。
「――朔弥さん、なにか、雑談をしてもらえますか? 気がまぎれるような」
「……え?」
朔弥さんは少し困惑した返事のあと、数秒黙ってから、ゆっくりと話し出した。
「……ええと、何を話そうかな。……そうだ。パンダって、あんなに可愛い顔をしてるけど、本当は熊なんだよね」
「……そうですね?」
「でも、とても可愛くて、珍しいから、動物園でも大人気で、いつもみんなから見られている。笹をむしゃむさ食べて、タイヤを掴んで転がれば、歓声だ」
朔弥さんは視線を落とした。
「けれど――もし、パンダが、そんな見世物は嫌だと、全てが嫌になって暴れたらどうなるかな、と僕は想像することがあるんだ。立ち上がって、檻を壊して、自分を鑑賞している客を殴り倒して――白いところが血で赤く染まる、そんな光景を、目に浮かべてしまうことがあって……」
朔弥さんははっとしたように口を押えた。
「ごめん、何でこんな話を……」
私は思わず、くすくすと笑った。
「パンダを見ながら、そんなことを考えているのは、きっと朔弥さんだけですよ。闇を感じます」
「……笑うところかな」
「笑い話ではないかもしれませんけれど。あまりに想定外のお話で、汗がひいてしまいました。ありがとうございます」
しゃっくりが驚くと治る、ではないけれど、突然の突拍子もない話で、心臓を締め付けるような感情はどこかへ、消えてしまった。
「外国のパニック映画などで、ありそうですね。――鳥が人を襲う怖い映画があったと思いますけれど、そんな感じで。白い毛が赤く染まるというのは、絵的にインパクトがあって、話題作になりそうです」
そう言うと、朔弥さんはため息を吐いてから、頭を掻いた。
「凜さんと話していると、僕は自分がとても面白い人間だと調子に乗って、どうしようもないことまで、ペラペラと話してしまう」
「――朔弥さんは、面白い人ですよ」
顔からハンカチをそっと離すと、頬に残っていた汗がすでに乾いていたことに気づいた。私は少し笑って、彼を見た。
「――先ほどの、大学生のカップルの話のせい、だったりする?」
私は苦笑した。気づかれていたのね。
「――私も、こんなに自分が過剰に反応すると思いませんでした」
あんな、ただの他人の軽口に心を乱すなんて、今までなかったのに。
その直前、朔弥さんとの時間が楽しかったばかりに、それが刹那的なものであることを思い知らされて、冷や水をかけられたような気持ちになって、苛立ったのだ。
「無邪気に話すあの子に、苛ついてしまって。――仕方がないんですけどね。もし私が病気じゃなくて、普通の大学生だったら――きっと、あの子みたいに『ドラマ泣いちゃった』なんて笑ってたと思いますし」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「――自分事にならなければ、誰も実感なんてわかないものですもんね。私だって、新聞の事件や事故のニュースを『怖いわね』なんて、お母さんと話したりしますもの。それと同じです。――私ったら、自分を棚に上げて、嫌だわ」
「『仕方がない』なんて、言わないでくれ」
朔弥さんはうなだれた。それから、こちらを伺うように見ているあのカップルを睨みつけた。
「ドラマのように、病気で綺麗に死ねるわけがないと、言ってこようか」
「いいですよ、そんなことしなくて」
本当に立ち上がりそうな勢いだったので、私は慌てて手を握って止めた。
「――朔弥さん、怒るんですね?」
「僕は――いつも、どこかで苛ついてるんですよ。パンダが暴れる妄想をするくらいには」
「そうは見えないですよ。いつも、優しいじゃないですか」
私は微笑んだ。
「――朔弥さんがお腹にいたころに、お母さまが顔が優しくなったから、きっと生まれるのは女の子だと思っていたという話を花江さんから聞いて、しっくりきましたもの」
「――え?」
朔弥さんは目を丸くした。
「……それで、エミリー人形を買った、とお聞きしましたけど……」
「……そうなんですか?」
「知らなかったんですか?」
「――いえ、僕を女の子だと思っていたという話は、聞いたことがあります。小さい頃の服を見ると、花柄だとか、女の子のような柄が多くて――でも、」
朔弥さんは口ごもった。
「どうしてその話を花江さんが――花江さんが、家に来たのは、僕が12歳の時ですし――やっぱり……」
朔弥さんは、唇をかすかに噛んで視線を落とした。
そういえば、花江さんが朔弥さんの家に来たのは12歳の時と、そんな話を前にも聞いた気がする。花江さんと話している時は、そんな違和感には気づかなかったけれど。朔弥さんはしばらく黙り込んでから、微笑んだ。
「……森崎さんか、どなたから聞いたんですかね」
私は花江さんから、その話を聞いた時のことを思い出した。
人づてに聞いた、というような話し方ではなかった気がするけれど。
「それより」と朔弥さんは立ち上がった。
「――家に帰りましょうか。動物園まで付き合わせてしまって、疲れたでしょう」
「いいえ、とても楽しかったです」
そう言うと、朔弥さんは微笑んで私に手を伸ばした。
「家で、ゆっくりしましょう。エミリーにお相手がもうすぐ来るよ、って報告しないと」
私は頷くと、朔弥さんの手を取った。
朔弥さんと帰るあの家を、仮の結婚生活の家であっても、私は『我が家』と呼びたい気がした。




