17.様変わりした病棟で
石心病の入院患者の小児病棟は、本館から離れた別館にある。
レンガ造りの洋館風の外観は、十年前と同じく静かに佇んでいた。けれど扉を開けた途端、そこに広がる空気は、私の記憶とまるで違っていた。
病棟の中に足を踏み入れた途端、私は「わあ」と小さく歓声を上げた。
――そこは、かつて自分が日々を過ごした記憶の場所とは全く違った場所だった。
まず目に入ったのは、病棟を入ってすぐ、リビングのような面会スペースの壁に、カラフルな壁新聞が貼ってあったこと。大きな模造紙に、絵や習字などが貼り付けてあり、『『調理室探検!給食のひみつ』や『たんぽぽの綿毛は何個ある?』など、子どもたちの目線で綴られた記事と手描きのイラストが並び、模造紙いっぱいに春の色が広がっていた。
「楽しそうですねえ。私のいたころは、こういうのはなかったですけど」
見ているだけで、ワクワクするような気持ちになる。
壁新聞を指さすと、松家先生は微笑んだ。
「それもね、継宮先生の提案で始めたのよ。ほら、あと、庭園も」
松家先生の指さす庭園を見ると、花壇には赤や黄のチューリップが咲き、合間には壁新聞の記事によると、子どもたちが蒔いたと思われる小さなたんぽぽの花も顔を出していた。
「適度に身体を動かした方がいいということで、花壇のお世話は子どもたちにやってもらっているの。継宮先生が療法士さんを連れてきてくれてね」
私はなんだか気まずそうにしている朔弥さんを見つめた。
――本当に患者さんのことをよく考えてくれている人なのね。
当時の殺風景だった病棟を思い出し、私は改めてぐるりと周囲を見回した。
――昔は無菌室のような空間だったここが、しっかりと、人が生きている空間に変わっている。
「――どうせ入院するのだったら、今が良かったです」
そう言うと松家先生は「卒業生がそう言ってくれると、嬉しいわ」と笑った。
「ええと、書架を設置するのは看護師室の隣でしたっけ?」
朔弥さんはそう言って話題を変えた。
「そうそう。こっちね」
松家先生はすたすたと、看護師さんが常駐して待機している看護師室へ向かった。
部屋の前まで行くと――、
「あれ、朔弥先生!? と、もしかして凛ちゃん?」
元気な声が聞こえた。
「沢田さん? ……ですよね!」
『沢田』という名札をつけた看護師さんは、私が入院中にもお世話になった看護師さんだった。
「久しぶりね! 綺麗になったわねえ。松家先生から、朔弥先生が凜ちゃんと結婚したって聞いて、驚いたわよ」
沢田さんは昔と変わらない元気な声で、受付から手を振ってくれた。
私は、彼女が手にペンと、何かテープのような物を持っているのに目を留めた。
治療に使う医療用のテープに、イラストを描いている。
私は自分の入院当時を思い出して、微笑んだ。
「沢田さん、今は何を描いているんですか?」
沢田さんは独特なイラストを描く人で、いつも、治療時に貼られるテープに描かれた少し変わったデザインになったキャラクターに笑わせられたものだ。
「今は『おばけのP太郎』を描いてるわ。――見る?」
そう言って見せてくれたので、のぞきこんでみると、何だか目が小さいP太郎がいた。
「――いつも、子どもたちに何か違うって言われちゃうのよね」
入院していた時と変わらない調子で、沢田さんは困り顔をした。
「目が小さいんですよ。もう少し、大きくしてみたら、似ますよ」
そう言うと、沢田さんは私に向かって微笑んだ。
「さすが、『凛先生』」
「『凛先生』?」
朔弥さんが首を傾げた。松家先生が、補足してくれる。
「凜ちゃんは、絵が上手でね。いつも沢田さんの、こういうイラストの手伝いをしてくれてたの」
私は当時を思い出して微笑んだ。
「こういうテープにイラストを描くのを、“仕事”にしてたんですよ、私。入院中に」
今の病棟のように、壁新聞を作ったりだとか、お花を育てたりだとか、そういうことはやっていなかったので、入院中は空白の時間の方が多かった。だから、そういう仕事をもらえるのは、自分が必要とされているようで嬉しいことだった。
「そうだ」と私は顔を上げた。
「朔弥さん、しばらく松家先生とお話などありますよね? 私、久しぶりに沢田さんのお手伝いをしてもいいですか?」
「はい、少し話すけど……いいのかな」
驚いた顔の朔弥さんの言葉の上から、沢田さんが昔と変わらない様子で言った。
「凜ちゃん、いいの? 助かる~」
私は看護師室に入ると、沢田さんからペンを受け取り、最近流行りだと思われる漫画のキャラクターたちを、一定間隔でテープの上に描いた。……いつも自分のスケッチブックに描くだけだから、誰かに見てもらえると思うと、楽しいわ。
「わ! 凜先生、画力が上がったわね!」
沢田さんが驚いたように両手を上げた。
そう言ってもらえると嬉しい。退院してからは絵画教室に通ったりもしてるし。
――学校も行ってないし、人に自慢できることのない私の唯一の特技を褒められると、とっても嬉しくなる。
「――本当。朔弥さん、凜さん、とってもお上手よ」
後ろからのぞきこんだ花江さんが、朔弥さんを手招きした。
テープの上に並ぶキャラクターたちを見て、朔弥さんも「すごい」と呟いた。
私は鼻高々な気持ちになって、どんどんキャラクターたちを量産して、途中でふと手を止めて、朔弥さんに言った。
「リストにあった漫画、うちの本棚に全部揃っているんですよね。……読まれなくなって眠っているくらいなら、ここで子どもたちに読んでもらえた方が嬉しいです」
最近は読んでいないので、寄付して読んでもらえるなら、その方が嬉しかった。
「――それは、有難いな」
朔弥さんはそう言って、微笑んだ。




