15.エミリー人形にお相手を
「あちらが、朔弥さんのお部屋ですよ」
広い大学病院の中を花江さんの後をついて歩いて行く。
私は患者として長い間この病院のお世話になっていたけれど、職員側の施設に足を踏み入れるのは初めてなので、新鮮な気持ちがする。
「あそこですね」
私は『特任准教授 継宮』と書かれた札の下がった部屋を指さした。
扉をノックしたけれど、返事がない。
「『不在』の札がなければ、中にいらっしゃると思うんですけどねえ」
確かに。几帳面な朔弥さんは部屋を留守にするならば、きちんとわかるようにしてそうだ。
ドアの横には黒電話が据え付けられていて、長いコードが壁をつたっている。磨き込まれた木の床と、すりガラス越しのぼんやりした光が、ここが病院の職員区画だということを静かに告げていた。
「入ってしまっていいですよ」
花江さんがそう言ったので「失礼します」と扉を開けた。
中では……クッションのひっくり返ったソファの上に、鞄の中身が散乱していた。
その真ん中で、エイミー人形を両手で抱えた朔弥さんが、探偵のような口調で、
「……これは事件かもしれない」
と話しかけている。
その真剣な表情と人形の組み合わせが、あまりにも可笑しくて――同時に、どこか胸が温かくなって、私は思わず笑い声を漏らした。
「ふふふふふ」
「り、凛さん……? 花江さんも?」
朔弥さんは驚いたように顔を上げると、さっとエミリーを背後に隠した。
顔が赤くなってる。
「書類をお忘れだったので、届けに来たんです」
私は朔弥さんに、忘れ物の書類を渡した。
「あっ、それ! 病棟に置く書架の購入計画書だ。探してたんだ……、助かったよ」
「『事件解決』ですか?」
そう聞くと、朔弥さんは照れたように頭を掻いた。
「解決です。――松家先生に渡しに行こうと思ってたところで……、助かったよ」
「そうなんですか? 私、せっかく来たから、松家先生にご挨拶をしたいなと思ってたんです」
私は病院前の和菓子屋で買った、『帝都大学せんべい』の箱を見せた。
私が入院していた時だけれど、松家先生はこのおせんべいが好きでよく食べていたのを思い出し、手土産にと病院に入る前に購入したのだ。
「あ、それ、美味しいよね。松家先生お好きだから、喜ぶと思うよ」
朔弥さんは微笑んだ。
「忙しくて、近くで売ってるのになかなか買いに行けないと言っていたから」
「そうですか? 良かったです」
「今から、松家先生のところに行くから、一緒に行こうか」
「本当ですか? そうしましょう」
ご挨拶に行くなら、朔弥さんも一緒に行ければ一番いい。
「――朔弥さん、エミリーは置いて行った方がいいですよ」
花江さんに言われて、朔弥さんはエミリー人形を手に持っていたことに気付き、あわてて棚に座らせて、自然に言った。
「じゃあ、ちょっと松家先生のところに行ってくるよ、エミリー」
それから、はっとしたように私を見て、恥ずかしそうに床にしせんを落とした。
「……すいません、話しかけるのが癖になってて……」
「ぜんぜん、気にしてないですよ。行ってきますね、エミリー」
私もひらひらと、赤いエプロンワンピースの人形に手を振ってみた。
「朔弥さん、ご結婚されたのですし、エミリーを病院に持って行く必要もないのでは、ありません?」
教授室を出たところで、花江さんが少し言いにくそうに朔弥さんに声をかけた。
「――何だか、ずっと持ち歩いていたせいで――持って来ないと、怒られるような気がして」
朔弥さんは叱られた学生さんのように頭を掻いて言った。
「怒られる――? エミリー人形にですか? 人形は怒りませんよ」
怪訝そうな花江さんに、朔弥さんは困ったように笑った。
「いえ、まあ、そうなんですけど」
――なんだか、朔弥さんと花江さんは雇い主と家政婦さんというよりは、保護者と子どものようだわ。小さい頃から面倒を見てもらっていると、そういう間柄になるのかしら。
家族がいないと言っていた朔弥さんだけれど、花江さんはずっと彼を見守ってくれていたようで、私は微笑ましくなった。――と同時に、1つ、思いついたことがあったので口に出してみた。
「確かに、人形って魂があるように感じますものね。――でしたら、エミリーにもお相手をお迎えしてあげたら、どうでしょうか?」
「お相手とは?」
「――男の子のお人形をです。朔弥さんは、私と結婚してしまいましたからね。エミリーも寂しいでしょうから」
そう言うと、朔弥さんは立ち止まって、考え込んでから、頷いた。
「それは、いいアイデアに思う。うん」
「それでしたら――」
花江さんが少し早口で口を挟んだ。
「エミリーシリーズの仲間に、エミリーのボーイフレンドの設定の『ベンジャミンシリーズ』というのがあるんですよ。そのエミリーは、クラシックエミリーですから、クラシックベンジャミンがぴったりですね」
「花江さん、人形にお詳しいんですね」
そう言うと、花江さんは照れたように、でも少し寂しそうに笑った。
「――銀丸デパートの子ども売り場が、クラシックシリーズの正規取扱いを今もしていると思いますよ」
「――では、今度、お相手を探しに行ってみようか、凜さん」
朔弥さんは、私を見て頷いた。




